第二十一話 お酒、飲みませんか
金曜日も、樗木真那は朝から気が抜けなかった。
後始末がまだ残っていたからだ。
昨日の障害で止まったものを、一とつずつ戻していく。一時対応を入れたところを元に戻して、待たせていた先には終わったと知らせる。書簡帳の返事も、まだ残っている。
午後に、悪魔の僕を呼び出した。復旧したあとに残っていた不具合の件で、話はすぐに済んだ。原因は向こう側にあって、すぐに対応すると言われた。
そのとき、お互い、お疲れ様でした、と言われた。
仮面の奥で何を思っているのかは、分からない。それでも、その一言だけが、なんとなく残った。
そのあとも連絡と報告が続いて、気付いたら窓の外が暗くなっていた。
事務所を出るとき、鏑木も小檜もまだ残っていた。お疲れ様です、と声をかけて、薄い照明の階段を下りる。
もう、何も考えられなかった。
◆◆◆
最寄り駅の改札を抜けたところで、名前を呼ばれた。
「樗木さん」
振り向くと、若月湊が立っていた。相変わらず、近づいてくるのが分からない。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
並んで歩き出す。湊の背中が、いつもより曲がっている気がした。
駅を出ると、外が思ったより明るかった。
見上げると、月が出ていた。丸い。欠けているところが見当たらない。雲もない。街灯より、そちらのほうがよほど目立っている。
「明るいですね」
「満月ですね」
それきり、二人とも黙って歩いた。話すことが思いつかなかったし、思いつかなくても困らなかった。
商店街を抜けて、住宅街に入る手前にコンビニがある。その明かりが見えてきたところで、湊が口を開いた。
「樗木さん。お酒、飲みませんか」
真那は湊を見上げた。
「お酒、ですか」
「はい」
「若月さん、飲むんですか」
「たまに」
この人が甘いもの以外を口に入れているところを、真那はあまり見たことがない。生姜焼きも、コロッケも、鍋も、全部こちらが持ち込んだものだ。
それでも、断る理由は何もなかった。
「良いですよ。一緒に飲みましょう」
自動ドアをくぐると、暖房の空気と、レジ横の揚げ物の匂いが一緒に来た。
湊は酒の棚の前で足を止めて、そこからしばらく動かなかった。
真那が籠を取って戻ってくると、湊の籠には缶が三本入っていた。桃のチューハイ、白いカクテル、それから苺と書いてある何か。どれも、絵が可愛らしい。
「それ、お酒ですか」
「お酒です。三パーセントです」
「ジュースでは」
「お酒です」
言い切られた。
真那は自分の籠にビールを二本入れて、つまみの棚へ回った。炙ったささみ、ビーフジャーキー。
レジに向かう途中で、湊がまた足を止めた。今度はスイーツの棚だった。
プリンと、シュークリームと、ドーナツが、籠に入っていく。別の棚にあった期間限定のチョコレートも、いつの間にか籠に入っていた。
「若月さん」
「はい」
「今、お酒を買いましたよね」
「買いました」
「そのうえで、甘いものも買うんですか」
「お酒は、甘いもののうちに入らないので」
真那は口を開いて、そのまま閉じた。
湊の顔が、大真面目だったからだ。
真那はレジ横のケースから、一番大きい唐揚げを頼んだ。会計を済ませて外に出ると、二人ともコンビニの袋を提げていた。
アパートまでの道は暗くて、月だけが明るかった。
湊の部屋のローテーブルに、二たつの袋の中身を並べる。缶が五本と、肉と、甘いもの。並べてみると、どちらがどちらのものかは一目で分かった。
真那はビールのプルタブを起こした。湊は桃のチューハイを開けている。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
缶を軽く合わせると、小さく鈍い音がした。
一と口飲む。冷たい。苦い。泡が舌の上に残って、それからすっと消えていく。一週間分の乾きに、まっすぐ染みていった。
真那は長く息を吐いた。
「……生き返ります」
「良かったです」
唐揚げの袋を開けると、胡椒の匂いが立った。一とつ摘まんで口に入れる。まだ温かかった。衣にまだ硬さが残っている。噛むと、中から鶏の脂が出てくる。塩気が強い。そこへビールを流し込むと、苦さが脂を洗って、また次が欲しくなる。
湊は缶を片手で持って、ちびちびと飲んでいた。真那はしばらくそれを見ていた。
缶には桃のイラストが描かれている。全体的に桃色の、可愛らしい缶。長身の男には不釣り合いに見えて、湊らしい気もしていた。味が少し気になった。
「美味しいですか」
「美味しいです。甘いです」
「……そうですか」
真那はジャーキーの袋も開けた。
「今日、帳面を七回くらい開き直しました。返事が来たかどうか、開かないと分からないので」
「合図、出ないですもんね」
「出ないんです。向こうも同じことをしてるはずなんですけど」
「たぶん、同じ時間に開いてますよ」
「絶対そうです」
二人で笑った。
「昨日なんて、一日で五回着替えました」
「五回」
「行って、戻って、また行って、また戻って」
「……それは、大変でしたね」
「あと、同じ説明を何回もするじゃないですか」
「します」
「途中から、自分が何を言ってるのか分からなくなるんですよね。口だけ動いてる感じで」
「分かります」
湊が深く頷いた。頷きすぎていた。
「そういう日に限って、上に確認しないと決められないことが来るんです」
「来ますね」
「来ますよね」
また笑った。笑うと、少しだけ疲れが軽くなった気がした。
缶が空いて、次を開ける。ビールの二本目は、一本目より苦く感じなかった。
いつのまにか、湊は片膝を立てて、そこに肘を置いていた。いつもきちんと座っている人なのに、今日は崩れている。
足が痺れかけて、真那は座り直した。正座は、とっくに崩れていた。
湊が缶をテーブルに置いた。二本目になっていた。白いカクテルだ。
そのまま息を吐くついでみたいに、言った。
「仕事、大変でした」
「お疲れ様です」
しばらく、袋の鳴る音だけがしていた。
湊が缶を持ち上げた。すぐには口をつけずに、飲み口に視線を落とす。
「……相手が何を求めてるかは、聞けば分かるんですけどね」
何の話なのか、真那にはすぐには分からなかった。たぶん、仕事の話だ。
「若月さんは、優しいんですね」
湊が顔を上げた。
「……そんなこと、はじめて言われました」
「優しいですよ。いつも、こっちの話ばっかり聞いてくれるじゃないですか」
「聞くのは、得意なので」
「じゃあ、今日はわたしが聞きます」
湊が、目を伏せた。
「……何を話せばいいのか」
「何でも良いですよ」
湊は黙った。
長かった。真那はジャーキーを噛みながら待った。缶の縁を指でなぞる音がして、それも途中で止まった。
それでも、何も出てこなかった。
真那は少し考えてから、言った。
「……好きなものとか」
「甘いもの」
「知ってます」
真那は笑ってしまった。
笑ったら、体からすっかり力が抜けた。ローテーブルに肘をついて、頬に手を当てる。
部屋が暖かい。腹も膨れている。缶の中身は、まだ少しだけ残っていた。
湊は、テーブルの上を見た。チョコレートのパッケージを見て、口を開いた。
「冬季限定のチョコレートは、もうすっかり定番になりましたけど、口溶けの良いものがあるんですよね。毎年楽しみなんです」
「ああ、冬になると見ますよね」
「苺と抹茶は定番ですけど、去年はヘーゼルナッツがあって、それも美味しかったんです」
「ヘーゼルナッツですか」
「今年はまた、苺と抹茶ですね。他の味も出てくれると嬉しいんですけど。あ、でも、口溶けの観点で言えば、プレーンなものが一番楽しめる気はします」
「……そうなんですね」
湊の声が、耳に心地良かった。
話題は、仕事の話に移った。職場にこんな人がいる。こんな人もいる。
真那は頷いた。相槌を打つ。
言葉は聞こえているのに、意味が少し遅れて届く。届いたころには、もう次の言葉が来ている。
眼鏡の奥の目は、こちらを見ていなかった。テーブルの上の箱を見ている。ときどき指が伸びて、箱の角をそろえていた。
また、甘いものの話に戻る。
この人は、甘いものの話をしているときだけ、言葉が多い。楽しそうに見える。
瞼が重い。開けているつもりだった。
帰らないと、と思う。廊下に出て、三、四メートル。すぐに帰れる。
声が、だんだん遠くなっていく。




