第二十二話 寝落ち
若月湊は、自分がこんなに喋る人間だっただろうかと思った。
「あと、アルコールを使ったチョコレートも、毎年の楽しみで。今年はオンライン限定でプレミアムが発売されて、高いんですけど美味しそうで」
樗木真那の相槌は、柔らかかった。
「はい」
優しいと言われたのは、はじめてだった。
今日はわたしが聞きます、と言われた。
だから、話している。思いつくままに喋ると、中身は甘いものの話ばかりになった。これで良いのだろうかと思ったけれど、止まらなかった。
「ただ、アルコールを使っているので、職場では食べられないんですよね」
「はい」
ふと、職場で言われたことを思い出す。
「この前、もらったベーコンチーズパンを食べてたら、珍しいもの食べてるって言われました」
「はい」
「逆のことを言う先輩がいるんです。甘いものを食べてると、珍しいもの食べてるねって。その人は、甘いもの食べない人なんですよ」
「はい」
「契約書の文面を書くのがうまい人がいて。同じことを書いてるはずなのに、あの人のは揉めないんですよ」
「はい」
「あと、上司が、子どもの用事で休みを取る人で、いない間の段取りを全部置いていくんですよね。すごい人なんです」
「はい」
缶を持ち上げる。中身がなくて、三つ目に手を出した。苺の味だった。甘酸っぱい。デザートみたいなのに、アルコールの香りはしっかりとあった。喉が熱くなる。
その味を舌の上で転がしてから、口を開いた。
「……一つの相手に、時間をかけすぎだと言われました」
「はい」
言ってから、言わなくても良いことだった、と思った。
あのとき、最初は分かっていなかった。記録を見返してはじめて、そうだと分かった。
誰にも話していないことだった。
「自分でも、なんでそうなったのか、よく分からないんですよね」
「はい」
誤魔化すように、缶をあおった。苺の酸味が、喉を流れ落ちる。
それでまた、甘いものの話に戻った。季節限定の苺のフラペチーノが美味しかった話。同じ店のストロベリーチーズケーキも美味しかった。ジンジャーブレッドラテは、生姜のぴりぴりする香りがして、でもクッキーっぽい甘さもあって、そこが良い。そういう話は考えなくても、いくらでも出てきた。
「……食べたいものは、すぐ分かるんですけどね」
湊は、小さく笑った。
それ以外は、あまり分からない。
「……そういえば、樗木さんは」
返事がなかった。
顔を上げる。
真那は、寝ていた。
テーブルに肘をついた格好のままだった。頬に当てていた手が、そのまま顎を支える形になっていた。まとめた髪が肩から滑り落ちて、垂れている。
湊は缶を置いて、身を乗り出した。
「樗木さん」
小さく呼んだ。起きない。
二度目は、呼ばなかった。
肩を叩けば起きるだろう。起きて、すみません、と言って、帰るだろう。
起こすのは、かわいそうだった。
駅で会ったときから、この人はずっと疲れていた。歩くのが遅かったし、話すのも途中から少なくなった。座り方も、だんだん崩れていった。一度呼んで起きないのだから、それだけ眠いということだ。
業界の人間で、十二月で、疲れている。休ませておきたかった。
だからといって、このまま放っておくこともできなかった。
隣の部屋までは運べない。運んだとしても、鍵がない。
部屋は暖かいが、このまま床で寝るのは良くない。
ベッドに運んだほうが良い。それはすぐに分かった。
分かったけど、迷った。運ぶとなれば、体に触れることになる。
それでも、床に転がして自分だけベッドで寝る気分にはなれなかった。
近づいて、もう一度だけ「樗木さん」と呼びかけた。起きなかった。
膝の裏と背中に腕を入れて、持ち上げる。それでも起きなかった。
人の重さが腕に乗っている。想像していたより、軽かった。そして、温かい。ビールと脂の匂いがする。
息を詰めて歩く。ベッドまでは数歩で、その数歩が長かった。揺らさないように、足の裏で床を探るようにして進む。途中で腕の位置を直した。直すたびに起きるのではないかと思ったが、起きなかった。
膝で毛布を押しのけて、そっと下ろす。腕を抜くときに髪が引っかかりそうになって、指で逃がした。
真那は、それでも起きなかった。
毛布をかける。
テーブルの脇に置いたままのトートバッグを、枕元に運んだ。
キッチンに立って、一とつきりのマグカップに水を注ぐ。酒を飲んだのだから、夜中に喉が渇く。ベッドボードに置いた。
灯りを落とす。消しはしない。知らない場所で真っ暗だと、起きたときに困るだろう。
真那は、着てきたものそのままだった。それについては、どうしようもない。
真那の髪は、まだ後ろでまとめたままだった。ゴムのところが、枕に押されて歪んでいる。寝るには邪魔そうに見えた。
湊は、手を伸ばした。
髪に触れかけて、止めた。何かを越えてしまう気がした。
真那は、よく寝ていた。
唇が少し開いている。息の音が小さく聞こえた。目を閉じているから、いつもの理知的な光が見えない。少し、あどけなく見えた。
自分が、じっと寝顔を見ていることに気付いた。気まずくなって、目を逸らした。
立ち上がって、部屋を見まわした。
ベッドは渡してしまったし、毛布もない。布団は一組しかない。
湊はビーズクッションに沈んで、脱いだ上着を体にかけた。背中の形にビーズが鳴る。首の角度が良くない。
天井のあたりだけが、ぼんやり明るい。
ベッドのほうから、寝息が聞こえていた。人がいる音だった。目を閉じると、寝息はもっとはっきり聞こえた。
なかなか寝付けなかった。
◆◆◆
湊は目を覚ました。
最初に思ったのは、首が痛い、だった。
窓の外が明るい。土曜日だった。
体を起こすと、ビーズが崩れる音がした。上着が床に落ちる。首を回すと、右側が固まっていた。
ベッドのほうを見る。
真那はまだ寝ていた。毛布の形が変わっていない。カップの水は減っていなかった。
寝顔も、変わっていない。
起こそうかどうか、考えたけど、言葉が出てこなかった。
仕事では、言葉が出てこないことはない。相手が何を言われたいかを考えれば、答えは大体出てくる。
今は、何も出てこなかった。
湊はキッチンに立った。立ったけど、できることは何もなかった。
冷蔵庫を開ける。甘いものしかない。プリン、シュークリーム、ドーナツ、期間限定のチョコレート。
シンクの下には調味料が並んでいる。土鍋もある。けれど、材料は何もない。
電子ケトルでお湯を沸かそうかと思って、やめた。沸かしても、お茶もない。カップも一とつきりで、今はベッドボードに置かれている。
結局、しばらくの間キッチンに突っ立っていただけだった。
◆◆◆
衣擦れの音がした。
振り向くと、真那が体を起こしていた。目が半分しか開いていない。
天井を見て、壁を見て、自分の服を見る。服は昨日のままだ。
それから、床のビーズクッションと、落ちた上着を見た。枕元のトートバッグと、ベッドボードのカップも。
真那の目が、だんだん開いていった。
真那は、緩んだ髪をほどいて、束ね直した。それから、こちらを向いて頭を下げた。
「……すみません」
「いえ」
それ以上、何も出てこなかった。
真那も、そこから先を言わなかった。二人とも黙って、部屋の中に朝の光だけがあった。
湊は口を開いた。
「……朝ごはん、プリンとシュークリームとドーナツ、どれが良いですか」
真那が、こちらを見た。
それから、小さく吹き出した。
「……その三択なんですね」
「はい」
「ちゃんと、食べてくださいね」
「……はい」
真那は立ち上がって、トートバッグを持った。歩き方が、少しふらついている。
玄関で靴を履く真那の後ろに、湊は立っていた。
部屋の前まで送ろうかと思った。ドアを開ければ廊下で、廊下を三、四メートル歩けば、この人の部屋だ。
それだけのことが、今日はできなかった。
真那が、ドアノブに手をかけたまま振り向いた。
「あの」
そこで止まった。続きを探しているようだった。
湊も口を開いて、何も出てこなかった。
結局、真那が先に言った。
「……お邪魔しました」
湊は頭を下げた。それしか、できなかった。
真那は静かにドアを開けた。
冷たい空気が入ってくる。
ドアが閉まった。
◆◆◆
少しして、廊下の先で、もう一とつドアの閉まる音がした。
それきり、部屋は静かになった。
湊はビーズクッションを元の位置に戻した。上着を拾って、ハンガーにかける。テーブルの上の缶を集めて、袋に入れる。
ベッドの毛布を、たたむ。
まだ、温かかった。
手が止まった。
腕が、重さを覚えている。膝の裏と、背中。数歩のあいだ、息を詰めていたこと。下ろすときに、髪が指に引っかかったこと。
それから、寝顔が浮かんだ。見ていたときは分からなかったものが、いま急に形になろうとしている。
湊は毛布を落とした。
床に膝をついて、両手で顔を覆う。
骨張った指のあいだから、息が漏れた。




