第二十三話 買いすぎたので
土曜日も日曜日も、樗木真那は隣の部屋に行かなかった。
若月湊のほうから訪ねてくることもなかった。
ほっとした。どんな顔をすれば良いのか、まだ分からなかったから。
◆◆◆
月曜日、仕事はもう年末がはじまっていた。
年内に済ませなければならない更新と、年が明けたらすぐに動かす魔法陣の準備が、全部一度にやってきた。書簡帳でのやりとりが増える。契約書も、開けば連絡が届いている。
<月と物語りし悪魔>の契約書にも、年内に更新の時期が来る旨の連絡が増えていた。
<理と若木の魔術師>に、儀式室は二たつしかない。また、予定を押さえるのが大変になるだろう。
事務所を出たのは、十時近くだった。
最寄り駅で降りると、商店街のシャッターはもう全部下りていた。街灯だけが光っている。明かりがついているのは、住宅街の手前のコンビニだけだった。
真那は籠を取って、おにぎりの棚の前に立った。角煮と、ソーセージ、チキンライス。隣の棚からチキンサラダ。夕飯と、明日の朝の分。
外に出ると、東の低いところに、欠けはじめた月が出ていた。
階段を上がって、廊下を戻る。隣のドアの前を通る。自分のドアの前でトートバッグから鍵を出して、そこで手が止まった。
ドアの横の郵便受けの蓋が、少しだけ浮いている。
開けると、小さな包みがいくつか入っていた。個包装の焼き菓子だった。透明な袋越しに、きつね色の丸いサブレが見える。塩バター、と書いてある。
一番上の袋に、黄色い付箋が貼ってあった。
――買いすぎたので。若月。
その付箋ごとサブレの袋を抱えて、部屋に入った。
ローテーブルに、コンビニの袋を置く。隣にサブレの袋を並べた。四つあった。
クローゼットを開けてコートを掛ける。部屋着に着替える。
壁の向こうで、冷蔵庫が低く鳴っていた。水の音はしない。洗濯機も回っていない。帰ってきて、もう寝ているのかもしれない。足音のしない人なので、分からなかった。
付箋をもう一度見る。細い字だった。少しだけ、右上がりに傾いている。
たった二日、顔を見ていないだけだった。それなのに、随分と長く会っていないように感じられた。
◆◆◆
火曜日の午後、事務所の奥の棚に向かった。
棚の前に立つ前から、声がしていた。
「おなか すいた」
「おなか すいた」
「せまい」
「うるさい」
十二月に入ってから、ずっとこうだった。
巣箱の口から、金平糖を一粒落とす。隣の壺にも一粒。硝子瓶の一体を、一回り大きな瓶に移す。「うるさい」と言った器は、下の段に離して置いた。
「さむい」
窓際の籠に、布をかける。
「おなか すいた」
「はい、今」
声を聞けば、どれが今すぐで、どれがあとでいいのかは分かる。順番に、手を入れていく。
一番端の植木鉢に、如雨露で水をやった。乾きかけていた土に、水が染みていく。
フウリンソウの花は、俯いていた。
「おなか すいた」
巣箱から、また声がした。真那は如雨露を置いて、そちらへ向かった。
棚を端から端まで見て回って、全部の器に手を入れた。いつも通りだった。
時計を見ると、三時を過ぎていた。机の上には、まだ契約書が積んである。
◆◆◆
その夜、真那は隣の郵便受けの蓋を持ち上げた。
コンビニで一とつ多く買った、牛しぐれ煮のおにぎりを入れる。トートバッグから付箋とペンを出す。
――ありがとうございます。樗木。
蓋を閉めて、数歩歩く。自分の郵便受けを開けると、また包みが入っていた。今度はフィナンシェだった。
――買いすぎたので。若月。
昨日と、同じだった。
着替えて、おにぎりを食べて、それからフィナンシェの袋を一とつ開けた。
金色の、小さな長方形だった。角のところだけ、焼き色が濃い。鼻を近づけると、焦がしたバターの匂いがした。
一と口かじる。表面がほろりと割れて、中はしっとりとしている。そして、しょっぱい。塩の粒が、舌の上に感じられた。そのあとからバターの匂いと生地の甘さが広がった。ふんわりと優しく、香ばしさが鼻に抜けてゆく。
真那は、もう一口かじった。
壁の向こうは、静かだった。
水曜日は、角煮のおにぎりを入れた。自分の郵便受けには、和栗の焼き菓子が入っていた。
――寒くなりましたね。若月。
確かに、寒くなった。朝、布団から出るのに時間がかかる。目覚ましを止めてから、しばらく天井を見ている。
木曜日は、チキンライスのおにぎりを入れた。付箋には、また同じことを書いた。
――ありがとうございます。樗木。
自分の郵便受けには、塩キャラメルのクッキーが入っていた。
――年末が近いですね。若月。
◆◆◆
疲れが、抜けなかった。
寝ても、朝になると体が重い。駅の階段が長い。契約書の同じ頁を、二度読んでいることがある。
十二月だから、と思った。年末は、毎年こうだ。
「樗木さん、休憩取れてる?」
隣の席から、鏑木が声をかけてきた。
「取ってます」
「お昼、食べてなかったよね」
「あとで食べます」
鏑木は、真那の机の契約書の山を見た。
「手伝おうか。更新の照合くらいなら、俺でもできるし」
鏑木の机にも、魔法陣の図面が何枚も広がっている。来月の頭に動かすものだ。この人も、今週は毎日遅い。
「大丈夫です。ありがとうございます」
鏑木は少し黙って、それから、そう、と言ってモニタに戻った。
金曜日の午後、棚から戻ってくると、小檜がマグカップを片手に、真那の机の脇に立っていた。
「精霊は元気?」
「はい」
「精霊の言うこと、全部に付き合ってたらキリがないよ。契約の分だけきっちりやって、あとは受け流さなきゃ」
真那は、すぐには返事ができなかった。
「……そうですね」
「力、抜いてね」
小檜は、ひらひらと手を振って席に戻っていった。
その夜、隣の郵便受けに、ハムと卵のサンドイッチを入れた。
――体調、気をつけてください。樗木。
自分の郵便受けには、塩キャラメルのフロランタンが入っていた。
――無理しないでください。若月。
真那は、しばらくその付箋を見ていた。
それから、新しい付箋にペンを走らせた。
――大丈夫です。樗木。
◆◆◆
土曜日は、電話の音で目が覚めた。
枕元のスマホが震えている。画面に、母、と出ていた。時計は十二時を回っていた。
「もしもし」
「あ、起きてた? 今ね、新宿。一時過ぎにはそっちに着くから」
そうだった。今日は、母が来る日だった。
「……うん。駅まで行く」
電話を切って、しばらく天井を見ていた。ずいぶん長く寝たはずなのに、まだ眠い。
駅の改札から出てきた母は、小さなボストンバッグを一とつ提げていた。
部屋に上げると、母はぐるりと見回した。ベッド、ローテーブル、クローゼット、キッチン。キッチンの棚のところで、目が少し止まった。ガラスのポットが出しっぱなしになっている。中身は角砂糖だ。
「……片付いてるじゃない」
「寝に帰ってるだけだから。紅茶で良い?」
角砂糖のポットに出番はなかった。真那も、母も、紅茶に砂糖を入れない。
「夕飯だけ一緒に食べよう。夜はホテル取ってあるの」
それで、夕飯は新宿まで出て、洋食屋に行った。母が選んだ。
「あんた、どうせお肉でしょ」
鉄板の上で、ハンバーグがまだ音を立てていた。ナイフを入れると、切り口から肉汁が溢れて、デミグラスソースに混ざっていく。一と口。熱い。脂とソースが混ざり合って、甘い。
外は寒かったのに、店の中は暖かくて、窓が白く曇っていた。
「ちゃんと食べてるの」
「食べてるよ」
母はフォークを置いて、こちらの顔を見た。
「顔色、悪いんじゃない」
「大丈夫だよ。年末だから、ちょっと忙しいだけ」
母は、それ以上は訊かなかった。
真那は、付け合わせの人参を飲み込んだ。
「こんな忙しいときに、来なくても良いのに」
「明日、舞台見るの。そのついで」
母はそう言ってから、少しだけ笑った。
「どうしてるかなって思って」
「……うん」
店を出て、母と駅まで歩いた。どちらも何も言わなかった。
◆◆◆
コンビニに寄ってから、一人で大通りを歩いて帰った。
十時近かった。
手前の建物を過ぎると、駐車場越しにアパートのベランダ側が見える。二階の、一番手前が自分の窓で、暗い。
その奥の窓に、灯りがついていた。
真那は、足を止めた。
しばらく、見ていた。
それから歩き出して、角を曲がって、階段を上がった。
隣のドアの前で、立ち止まる。もう遅い。チャイムは押せなかった。
郵便受けの蓋を持ち上げる。おにぎりを入れる。
昨日書いた付箋を思い出して、でもすぐに取りに戻るほどではないと思い直す。
郵便受けの蓋を閉めて、真那は、数歩歩いた。
自分の郵便受けを開ける。クリスマスの柄の袋に入った、塩バターの焼き菓子だった。付箋が貼ってある。
――体に気をつけて。若月。
真那はその付箋を見て、それから包みごと、部屋に持って入った。
◆◆◆
日曜日は、十時過ぎに目が覚めた。
母は今ごろ、劇場に向かっているだろう。
昼前に、部屋を出た。
日曜の商店街は、シャッターが上がっていた。肉屋の店先では、コロッケが揚がる音がしている。ケーキ屋のショーケースには、サンタの乗った小さなホールケーキが並んでいた。
真那はその前を通り過ぎて、コンビニに入った。牛しぐれ煮のおにぎりを、一とつ。
いつもと同じものだった。
大通りを戻ってくると、駐車場越しに、アパートのベランダ側が見えた。昼の光の中では、どの窓も同じに見えた。
階段を上がって、隣のドアの前に立つ。
廊下側には、窓がない。灯りがついているのかどうか、ここからでは分からない。昨日の夜は、ついていた。
チャイムを鳴らした。
返事がなかった。
ドアの向こうから、何の音もしない。足音のしない人だ。日曜の昼で、水の音も、洗濯機の音もしない。
いるのか、いないのか。寝ているのか。分からなかった。
真那はもう一度手を上げかけて、下ろした。
しばらく、そこに立っていた。
部屋に戻って、付箋とペンを取ってくる。机の上に、金曜の夜に書いた一枚が残っていた。
新しい付箋に、ペンを当てる。何を書くか迷って、ペン先を離す。
何度も繰り返して、ようやく書けたのは一言だった。
――大丈夫です。樗木。
郵便受けの蓋を持ち上げた。おにぎりを入れて、付箋を貼って、蓋を閉める。
数歩歩いて、自分の郵便受けを開けた。
空だった。
蓋を閉める。小さな音がした。
部屋に入って、湯を沸かした。紅茶を淹れる。
カップを置いたところで、手がガラスのポットに伸びていた。
蓋に指をかけて、止まる。
カップは、一とつしか出していなかった。
真那はポットから手を離して、紅茶を一と口飲んだ。
温かくて、渋かった。




