第二十四話 離れたくない
土曜日、若月湊は一日、部屋にいた。
朝のうちに、樗木真那を訪ねようかと思った。休みの朝なら寝ているかもしれないと思って、やめた。
昼過ぎ、壁の向こうから話し声がした。二たつ。どちらも女性の声だった。来客なら、邪魔はできない。
夕方、隣のドアが開く音がして、二人ぶんの足音が廊下を離れていった。湊はそのあとで、焼き菓子の袋を持って廊下に出た。
――体に気をつけて。若月。
夜、足音が階段を上がってきた。一人ぶん。
湊のドアの前で、止まった。
郵便受けの蓋が、小さく鳴った。
体が動いていた。ビーズクッションから立ち上がって、キッチンを抜ける。玄関までの数歩のあいだに、少し先でもう一度蓋の音がして、ドアの閉まる音がした。
ドアを開けた。
廊下には、誰もいなかった。数歩先に、隣のドアがある。
湊はしばらくそこに立って、それから、自分の郵便受けを開けた。
おにぎりが一とつ、入っていた。
付箋は、なかった。
チャイムは鳴らなかった。だから自分も、チャイムを鳴らさなかった。
日曜日は、朝に姉から電話が来た。
家族で順番にインフルエンザになったらしい。最後に姉がかかって寝込んでいる。義兄は休んだ分を取り戻すために休日出勤していて、元気になった五歳の姪が一人になっていた。
一日、『ミラクル☆シャイン!』ごっこに付き合った。湊は多分、敵だった。言われた通りに現れて、言われた通りに倒された。ちゃんとやって、と言われて、そのアニメも見ることになった。
帰ったのは夜で、郵便受けには、おにぎりと付箋が入っていた。
――大丈夫です。樗木。
◆◆◆
月曜日の朝、湊が席に着いてPCを開くと、チャットの未読が積み上がっていた。
年末だった。どこの担当先も、年内に済ませたいことを抱えている。
午前中に三度呼ばれた。石の部屋に出て、口上を返して、用件を聞く。更新の段取り、年明けの予定の確認、条項の読み方の問い合わせ。戻って眼鏡をかけ直して、記録をつけて、また呼ばれる。
<理と若木の魔術師>からは、呼ばれなかった。
最後に呼ばれたのは、十二月五日だった。障害のあとの不具合の確認で、話はすぐに済んだ。それから、十日になる。
<若木>との契約は、年内に更新がある。案内は、先週の頭に契約書へ書いておいた。あとは向こうが契約書を開いて、読んで、儀式の段取りをつけて、呼んでくれたら対応できる。
湊の仕事は、呼ばれてから始まる。こちらから呼ぶ手段はない。
予定表には、年内の更新が並んでいる。<若木>のほかに、あと六件。
◆◆◆
火曜日の夕方、対応記録を確認した。
先月末に望月から時間を使いすぎと言われてから、それがずっと引っかかっていた。だから、ときどきこうして自分の記録を確認するようになった。
<若木>の記録を見る。
最後の行は、十二月五日だった。不具合の確認、原因は書庫側、対応済み。三行で終わっている。
その上に障害の日の記録があって、さらに上に契約の結び直しの記録が続いている。前にも確認した通り、十一月の分はやっぱり長い。
十二月に入ってからは、ほかの案件と同じ形になっていた。経緯があって、対応があって、結果がある。要点だけが押さえてある。
ほかの案件と、見分けがつかない。望月に指摘された偏りは、もうない。
通路の向こうで、望月が別の担当と話している。今のところ、こちらに用事はないらしい。
何も言ってこないというのは、うまくいっているということだ。だから、良いことのはずだった。
それなのに、落ち着かなかった。
記録を閉じてから、先月の望月の声を思い出した。次に大きいのが来たら、月岡さんと分けようか。
年末の更新は、大きい。条項が多いし、儀式も一度では済まないかもしれない。望月がもう一度、同じことを言ってくるかもしれない。
断る理由はないはずだった。普通に考えたら手分けできた方が楽だ。
それでも、自分はきっとまた断るだろう。そんな気がした。
隣の席で、月岡がキーを叩いている。湊はモニタに目を戻した。
◆◆◆
水曜日の午前中、呼び出しが入った。<若木>からかと一瞬期待して、違うと分かって小さく息を吐いた。それでも支度して、口上を述べて、対応した。
<若木>以外に六件ある更新のうちの、一件だった。これであと、連絡がないのは<若木>とそれ以外に二件になった。
その中でも、どうしてか<若木>だけが気になっていた。他の二件は、来たら対応すれば良いと考えているのに、<若木>にはそう思えなかった。
午後になって、湊は<若木>の契約書を呼び出した。
机の上に、黒い表紙の本が現れる。開いて、最後の頁まで繰った。
先週の頭に書いた連絡が、そのまま残っていた。
――我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕、謹んで告ぐ。
――<理と若木の魔術師>との契約、年内に更新の刻を迎える。儀式の段取り、追って承る。
向こうの契約書にも、同じ内容が浮かんでいるはずだった。読んだかどうかは、こちらからは分からない。
契約の状態を見る。条項のどこにも、引っかかりはない。書庫の参照も通っている。報せることは、何もなかった。
書けることを探した。
案内は、もう書いてある。同じことをもう一度書けば、催促になる。
障害は起きていない。不具合もない。条項の変更もない。
お変わりありませんか、と書けないことはない。書けば、向こうの本に浮かぶ。けれど、それは業務の連絡ではなかった。
書く手段はある。書く中身はない。
湊は、契約書を閉じた。
引き出しから、個包装のチョコレートを一とつ出す。袋を剥いて、口に入れる。いつもなら、舌の上で溶けるのを味わうが、今はそれができなかった。まだ溶けてないチョコレートを奥歯で噛み砕く。カカオの香りと甘さが、口の中に散らばった。
連絡を取りたい。
いつでもお呼びください、といつも言っていた。それが本心だった。
まだ甘さの残る口に、もう一とつチョコレートを入れる。また噛み砕いて飲み込む。甘さが、湊の中に入り込んできた。
呼ばれたい。
あの魔術師に。顔も知らない。声も分からない。他の魔術師と同じ仮面と灰色のローブの、あの魔術師に。
資料を丁寧に揃えて、並べる手つきに迷いがなくて、しょっちゅう疲れている、あの人に。
もう一とつ。手を伸ばしかけて、止める。代わりに、その手を握り締めた。
この担当を、離れたくない。
湊は、しばらくモニタの前で動かなかった。
仕事でこんなふうに思うのは、はじめてのことだった。
チャットに通知が来た。次の呼び出しだった。湊は眼鏡を外して、立ち上がった。
◆◆◆
その日は、帰りが遅くなった。
階段を上がって、自分のドアの前で鍵を出す。郵便受けの蓋を開けた。
おにぎりが一とつと、付箋。
――大丈夫です。樗木。
いつもは朝に見つけるものが、今日はもう入っていた。向こうのほうが、先に帰っていたらしい。
大丈夫です、と書いてある。日曜の夜と、同じ一言だった。
鞄から付箋を出して、一枚剥がす。
――無理しないでください。若月。
昨日も、同じことを書いた。書けることが、他に思いつかなかった。
冷蔵庫から塩バターのクッキーを出して、廊下を歩く。隣の郵便受けに入れて、蓋を閉めて、戻った。
部屋着に着替えると、キッチンでおにぎりのフィルムを剥がした。角煮だった。
冷えている。電子レンジに入れて、少しだけ温めた。
ローテーブルに座って、かじる。海苔が湿って、歯にまとわりついた。温まった米がほどけて、その奥から角煮が出てくる。脂が溶けかけていて、甘辛いタレが米に染みていた。噛むと、肉の繊維がほろりと崩れる。
黙って、もう一と口食べた。ほんのり温まったタレの匂いが、優しかった。
最後の一口まで、そうして食べた。
それから冷蔵庫の前に膝をついて、一番下の棚からプリンを出した。
淡い黄色に銀の匙を差し入れる。奥まで差し込むと、底に沈んでいた琥珀色のカラメルが割れ目から滲んできた。
掬い上げる。匙の上で、柔らかな黄色に琥珀色が絡んでいる。
口に運ぶ手が、途中で止まった。
匙を持ったまま、湊は動けなかった。
しばらくして、プリンをテーブルに置いた。匙は、その中に立てたままにした。
掃き出し窓を開けると、冷たい空気が部屋着の隙間から入ってきた。
サンダルをつっかけて、ベランダに出る。
空に、月はなかった。星が少しだけ見える。下の駐車場で、車の屋根が街灯を鈍く照り返していた。
息が白い。
仕切り板の向こうに、目をやった。
隣の窓は、暗かった。
灯りが漏れていない。もう寝たのかもしれない。ここからでは分からない。
仕切り板一枚の向こうに、あの人がいる、かもしれない。
そういえば、もう十日以上、顔を見ていなかった。
しばらく、そこに立って仕切り板を見ていた。
冷たい風に気付いて、部屋に戻る。窓を閉めた。音がしないように、ゆっくりと。




