第二十五話 食っちまうぞ
木曜日の朝、樗木真那は<月と物語りし悪魔>の契約書を開いた。
最後の頁に、十日前の一行がある。
――<理と若木の魔術師>との契約、年内に更新の刻を迎える。儀式の段取り、追って承る。
見てはいた。見た日のうちに、更新の一覧にも入れてある。年内に済ませるものは、ほかにもたくさんあった。一とつずつ片付けているうちに、十日が経っていた。
期限には、まだ間に合う。
それでも、もっと早く呼べたはずだと思った。今週は、どうしてか手が遅い。
PCで儀式室の予定表を確認すると、午後の早い時間が空いていた。そこを予約した。
◆◆◆
ロッカールームでローブを羽織る。前の留め具が、一度でかからなかった。指先で探って、もう一度留める。
仮面を顔に当てて、フードを被った。
備品置き場で、銀の短剣と畳んだ布を出す。契約書は自席から持つ。三つ抱えて、廊下を歩いた。
石の部屋で布を広げて、端から順に指で辿る。短剣を抜いて前に置き、あぐらをかく。膝に契約書を載せた。
「これは<月と物語りし悪魔>と<理と若木の魔術師>との契約である。我、<理と若木の魔術師>の一人が、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕との対話を求める。偉大なる<月と物語りし悪魔>の名において、姿を見せよ」
何も起きない。
一呼吸おいて、もう一度唱えた。
空気が動いた。魔法陣の中心から煙が立ち上って、黒い革手袋がそれを掻き分ける。撫で付けた黒い髪、目元を覆う白い仮面、黒いスーツに包まれた細長い手足。灰色の部屋に、白と黒が浮かび上がる。
男は口角を大きく吊り上げた。薄い唇が、三日月の形になる。
「我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕の一人が、<理と若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約に従い、求めに応じよう」
優雅に頭を下げて、姿勢を戻す。
「お問い合わせありがとうございます。ご用件をどうぞ」
「年内の、契約更新の件です」
真那は契約書に挟んできた紙を取り出した。
「こちらが、更新の対象になる条項の一覧です。先月結び直した、<暁の記録の書庫>の参照の上限も入っています。それから、こちらが」
出した紙が、違った。先に見せるつもりだったのは、下にあるほうだ。
「……すみません。こちらが先でした。前回の更新からの変更点です」
「拝見します」
男は短剣の手前まで身を屈めて、掲げた紙を順に見ていった。
真那は、紙の一箇所を指で示した。
「書庫の条項は、以前結び直したときのままでお願いします」
言ってから、同じことをさっきも言った気がした。
男は柔らかに頷いた。
「はい、承知いたしました」
確認は、一とつずつ進んだ。条項に抜けはない。向こうの控えとも合っている。いつもなら、ここまでに半分の時間で済んでいる。言葉が出てくるまでに、どうしても間があいた。
疲れている。今週は、ずっとそうだった。
「では、締結の日取りを決めましょう」
「二十四日の、水曜日はいかがでしょうか。夕方になりますが」
「承知いたしました。二十四日、夕刻に」
男が、何か続けようとした。
そこで、言葉が止まった。
◆◆◆
白い仮面が、こちらを向いたまま動かない。
真那は紙を膝に下ろした。
男が、ゆっくりと身を屈めてくる。短剣のぎりぎりまで。仮面の縁が、刃の真上に来る。フードの内側まで覗き込むようにして、そこで止まった。
悪魔の僕はときどき、こうして顔を近付けてくる。視線を合わせようとしているのだと、思っていた。
けれど、今日は長い。
「あの、どうかしましたか」
男は答えなかった。
仮面の下で、薄い唇が引き結ばれている。三日月の笑みが、ない。
何かを見ている。真那には、それが何なのか分からない。フードの中の自分を見られているのか、その向こうの何かなのか。
男の手が、下りていく。黒い革手袋の指先が、石の床に触れる。
短剣の、こちら側に。
◆◆◆
男が、線を越えた。
真那は、何が起きたのか分からなかった。分かってから、息を呑んだ。
短剣より内側には、入らない。守りは、悪魔の側にかかっている。越えれば、それが及ばなくなる。仮面を保っている魔術も、声を変えている魔術も、全部。
止めようとして、手を上げた。間に合わなかった。
白い仮面が、ほどけていく。
煙が薄れるように、縁から透けて、消えた。
その下から、顔が出てくる。
眼鏡は、なかった。前髪も、後ろに撫で付けられている。いつもとは違う。それでも、分かった。
若月湊だった。
声が出そうになって、飲み込んだ。ここは、仕事の場だった。
◆◆◆
「失礼」
知っている声だった。
湊が、石の床に片膝をつく。座っている真那の上に、背の高い体が屈み込んでくる。左手に肩を掴まれ、引き寄せられた。体温が、近い。
湊の右手が、灰色のフードを後ろに払い落とす。束ねていた髪が、背中に落ちた。
真那の顔は、仮面に隠れたままだった。湊の手は、そこには触れなかった。
耳元に、口が寄せられる。
「どこでこんな呪いを」
低い声だった。敬語ではなかった。
答えられなかった。肩を押さえられていて、息も満足にできない。
ふうっと、息を吹き込まれた。
「んっ……」
抑えていた声が、少しだけ漏れた。
熱いものが、耳から体の中に入り込んでくる。反対の耳から、何かがするりと抜け出ていった。
湊が、それを右手で掴んだ。
靄のようなものだった。尻尾を掴まれて、逃れようとびくびく動いている。甘いにおいがした。お菓子の甘さではない。花の香りだった。
「食っちまうぞ」
靄は、しゅんと消えた。
肩が離される。
体から、力が抜けた。前に傾いで、石の床に両手をついた。冷たい。
耳が、熱かった。
◆◆◆
顔を上げると、湊は立っていた。
短剣の、こちら側に。
仮面のない顔で、真那を見下ろしている。黒いスーツと、黒い革手袋と、撫で付けた髪。仮面だけが、どこにもない。
湊は一歩下がって、短剣の向こうに戻った。
戻っても、仮面は戻らなかった。
真那はそれを見上げていた。
「わたしが何も言わなければ、今日のことは誰にもばれません」
咄嗟の言葉だった。
自分の声は、まだ少しずれて聞こえた。ローブの魔術は、何も変わらずに効いている。
湊は、首を振った。
「インシデントは、報告しなければならないので」
真那は、それ以上、何も言えなかった。
湊は短剣の向こうに立って、真那を待っている。
手が、床の短剣に伸びた。握って、持ち上げる。湊は、ただ、立っていた。
「我、<理と若木の魔術師>の名において、対話の終わりを告げる。<月と物語りし悪魔>の従順なる僕よ、<月と物語りし悪魔>の名において立ち去れ」
声は、震えなかった。いつもと同じ言葉が、いつもと同じ順に出てきた。
湊は、頭を下げた。
仮面のない顔で、いつものように腰を折って、それから顔を上げる。
煙が立ち上った。湊の姿が、その中に消えた。
石の部屋に、真那だけが残った。
しばらく、動けなかった。
手を後ろに回して、フードを被り直す。
膝の上の契約書を閉じた。布の端を持ち上げて、半分に畳む。もう半分に畳む。
短剣を、鞘に収めようとした。
刃先が鞘の口に触れたところで、手が止まった。




