第二十六話 インシデント
金曜日の朝、若月湊はドアに鍵を掛けてから、郵便受けの蓋を開けた。
空だった。
そういう日もある。湊は蓋を閉めて、階段を下りた。
◆◆◆
席に着いてPCを開くと、報告書の様式が画面の真ん中に出ていた。昨日のうちに第一報を上げて、正式なものは今日中に、と言われている。
発生日時。十二月十八日、午後。
契約。<理と若木の魔術師>との契約。
事象。儀式中、短剣の境界を越境。契約による保護が失効。
経緯。契約相手に呪いの兆候を認め、解呪のため越境。
呪いの出どころは、書けなかった。見えたのは、あの魔術師にかかっていたものだけで、どこから来たのかまでは分からない。
その下に、危険条件の欄が並んでいる。
顔。見られた。
声。素の声を聞かれた。
所属。口上で名乗っている。
名前。
そこで、手が止まった。
名乗ってはいない。けれど、顔を見られた。顔から名前に辿り着かれるかどうかは、こちらからは分からない。確かめる手段もない。
――不明。知られる可能性あり。
四つの欄が、全部埋まった。
やむを得ず、とは書かなかった。書いても仕方のないことだった。これは、報告書で、言い訳の場所ではない。
昼前に、上司の望月が席まで来た。
「報告、読んだよ」
「はい」
「<若木>さんの担当、外れてもらうことになる。規定だから」
「はい」
「月岡さんに引き継いでもらうから。資料、今日中にお願い」
「分かりました」
望月は、それ以上何も言わなかった。責める言葉も、庇う言葉もなかった。頷いて、自分の席に戻っていく。
規定だ。それは分かっている。誰かに掛け合ってどうにかなる話ではない。
週が明ければ、湊はまた呼ばれて、口上を返して、用件を聞く。担当する契約が、一とつ減っただけだ。
◆◆◆
午後は、引き継ぎ資料を作った。
契約の概要から書く。いつからの契約で、何を定めているか。<暁の記録の書庫>の参照の条項。先月結び直した上限と、その経緯。今月の障害と、そのあとの不具合の対応。
そして、年内の更新。
締結は、二十四日の夕刻。昨日、日取りを決めた。
先方と確認済みの条項を並べる。変更点はない。書庫の条項は、結び直したときの文面のまま。あとは当日、契約書の上で結べば終わる。
ここまでは、記録を見れば書ける。
記録に書いていないことが、残った。
あの魔術師は、資料を揃えてくる。記録が丁寧だ。こちらが訊く前に、必要なものが出てくる。
無理をする。いつも、どこか疲れている。
定型を外れて声をかけると、少しだけ、嬉しそうにする。
どれも、書ける内容ではなかった。
湊は、しばらく画面を見ていた。それから、手を動かす。
――先方は資料を揃えてくださるので、確認はそのまま進められます。
――年末で、先方も立て込んでいます。日程の確認は、早めに。
業務の言葉で書けるのは、それが精一杯だった。
無理をするも嬉しそうにするも、書けなかった。
一とつ息を吐いて、頭から読み返す。訊かれる前に、答えが書いてある。次に何をすればいいかが、読めば分かる。
あの魔術師なら、こうした。
資料を、月岡宛てに送った。
これで良かったんだ、と思った。
少なくとも、あの魔術師の呪いは消えたのだから。
◆◆◆
帰りは、遅くなった。
階段を上がって、自分のドアの前で鍵を出す。郵便受けの蓋を開けた。
空だった。
この時間なら、いつもはもう入っている。今朝も、空だった。
一日なら、そういう日もある。今朝は、そう思えた。
二日目は、そう思えなかった。
蓋を閉めた。数歩先に、隣のドアがある。廊下側には窓がないので、灯りがついているのかどうかは分からない。
訪ねるには遅い時間だと、分かっていた。
湊は、自分の部屋のドアを開けた。
◆◆◆
スーツのまま、冷蔵庫を開けた。
膝を折って、中を見る。プリン、シュークリーム、チョコレートの箱、ロールケーキ。いつも通り、甘いものが詰まっている。
手が、伸びなかった。
扉を閉めた。
奥の部屋に、ビーズクッションが見えている。今日はそこに沈み込む気分にもなれなかった。
肉が食べたい、と思った。
郵便受けを開けると、毎晩、おにぎりが入っていた。角煮や、牛しぐれ煮や、チキンライス。冷えているのを温めて、食べた。
それが、今日はない。
食べたいものを思い返す。牛しぐれ煮のおにぎりは、肉が柔らかくて上品な味付けだった。角煮は、脂混じりのタレがご飯によく合っていた。チキンライスは海苔ではなく、薄焼き卵で巻かれていた。
サンドイッチもあった。ハムと卵は、卵がふんわりしていた。チキンとレタスは、噛みごたえがあって腹に溜まった。
それから、生姜焼きを思い出す。
この部屋のキッチンで、隣人の樗木真那が作った。醤油の焦げる匂いと、生姜の匂い。皿は不揃いで、箸がなくて、プラスチックのフォークで食べた。
疲れたときはお肉ですよ、と言われた。
俺は甘いものの方が、と返した。
甘じょっぱい味だった。玉ねぎがくたっとしていた。あの人の手際は良かった。
そして、湊が食べたら、あの人は嬉しそうな顔をしていた。
コロッケを持ってきたこともあった。肉屋のコロッケは温かくて、衣がさくっとしていた。あの人は美味しそうに食べていた。
キッチンの棚には、食器が並んでいる。あの人が持ち込んだものだ。シンクの下には調味料が並んでいる。土鍋もある。
一緒に鍋を食べた、と思い出す。あのときは、お肉も食べてください、と言われた。肉を皿に載せられた。あの人は、肉をいっぱい買っていた。
湊は、冷蔵庫の前に座り込んだ。
スーツのまま、膝を立てて、背中を扉に預ける。
肉が食べたい、だけではなかった。
一緒に、食べたかった。
◆◆◆
会えばいい。
数歩先にいる。チャイムを鳴らせば、出てくるかもしれない。
会えない。
仕事でしくじった。担当を一とつ失った。それを、あの人にぶつけるのは良くない。所属も仕事の中身も話せないのに、疲れた顔だけで、どうすれば良いのか。
それに、会ったら、崩れそうだった。
一度、あの人に、言うつもりのなかったことまで話した。一とつの相手に時間をかけすぎだと言われた、と。誰にも話していなかったことだった。
今会えば、何を言ってしまうか分からない。
だから、会えない。
それでも、一緒に食べたかった。
会えばいい。会えない。一緒に食べたい。
思考が、同じところを何度も辿る。辿るたびに、気持ちだけが大きく膨らんでゆく。
一緒に食べたい。
明日も。その次も。
また生姜焼きを作ってもらって、あの人の置いていった箸で食べて、湊が甘いものを出して、あの人が少し呆れた顔をして、それでもそのあとには笑ってくれる。
それが、ずっと続けば良い。
ずっと、一緒が良い。
湊は、動けなかった。
壁の向こうで、水の音がした。
壁の向こうには、隣の風呂場がある。帰ってきて、風呂に入っているのだろう。
あの人が、そこにいる。
水の音は、しばらく続いた。
音が止んでも、まだ立ち上がれなかった。




