第二十七話 別の人
水曜日の夕方、樗木真那はロッカールームでローブを羽織った。
前の留め具が、一度でかかった。
仮面を手に取って、縁を指でなぞる。灰色の漆が擦れて、下の木地が覗いている。布で表と裏を拭いた。手は、いつも通りに動いた。
あの日の翌朝、起きるのが苦にならなくなった。
久しぶりに調子の良い体で事務所の奥の棚を回っていて、一番端の植木鉢の花が俯いているのが目に入った。如雨露で水をやりながら、しばらく話をした。
長い時間のあと、フウリンソウは小さな声で「さみしい」と言った。「ごめんなさい」と答えて、お喋りを続けた。フウリンソウの花は、少しずつ持ち上がって、最後には真那の方を向いた。
どうやらそれが、呪いの元だったらしい。フウリンソウには、可哀想なことをした。
ローブの裾の皺を、手で伸ばす。
あの日も、その次の日も、おにぎりを買って帰れなかった。二日、隣からも何も届かなかった。三日目に、郵便受けにシュークリームとチョコレートが入っていた。付箋を見なくても、若月湊からだと、すぐに分かった。
――買いすぎたので。若月。
真那は少し迷ってから、おにぎりを入れた。付箋は、書けなかった。
それから、交換だけが続いている。顔は、合わせていない。
会えば、話さないわけにはいかない。知っていることを隠したまま、隣人の顔をして挨拶をすることはできない。
話せば名乗ることになる。あの日、不正を持ちかけた魔術師は、わたしです、と。
あの人は、それを断った。それは正しい。不正なのだから。それなのに、真那は言ってしまった。
フードを整える。こうして整えたところで、相手に見えるのは灰色の塊でしかない。
取引先の方が優しくて、と話したことがある。スーパーの帰り道、土鍋の箱を抱えた人の隣で。本人に、本人のことを話していた。
無理しないでください、と言われた。郵便受けの付箋にも、同じ言葉が書いてあった。何度も。
自分の手際が悪いのかな、とこぼしたこともある。あのとき、あの人は、俺も、と言った。
あの人が抱えていた仕事のいくらかは、真那の案件だったのかもしれない。あの人の愚痴は、真那のせいだったかもしれない。
それを自分は、どんな態度で聞いていただろうか。
そしてあの日、わたしが何も言わなければ、と言った。
恥ずかしかった。あの人が守っていたものから、自分は外れようとした。それが、恥ずかしかった。
何のために、と訊かれたら、この関係を壊したくなかったから、としか言えない。
壊したくなかったのは、あの僕との関係なのか、若月湊との関係なのか。
そこは、どう考えても分けられなかった。
頭の中は整理できないままで、気持ちはずっとざわついていた。
それを押し隠すように、真那は仮面を顔に当てた。
備品置き場で短剣と畳んだ布を出す。契約書は自席から持つ。三つ抱えて、廊下を歩いた。
◆◆◆
石の部屋で布を広げて、端から順に指で辿る。短剣を抜いて前に置き、あぐらをかく。
膝に載せた契約書の、最後の頁を開いた。
――<理と若木の魔術師>との契約、担当を改む。更新の儀、定めの刻に承る。
月曜日に、増えていた一行だった。だから、覚悟はしていた。
真那は頁を戻して、口上を唱えた。
「これは<月と物語りし悪魔>と<理と若木の魔術師>との契約である。我、<理と若木の魔術師>の一人が、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕との対話を求める。偉大なる<月と物語りし悪魔>の名において、姿を見せよ」
一度で、空気が動いた。
今日は、日時を決めてある。
◆◆◆
魔法陣の中心から、煙が立ち上る。黒い革手袋が、それを掻き分けた。
撫で付けた黒い髪、目元を覆う白い仮面、黒いスーツ。灰色の部屋に、白と黒が浮かび上がる。
背が、高くなかった。肩幅があって、胸板が厚い。すらりと細長い手足は、どこにもなかった。
一目で分かった。
知っていた。契約書でも読んだ。それでも、目で見るのは違った。
真那は、息を呑んだ。声は出さなかった。
男は静かに頭を下げた。
「我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕の一人が、<理と若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約に従い、求めに応じよう」
姿勢を戻して、男は続けた。
「本日は、よろしくお願いいたします」
「……よろしくお願いいたします」
真那は契約書を開いて、膝の上で支えた。
「<理と若木の魔術師>は、<月と物語りし悪魔>との契約を、ここに改めることを求める」
「<月と物語りし悪魔>の従順なる僕、これに応じる」
頁の上で、文字が動いた。
古い期日が薄れて、新しい期日が浮かび上がる。条項は、先週確かめた通りだった。書庫の条項も、結び直したときの文面のまま。一文字も違わない。
男は、こちらが何か言う前に、確かめるべきところを確かめていった。説明し直す必要は、どこにもなかった。
文字が落ち着いた。
更新が終わった。
男が、少しだけ姿勢を緩めた。
「年末のお忙しいところ、ありがとうございました。年明けのご予定も、早めにご相談させてください」
「……はい。ありがとうございます」
◆◆◆
真那は契約書を閉じた。
「無事に終わって、良かったです」
「引き継ぎ資料が、しっかりしていたので」
男は、それが当たり前のことのように言った。
「……そうですか」
床の短剣を握って、持ち上げる。男が、さっと身を引いた。
「我、<理と若木の魔術師>の名において、対話の終わりを告げる。<月と物語りし悪魔>の従順なる僕よ、<月と物語りし悪魔>の名において立ち去れ」
「何かございましたら、いつでもお呼び出しください」
男は、丁寧に頭を下げた。
煙の中に、その姿が消えた。
◆◆◆
石の部屋に、真那だけが残った。
契約書を脇に置く。布の端を持ち上げて、半分に畳む。もう半分に畳む。短剣を、鞘に収める。今日は、手が止まらなかった。
フードを下ろして、仮面を外した。
冷えた空気が、顔に触れた。
頬を、何かが伝った。
指で触れて、それが涙だと分かった。
拭っても、止まらなかった。次から次に、落ちてくる。
手続きは、滞りなく終わった。相手は有能で、丁寧だった。引き継ぎも、行き届いていた。どこにも、問題はなかった。
何も問題は起きていないのに、ひどく苦しかった。
原因は、分かっている。
短剣の向こうの、石の床に目をやった。
いつも、あの人が立っていた場所だった。頭を下げ合ったのも、あそこだった。先週は、短剣のこちら側まで来て、すぐ目の前に片膝をついた。解呪をしてくれた。
あの人が、いない。
記録を並べても、魔法陣を辿っても、どこにも書いていない。直せる不具合ではない。見つけても、どうすることもできない。
「……若月さん」
声が、石に跳ね返った。ローブのせいで、少しずれて聞こえた。
会いたかった。
真那は膝の上の仮面を見下ろした。灰色の漆の上に、涙が落ちている。
しばらくして、ジーンズのポケットからハンカチを出した。仮面の表を、ゆっくりと拭う。それから、裏も拭いた。




