第二十八話(最終話) 契約しませんか
最寄り駅の改札を出ると、商店街は明るかった。
街灯に金色のモールが巻き付けてあって、スピーカーからは鈴の音の曲が流れている。八百屋の軒先の赤と緑の造花も、薬局の前の綿の雪だるまも、今日が一番似合っていた。
樗木真那は、ケーキ屋の前で足を止めた。
ガラス戸の向こうに、人が並んでいる。予約の箱を受け取る列だった。店員が名前を呼んで、白い箱を差し出すたびに、列が一とつ進む。
真那は、列の横からショーケースを覗いた。
大きいものは、もう残っていなかった。空いた棚に、値札だけが立っている。その端に、小さなホールケーキがいくつか並んでいた。
白いクリームの上に、苺が輪になって並んでいる。真ん中に、砂糖でできたサンタが一人、乗っていた。
真那は、店員に声をかけた。
「これを、一つください」
迷わなかった。
ケーキが箱に詰められて、箱には赤いリボンがかかった。受け取ると、思ったより軽かった。
郵便受けには、入らない大きさだった。
店を出て、大通りを歩く。
住宅街の手前で、ふと空を見上げた。西の低いところ、屋根と屋根のあいだに、細い月が引っかかっていた。
しばらく見て、また歩き出した。
◆◆◆
手前の建物を過ぎると、駐車場越しにアパートのベランダ側が見えた。
二階の、一番手前が自分の窓で、その奥が隣の窓だ。どちらも暗い。
まだ、帰っていない。
階段を上がって、隣のドアの前を通る。自分の郵便受けを開けると、空だった。
今日は、それで良かった。
部屋に入って、ケーキの箱を冷蔵庫に入れた。肉と卵の隣に、白い箱が収まった。
コートを脱いで、クローゼットに掛ける。部屋着には、着替えなかった。
ローテーブルの前に座って、待った。
壁の向こうは、静かだった。
時計の針が進む。一度立って、湯を沸かして、飲まずに置いた。
九時を回って、しばらくしたころだった。
クローゼットの向こうで、冷蔵庫の扉が開く音がした。何かを出し入れする音がして、閉まる。
帰ってきた。
真那は立ち上がった。冷蔵庫から箱を出して、両手で持つ。靴を履いて、ドアを開けた。
廊下は冷えていた。
数歩で、隣のドアの前に着く。
◆◆◆
チャイムを鳴らした。
少し、間があった。
鍵の外れる音がして、ドアが開いた。
若月湊が立っていた。
スーツの上着を脱いだだけの格好だった。ぼさっとした黒髪に、黒いフレームの眼鏡。片手に、コンビニの小さな袋を提げている。
こちらを見て、それから、手元の箱を見た。
湊の目が、箱の上で止まった。
「……今日は、肉じゃないんですね」
いつもの声だった。
真那は、箱を持つ手に力を入れた。
「お礼を言いにきました」
湊は、しばらく黙っていた。
それから、体を半分ずらした。
「……どうぞ」
◆◆◆
玄関を入ると、すぐキッチンだった。
シンクの中に、おにぎりのフィルムが何枚も重なっていた。三角に折り目のついた、透明なフィルム。一日分ではなかった。
湊は、手に提げていた袋を、調理台の上に置いた。
食器の棚には、白い無地の茶碗と皿が、前と同じ場所に並んでいた。
奥の洋室に通される。ローテーブルと、壁際のビーズクッション。
湊はビーズクッションを押しやって、床に座った。真那は、その向かいに座る。
ケーキの箱を、テーブルの上に置いた。湊の前に、少しだけ押し出す。
湊は、両手を箱に添えた。
◆◆◆
真那は、背筋を伸ばした。
「わたしは、<理と若木の魔術師>の、魔術師です」
湊の手が、箱の上で止まった。
「先週の木曜日、儀式室で解呪していただいたのは、わたしです」
言ってしまってから、指先が冷たくなっていることに気付いた。
あの日、何も言わなければ、と言ったのも、わたしです。
それは、声にしなかった。言わなくても、この人には分かる。
湊は、動かなかった。
眼鏡の奥で、目が見開かれている。口が少し開いて、何かを言いかけて、閉じた。
長かった。
真那は、両手を膝の上で揃えて、頭を下げた。
「解呪していただいて、助かりました。ありがとうございます」
顔を上げると、湊はまだ真那を見ていた。
箱から手を離して、眼鏡を外す。指で目のあたりを押さえて、それから、かけ直した。
「……樗木さん、だったんですか」
「はい」
「あの呪いは」
「あのあと、見つけました。事務所の棚の精霊でした。手当てが足りていなかったんです」
湊が、息を吐いた。
「……体は」
「治りました」
湊は、真那の顔をじっと見た。
それから、小さく頷いた。
◆◆◆
部屋が、静かになった。
湊が、テーブルの上の箱に目を落とした。リボンの結び目を、指先でなぞる。
しばらくしてから、視線がこちらに向いた。
「契約しませんか」
真那は、瞬きをした。
「契約ですか?」
「はい、恋人という名前の」
湊の声は、落ち着いていた。いつもの、丁寧な声だった。
けれど、テーブルの上で、リボンの端をなぞる指が、止まっていた。
真那は、その手を見た。骨ばって、大きな手だった。
それから、湊の顔を見た。
壊したくなかったのが、どちらとの関係だったのか。仮面の向こうの人なのか、隣の部屋の人なのか。今も、分けることができないでいる。
それでもその人は、目の前にいた。
真那は、少しだけ笑った。
「契約なら、維持管理が必要ですね」
湊の手から、力が抜けた。
「維持管理なら得意です。貴女もでしょう」
「そうですね」
湊が、動いた。
テーブルの角を回って、床に膝をついたまま、にじり寄ってくる。背の高い人が、座ったまま近づいてくるのは、あまり格好の良いものではなかった。
ゆっくりだった。近づいてくるのが、全部見えていた。
真那は、動かなかった。動かないまま、大きな手で顔を包まれた。動けなくなった。
「契約の締結を、確認させてください」
「確認、ですか」
湊の顔が、すぐそこにあった。見上げなくても、目が合う。お互いの息がかかる距離だった。
耳に、骨ばった指先が触れていた。息を吹き込まれたときみたいに、熱かった。
湊の背中は丸まっていて、顔がもっと近づいてきて、そして、唇が触れた。
◆◆◆
唇が離れて、湊が息を吐いた。真那も、息を吐いた。その息が混ざり合った。
湊の手は、まだ真那の顔を包んでいた。そのまましばらく見詰め合っていた。
何も言わないでいると、湊の手が離れていった。最後に指先が、顎を辿る。
湊が、視線を逸らした。
「ケーキ、食べましょう」
「……はい」
湊が立ち上がって、キッチンへ行く。真那もついていった。
湊は棚から、白い無地の平皿を二枚出した。引き出しを開けて、中を探る。
「フォーク、これしかないんですけど」
プラスチックのフォークだった。菓子についてきたものが、何本も溜まっている。
真那は、笑ってしまった。
「それで良いです」
箱のリボンをほどいて、蓋を開ける。白いクリームと並んだ苺と、砂糖のサンタ。湊が、小さく息を吸うのが聞こえた。
湊が果物ナイフで、二たつに切り分ける。サンタのところで、手が止まった。
「サンタ、どうしますか」
「若月さんにあげます。お礼なので」
「樗木さんが買ってきたんですから」
「でも、お礼なので」
湊は少し考えて、サンタを指で摘まみ上げた。
真ん中で、ぱきりと折る。
頭のほうを、真那の皿に載せた。
洋室に戻って、二人でローテーブルに皿を並べる。いただきます、と声が揃った。
湊はケーキの上に絞り出してあるクリームを少しだけ掬って、口に入れた。口角が上がる。薄い唇が、三日月の形になった。
湊のフォークがケーキを突き崩す。皿の上に崩れ落ちた、赤い苺と白いクリーム、淡いスポンジをまとめてフォークで口に運んだ。唇の端についたクリームを、舌が舐めとる。
真那も、ケーキの端をフォークで分けて、口に運んだ。甘い生クリームが、口いっぱいに広がる。その中で、苺の酸っぱさがアクセントになっていた。そんな甘さも酸っぱさも、スポンジが優しく拭ってゆく。
湊は、黙って食べていた。気付くと、ビーズクッションを引き寄せて、そこに沈んでいた。ビーズが小さく鳴って、背中の形に凹んでいる。
ときどき目が合って、その度に口元がほころぶように微笑まれた。
真那は、皿の上のサンタの頭を口に入れた。
とても、甘かった。
本編はこれで終わりです。ここまでありがとうございました。
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明日から、後日談をいくつか投稿します。




