第五話 疲れたときはお肉ですよ
土曜の夕方、樗木真那は隣の部屋のチャイムを鳴らした。
しばらく返事がない。もう一度鳴らそうと指を持ち上げたところで、内側から鍵の開く音がした。
ドアが開いて、若月湊が顔を出す。部屋着らしいTシャツとスウェット姿で、眼鏡の奥の目が少し眠そうだった。
真那はほっと息を吐いた。
「良かった、いたんですね。若月さん、物音が少ないから、いるかどうか分からなくて」
湊は、眼鏡の奥で訝しげに目を細めた。
「……はあ」
「先日の解呪のお礼に、ご飯作りますね」
「え、なんでですか。不要です」
真那はちょっと首を傾けた。そしてすぐ、何もなかったかのように口を開いた。
「若月さん、甘いものしか食べないの、体に悪いですよ」
「それは……まあ、そうかもしれませんけど」
真那が持っていたビニール袋を持ち直す。
湊の視線が、真那の手元に落ちた。
「ひょっとして、それ、材料ですか」
「はい、買ってきました」
スーパーの袋から、豚肉のパックが透けて見えている。
湊はしばらくそれを見ていた。それから眼鏡を押し上げて、長く息を吐く。何か言うかと思ったけれど、何も言わなかった。
そして、ドアをもう少しだけ開いて、身を引いた。上がって良い、ということらしかった。
上がると、右手に洗濯機があった。その向こうがキッチンだった。間取りは真那の部屋と同じで、手前にコンロとシンクがあって、奥に冷蔵庫がある。同じ位置に、同じものが並んでいた。
調理台には、畳んでいないコンビニの袋。コンロには、使った跡がない。
冷蔵庫の上には、電子レンジ。
炊飯器はなかった。それは想定していた。
「ご飯は、炊いて持ってきました」
「はあ」
真那はキッチンを見回す。
「調味料はありますか」
「記憶にないです」
これはないな、と真那は思った。思ったけれど、念のため、訊いてみた。
「……確認して良いですか」
「どうぞ」
軽い返事だった。
真那は冷蔵庫を開けた。
甘いものだけだった。
上の段はドーナツ。下の段にはゼリー。その下の段はチョコレート。隙間が多くて、冷蔵庫の灯りが寒々しい。
念のため、冷凍庫も開けてみる。アイスが詰まっていた。カップのものと、棒のものと、箱入りのものが、隙間なく。
「本当に、甘いものしかない」
「賞味期限の近いものは食べたんで、今、中身が少なくて。買い足した後は、もっとたくさんあるんですけど」
「量の問題じゃないです。本当に甘いものしか食べてないんですか」
「パンも食べます」
「それ、甘いパンですよね」
「……はい」
真那はシンクの下を開けた。フライパンがない。鍋もない。菜箸もない。ボウルもない。入っているのは封も切っていないスポンジの袋と、古い雑巾が一枚だけだった。
かろうじて、まな板とナイフはあった。
「ナイフはあるんですね」
「ケーキをホールで買ったときに」
「ホールケーキを? どなたかと?」
「いえ、一人で」
「一人で食べたんですか? ホールケーキを?」
「一人暮らしの醍醐味だと思います」
湊の表情は、相変わらず分かりにくい。口振りは大真面目だった。
引き出しを開ける。プラスチックのスプーンとフォークが、まとめられもせずに溜まっていた。プリンやケーキについてくるものだ。その中に一本だけ、銀の匙が混じっている。
真那は必要なものを頭の中でリストにした。
「……取ってきます」
「え」
「うちから。すぐなので」
真那は自分の部屋に戻って、フライパンとボウルと菜箸、醤油と酒と味醂と生姜のチューブを抱えて、また隣に来た。往復で二分もかからなかった。
換気扇をつける。手を洗う。まな板も洗って、玉ねぎを並べる。
湊が近くに来て、手元を見ている。
「何か手伝いますか」
「大丈夫です」
湊は冷蔵庫の前に立った。真那は振り向いた。
「座ってても、大丈夫ですよ」
「いえ」
座る気はなさそうなので、真那は気にしないことにした。
玉ねぎは薄く切る。ナイフだと力が入りにくくて、包丁も持ってくれば良かったと思った。次があったら持ってこようと考える。
醤油と酒と味醂を混ぜ合わせて、生姜のチューブを絞り入れる。
それからフライパンを温めて、豚肉を一枚ずつ広げて並べる。
脂の弾ける音が立つ。縁のほうから白く変わっていくのを待って、裏返す。焼き色は思ったよりよくついた。玉ねぎを回りに落として、しんなりしてきたところで、合わせておいた調味料を回しかける。
じゅう、と大きな音がして、湯気が上がった。醤油の焦げる匂いと、生姜の匂いが、狭いキッチンに広がった。
タレはすぐに煮詰まって、肉に絡んで、照りが出てくる。玉ねぎが飴色に近づいて、縁が少しだけ焦げた。
「……いい手際ですね」
声をかけられて振り向けば、湊が思ったより近くで手元を覗き込んでいた。
「あ、ありがとうございます」
褒められたことが少し気恥ずかしくて、真那は手元に視線を戻した。コンロの火を止める。
「疲れたときはお肉ですよ」
「俺は甘いものの方が」
「お肉も食べてください」
皿を出してもらう。二枚あったけれど、大きさも柄も違った。揃いで買ったものは一枚もないらしい。
そして、箸がなかった。
「お箸、ないんですか」
「そういえば、ないですね。割り箸も、もらえないですし」
甘いものを買っても、割り箸はついてこない。
「取りに行きましょうか」
「いえ、これで」
湊は、引き出しからプラスチックのフォークを二本取り出した。
ご飯茶碗もなかった。タッパーのまま食べることにした。
◆◆◆
ローテーブルに、不揃いの皿と、プラスチックのフォークと、蓋を外したタッパーが二たつ並んだ。
真那がローテーブルの前に座ると、湊もようやく座った。巨大なビーズクッションを押しやって、床に直接座る。
「あの……」
湊が何か言いかけて、止めた。真那は首を傾けた。
「はい、なんでしょうか」
「……いえ。いただきます」
「はい」
何を言おうとしたのかは分からない。湊はもう両手を合わせていた。
真那も手を合わせて「いただきます」と声に出す。
湊はフォークで肉を刺して、口に入れた。噛んで、飲み込んで、それからご飯に手を伸ばす。
もう一枚。今度は玉ねぎも一緒に。
真那も自分の分を食べた。少し濃くなった、と思った。それでも、てりてりとした甘さとしょっぱさが、ご飯と一緒に噛めばちょうどいい。噛んでいると、肉の旨みと生姜の辛さが絡み合って、口の中いっぱいに広がった。玉ねぎもくってりと甘くなっていて、肉によく合っていた。
湊は、何も言わずに、フォークを動かしていた。タレで濡れた口元が、ご飯を頬張って動いている。
ちゃんと食べている。
肉も、玉ねぎも、ちゃんと口にしている。タッパーの中身も減っている。
良かった、と真那は思った。
湊が不意に視線を上げて、目が合った。
「……何か?」
それで、自分が湊を見詰めていたことに気付いた。
「いえ」
真那は、慌てて自分の手元に視線を落とした。
「明日の朝は、何を食べるんですか」
「……ドーナツが」
「甘いものじゃなくて」
「でも、賞味期限があるので」
「ぶれないですね」
食べ終わると、湊が皿を集めて立ち上がった。
「洗います。作ってもらったので」
シンクに立つ手つきは、危なげがなかった。できないわけではないらしい。
フライパンとボウルと調味料を袋にまとめる。玄関で靴を履くと、湊が後ろまでついてきた。
真那は振り返った。
「ちゃんと食べてくださいね」
「……検討します」
「検討だけじゃなくて」
「はい」
廊下に出る。湊はドアのところに立ったままだった。
真那は自分のドアの前まで歩いて、鍵を出してから、振り返る。三、四メートル。廊下の照明の下に、湊がまだ立っていた。
湊が、小さく頭を下げた。
「ご馳走様でした。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
それから二人とも、それぞれのドアを閉めた。
◆◆◆
真那はドアを閉めると、鍵をかけた。
部屋は、静かだった。
洋室の隅に、かぼちゃはもういない。昨日の夜のうちに、いなくなっていた。
真那は袋からフライパンとボウルを出して、シンクに置いた。調味料を一本ずつ、元の場所に戻していく。醤油、酒、味醂、生姜のチューブ。どれも買ってから、ほとんど減っていない。
炊飯器の蓋を開けると、中は空だった。今日、全部詰めて持っていったからだ。
久しぶりに使った。料理するのは久しぶりだった。ちゃんと食べて、なんて、人のことは言えない。
真那は空の内釜を洗う。洗いながら、湊が食べていた姿を思い出す。食べてもらえた。
また、たまには料理しよう、とも思えた。
内釜の水を切って、炊飯器に戻した。蓋を閉めると、かちりと小さな音がした。




