第四話 ご用件をどうぞ
若月湊は悪魔の僕である。
<月と物語りし悪魔>に雇われて、契約の維持管理を担当している。新宿駅近くの渋谷区にある、大きめのビル。<月語>はその何フロアかを専有していて、受付を抜けてパスカードでゲートを開ける。フロアごとに部署が分かれていて、契約管理は七階だった。
席に着いてPCを開くと、チャットの通知が溜まっていた。他チームからの確認が二件、来週の会議の日程調整、共有フォルダを整理するという告知。読んで、必要なものは返信して、あるいはリアクションだけして、次へ。
契約については、契約番号を貼れば誰でも同じ画面を見られるので、説明はいらない。
一件だけ、判断が要るものがあった。別の担当が抱えている契約で、過去の似たような対応を参照したいという。該当する記録の場所を返信して、補足を二行付けた。
どれも社内のものだ。客からの問い合わせは、ここには来ない。
チームのチャンネルに、上司の望月から連絡が届いていた。
――保護者会があるので午後休です。今日、用事がある人は早めにお願いします。
続けて、急ぎのものは誰に振るかが書かれていた。抜けるぶんの段取りは、できていた。
了解のリアクションが次々に増えていく。望月が見ている担当は、湊のほかにも何人もいる。
湊は自分の抱えている件を頭の中で並べて、午後に望月と話す必要がないことを確かめてから、同じリアクションをした。
契約している魔術師からは、午前のうちに二度呼ばれた。
◆◆◆
昼を過ぎて、三度目の呼び出しが入った。
立ち上がって、髪を撫で付ける。眼鏡を外して机に置き、黒い革手袋をはめた。それで終わりだ。持っていくものは何もない。
仮面は着けない。境界線になっている短剣のこちら側にいるあいだ、契約による保護が勝手にかかる。それが仮面になって、顔を隠して、声を変えてくれる。自分で好きに着け外しできるものではない。
呼ばれた先は、どこかの魔術師組織の儀式室だった。石を敷き詰めた床と壁、わずかな照明。灰色のローブとフードの人影が、床の短剣の向こうにあぐらをかいて座っている。
口上を返して、頭を下げる。
「お問い合わせありがとうございます。ご用件をどうぞ」
用件は、長く使ってきた魔法陣が急に通らなくなった、というものだった。
相手が何を求めているかは、聞けばだいたい分かる。落としどころも、たいていはその場で見える。
湊は契約書を呼び出して、開いた。相手が掲げてみせる記録と、頁を行き来しながら突き合わせていく。
契約では、魔法陣に特定の図形を使うよう定めている。それが、こちらの仕組みに繋がるための部分だ。それ以外は、魔術師が使いたいように組み上げて、動かす。
今回は、その特定の図形に問題があった。
「私のほうでも記録を確認しました。この部分、契約書のものと少し違いますね。最近、魔法陣を書き換えたりしましたか」
フードの下で、息を呑む気配がした。
「……昨日、直したところです」
「でしたら、そこを元に戻していただければ通ると思います。ほかは問題ありません」
しばらく間があって、それから深く頭を下げられた。
「助かりました」
責めることではない。魔術師にとって魔法陣に手を入れるのは日常的な業務で、今回はたまたま重要な部分が巻き込まれただけ。そう伝えれば、たいていの相手はほっとする。質問の形にしておけば、なおさらそうなる。
こういうときは、悪くない仕事だと思う。
戻って眼鏡をかけ直すと、チャットに未読が溜まっていた。出ているあいだも、社内は進んでいる。
そしてまた呼ばれる。担当している契約は多くて、一件にかけられる時間は短い。
◆◆◆
夕方、その日の対応記録をまとめる。
昼過ぎの件はすぐにまとまった。原因を特定、修正を案内、解決。
午前の二件目で、手が止まった。
<理と若木の魔術師>。<暁の記録の書庫>が参照できない。調査したが原因が分からない。
書くことが、何もなかった。
契約の通りにご案内、としか書けない。記録の上では、異常は起きていない。正常に処理されて、正常に終わっている。
書きながら、午前のやりとりを思い返した。
あの魔術師は、記録を二枚揃えて持ってきていた。参照できていた直前のものと、今日それを真似て試したもの。契約に定められた手続きも踏んであって、使った魔法陣の写しまで挟んであった。
助かる、と思った。
問い合わせの多くは、そうではない。何が起きたのかも曖昧なまま来て、こちらが一とつずつ訊いて、形にしていく。あそこまで揃えて来る相手は多くない。
なのに、湊は何も返せなかった。
解決、と書けないのが落ち着かない。
湊は、<若木>との契約書を呼び出した。開いて確認しても、契約に問題はない。
社内チャットを開いて、書庫の悪魔に問い合わせた。魔術師から受け取った記録の写しを添えた。返事はすぐに来た。
――手続きが間違っている。
それ以上のことは返ってこない。どこが、とは言わない。
伝えられることが、何も増えない。
契約書はこちらからの連絡手段だ。それでも、書くことがなければ何も書けない。
そして、こちらから呼ぶ手段はない。呼べるのは魔術師だけだ。
チャットも、メールも、正式な連絡手段としては認められていない。
魔術師どうしも同じだと聞く。組織と組織のあいだで対になった帳面でやりとりしていて、そこにも個人は出てこないらしい。この業界の人間は、みんなそうしている。
互いを守るための古い慣習が残っている。そういうものだと思っている。
湊は小さく溜め息をついた。
――契約の通りにご案内。
書けたのは、それだけだった。
◆◆◆
部屋に帰って、スーツを脱いでハンガーにかける。部屋着にしているTシャツとスウェットを着て、冷蔵庫を開ける。
昨夜買い込んだ甘いものが、まだ詰まっている。今日は何も買わなかった。
棚の隅に、牛しぐれ煮のおにぎりがあった。消費期限を見ると、今日の夜までだった。
「……仕方ない、食べるか」
声に出してから、それを取り出して扉を閉める。棚は甘いものだけに戻った。
膝を伸ばして、立ったまま、その場で食べる。皿も箸も出さない。温めもしない。冷たい米は硬く締まっていて、牛肉の甘辛い味だけがやけにはっきりしていた。
食べ終えて、包みを捨てる。それからもう一度冷蔵庫を開けて、プリンを一とつと、引き出しから銀の匙を取った。
巨大なビーズクッションに背中を預け、タブレットスタンドのタブレットを引き寄せて、適当な動画を開く。画面の中では、可愛らしい少女姿の誰かが、視聴者とのお喋りを間に挟みながらリクエストのあった曲を歌うということをしていた。
骨伝導イヤホンを耳にかけて、音量を調節する。壁が薄いので、部屋に音を出すのはやめている。
歌声は安定していて、お喋りの声も低めで落ち着いていてうるさ過ぎない。仕事の疲労感にはこのくらいが良い。
ぼんやりとその歌声を聞き流しながら、プリンを食べる。銀の匙にそっと掬い上げた黄色い塊は、心細そうにふるりと揺れて、湊の期待を煽る。それを口に含んで舌の上で潰す甘美さといったら。
ほうっと大きく息を吐いて、湊はようやく、仕事の緊張を解いた。
銀の匙を大きく突き入れてぐいと動かせば、底に沈んでいたカラメルソースがその隙間からじんわりと滲み出てくる。蹂躙されてぐずりと崩れた柔らかな淡い黄色に、琥珀をとろりと煮詰めたようなカラメルソースを絡めて、銀の匙の上に乗せて見詰める。
薄い唇の端を吊り上げて、三日月のようににんまりと笑ってから、それを口に入れた。カラメルソースの香ばしい匂い、ほろほろとした苦味の後にやってくる、濃厚なプリンの甘さ。湊は舌の上でプリンの柔らかさを弄んで存分に堪能してから、飲み込んだ。喉を落ちてゆく感触も愉悦だった。
「あぁ……沁みる」
湊はまたプリンを一と匙掬って、口に入れる。甘い。
もう一と匙。唇の端に垂れたカラメルソースを舌で舐めとる。苦みに笑う。
そうやって、掬い上げては口に運ぶ。底にはすぐに届いた。残った琥珀色を匙の先で掻き取って、舐める。
一と息ついて、次は何を食べるか、冷蔵庫の中を思い出す。
空になった容器を置いて、湊は立ち上がった。




