第三話 契約の通りです
樗木真那は魔術師である。
新宿駅から歩いて数分の、古びた雑居ビルの四階。<理と若木の魔術師>の事務所はそこにある。エレベーターは一基しかなくて朝は混むので、たいていは階段を使う。照明の薄い踊り場を折り返して、共用の給湯室の前を通って、自分の机に着く。
机の上には契約書の束が積んである。黒い表紙に金の線で魔法陣が描かれた、分厚くて重い本だ。その隣に、薄い帳面が何冊か重ねてある。取引先ごとに一冊ずつある書簡帳で、他の魔術師組織とのやりとりは、電話でもメールでもなく、これでする。
トートバッグを置いて、まず書簡帳を開く。一冊ずつ、最後の頁を見る。昨日はなかった連絡が増えていないかを確認する。
二冊、増えていた。どちらも同じ用件だった。<若木>で保守している魔法陣が、昨日の夜から動いていない。書庫の参照で止まっているようだ、と書いてある。
まだ返事は書けない。真那はその二冊を机の真ん中に置いた。
それから契約書を開く。悪魔からの連絡は、これでくる。契約書は一方通行で、こちらからは連絡できない。
契約書の何冊かは、角が擦れて丸くなっていた。真那がここに来るより前から続いている契約だ。そういうものを恙無く維持管理するのが、真那の仕事だった。
それらを一冊ずつ開いて、最後の頁を見て、閉じる。何も増えていない。それを繰り返す。
<月と物語りし悪魔>の契約書を開く。
何も書かれていない。
昨日の夜から<暁の記録の書庫>が参照できなくなっているのに、悪魔の側からは何の通知もない。向こうは、何も起きていないと思っている。
もう一度、参照を試してみた。やはり動かない。手順の記録を取って、昨日までの記録と並べる。差はない。
司書の悪魔に問い合わせても、返ってくるのは「手続きが間違っている」だけだった。何が、とは教えてくれない。話を通すには、儀式で悪魔の僕を呼ぶしかない。
真那はPCで儀式室の予定表を確認する。<若木>の事務所に儀式室は二たつしかないので、使うときは社内で枠を押さえることになっている。午前の遅い時間が空いていたので、そこを予約した。
◆◆◆
ロッカールームで淡いブルーのTシャツとジーンズの上にローブを羽織って、仮面をつける。
仮面は木地に灰色の漆で、縁が擦れて下の木地が覗いていた。前任者から引き継いだ支給品だ。ローブも同じで、灰色の絹に魔術が織り込んである。効きが落ちるので定期的に掛け直さなければならず、その記録と期限も真那が管理している。
フードを被ると、自分の息の音がやけに近く聞こえる。
備品置き場で銀の短剣と畳んだ布を出した。契約書は自席から持つ。三つ抱えて、廊下を歩く。
儀式室は、石を敷き詰めた床と壁に囲まれた、それ以外には何もない部屋だった。わずかな照明だけで、ひんやりとしている。
ドアを閉めて、床の中央に布を広げる。銀色の線で、幾重にもなった円と、その隙間に綴られた文字と、三角や四角を組み合わせた星のような図形が描かれている。端から順に指で辿って確かめて、小さく「よし」と呟いた。
短剣を抜いて自分の前に置き、あぐらをかく。契約書を膝に載せて、口上を唱えた。
「これは<月と物語りし悪魔>と<理と若木の魔術師>との契約である。我、<理と若木の魔術師>の一人が、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕との対話を求める。偉大なる<月と物語りし悪魔>の名において、姿を見せよ」
石に跳ね返った自分の声が、少しずれて聞こえた。ローブに掛かっている魔術のせいだ。
しん、と静まる。何も起きない。
一呼吸おいて、もう一度同じ言葉を唱えた。そこでようやく、部屋の空気が動いた。
魔法陣の中心から、煙のようなものが立ち上る。最初に出てきたのは、黒い革手袋をした手だった。それが煙を掻き分けるように広がると、煙だけでなく、その向こうの空間ごと歪んで割れた。
割れ目から、頭と足が出てくる。撫で付けた黒い髪。艶のある黒い革靴。目元を覆う白い仮面の下に、薄い唇。黒いスーツに包まれた、すらりと細長い手足。
灰色の部屋の中で、白と黒だけがくっきりと浮かび上がっていた。
男は真那を見ると、口角を大きく吊り上げた。薄い唇が、三日月の形になる。それから優雅に頭を下げて、口上を返した。
「我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕の一人が、<理と若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約に従い、求めに応じよう」
姿勢を戻して、男は続けた。
「お問い合わせありがとうございます。ご用件をどうぞ」
男は短剣のぎりぎりまで顔を近付けてくる。フードの内側が見えているかのように覗き込んでくるけれど、そこから先へは来ない。
床に置いた短剣が、境になっている。悪魔はそれより内側に入らないし、魔術師もその向こうへは出ない。互いの立場を守るために定められた禁忌だ。
男の声も、真那と同じように少しずれて聞こえていた。これも、互いの身を守るための魔術だ。
真那は契約書を持ち上げて、表紙を突き付けるように差し出した。
「<暁の記録の書庫>の契約についてです」
革手袋の指先を顎に当てて、男は首を傾けた。
「ええ、存じております。<理と若木の魔術師>との、古い契約だ」
「昨夜から、<暁の書庫>が参照できなくなりました」
男は親身な様子で頷く。
「なるほど、それは困りましたね」
真那は契約書に挟んでいた二枚の紙を取り出した。
「こちらが、参照できなくなる直前の記録です。こちらが、本日それを真似て試みたときの記録。内容に差はありません。契約に定められた手続きも、そのとおりに踏んでいます。これが、その手続きに使った魔法陣の写しです。両方とも同じものを使っています」
男は笑みを消して、掲げられた二枚を何度も見比べた。仮面の奥からの視線は鋭い。
「司書の悪魔はなんと言っていますか?」
「それが……『手続きが間違っている』と」
男が、つ、と姿勢を正した。真那も背筋を伸ばす。
「我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕が告げる。<理と若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約は果たされている。<月と物語りし悪魔>に責はない」
「では、なぜ参照ができないのでしょうか」
「残念ながら、司書の悪魔が『手続きが間違っている』と言うのであれば、こちらからも『手続きが間違っている』からとしか答えられません。契約に従って、正しい手続きでご参照ください」
真那は契約書を胸の前に抱え直した。仮面の奥で唇を噛んで、言うべき言葉を探す。探しても、出てこなかった。
男が、深く頭を下げた。
「貴女のお役に立てず、申し訳ございません」
「……いえ。お手数をおかけしました」
真那は床の短剣を握って持ち上げた。ひょい、と男が身を引く。
「我、<理と若木の魔術師>の名において、対話の終わりを告げる。<月と物語りし悪魔>の従順なる僕よ、<月と物語りし悪魔>の名において立ち去れ」
男はもう一度、優雅に頭を下げた。
「またいつでも、お呼びください」
三日月のような唇で笑って、その姿は煙の中に掻き消えた。
そこから五秒。しんと静まり返った部屋に、真那の叫び声が響いた。
「わかんない! もう無理!」
ローブのせいで、その声もやっぱり少しずれていた。
◆◆◆
ロッカールームでフードを下ろし、仮面を外してロッカーにしまう。ローブを脱いで、畳んで、その上に置いた。
束ねていた髪を解いて、息を吐きながら掻き回す。それからまた、まとめ直した。
短剣と布を備品置き場の棚に戻して、契約書を抱えて自席に戻る。隣の席の鏑木が振り向いた。
「お疲れ様。どうだった」
真那は小さく首を振った。
「司書の悪魔が『手続きが間違っている』と言うなら、それ以上のことは言えない、と」
「まあ、そう言うんだよな、悪魔は」
鏑木は大きな溜め息をついて、背もたれに体を預けた。
真那は抱えていた契約書を机に置いた。
「契約に問題がないなら、こちらの不備ですよね」
「悪魔は契約に関して嘘は言わないけど、ミスをしないわけじゃないから。……でもまあ、順当に考えたら、こっちが何か見落としてる可能性が高いよなあ。手伝おうか?」
真那は笑って断った。
大学を出てここに入ったとき、鏑木はすぐ上の先輩だった。それからずっと、何かと気にかけてフォローしてくれている。優しくされて、なんとなくその気になったこともあった。
けれど鏑木は、もうじき長く付き合った恋人と結婚する。その話を聞いたとき、真那はためらいもなく笑って「おめでとうございます」と言えた。だからきっと、あれは恋愛感情ではなかったのだ。憧れに近い何かだったのだろうと、真那はそう結論づけている。
「鏑木さん、今、大きめの魔法陣の作成を進めてますよね」
「そっちの進捗は悪くないんだ。それより、<暁の書庫>が参照できないほうが問題が大きいから」
「あと二時間調べて分からなかったら、ヘルプ出します。問題の大きさも、一人じゃ手に負えない可能性も、分かってますから」
「二時間か。俺その頃ミーティングかも。俺がいなかったら、小檜さんに声かけて」
「分かりました」
真那が落ち着いて頷くのを見て、鏑木はモニタに向き直った。画面には細かな図形がいくつも並んでいて、それをどう配置するか、試行錯誤している途中のようだった。
鏑木のスケジュールをちらりと確認する。言葉の通り進捗は悪くなさそうで、それでも余裕があるようには見えなかった。
真那は契約書の表紙を開いた。傍らのスマホで二時間のタイマーをセットして、頁をめくる。
細かい文字を、端から辿り始めた。




