第二話 甘いものを
若月湊は、空になった右手を下ろした。
靄はもういない。部屋の隅では、かぼちゃが三体、相変わらず「おかし」「おかし」と騒いでいる。湊が顔を向けたら、それはぴたりと止まった。
そして床には、散らばった飴の真ん中に、隣人が座り込んでいた。
樗木真那は、しっかりした人だと思っていた。理知的な瞳をしていて、挨拶が丁寧で、廊下ですれ違えば軽く頭を下げる。穏やかに笑う。ゴミの日を間違えない。良き隣人だと思っていた。少なくとも、今日までは。
「迂闊だと思います」
真那は耳を押さえていた手を下ろして、湊を見上げた。
「……いえ、でも、害はない精霊でしたし」
「魅了してたんですから、害はあったでしょう」
責めたいわけではなかった。ただ、呆れていた。
野良精霊は何をするか分からない。契約の外にいて、話が通じず、弱った人間を見つけると寄ってくる。湊にとっては、路地に落ちているガラスの破片のようなものだ。踏めば切れる。拾って帰る人間がいるとは思わなかった。
真那は飴の包みを一とつ拾い上げて、指先でそれを回した。ソーダ味の青が、くるりと回る。
「……仕事で、精霊と話す機会があるんです」
言い訳のような調子だった。
「それで、なんだか、仕事と関係なく話せるのが楽しいなって、思ってしまって」
湊は瞬きをした。
話す、と彼女は言った。
仕事で精霊の相手をするのは、話すというようなことではない。聞いて、宥めて、欲しがるものをやる。それは契約で、違えれば何をされるか分からない。
そういうことをする職業は、限られる。
「ひょっとして、魔術師の方ですか?」
真那は瞬きをして、それから小さく頷いた。
「はい」
驚いた様子はなかった。当てられて当然だと思っているような顔だった。それから、こちらを見上げて訊いた。
「そちらは、悪魔の僕の方ですか」
その言葉も当然のように出てきた。毎日その相手と向かい合っている人間の言い方だ。
「ええ、まあ」
どこの、とは訊かなかった。向こうも訊かなかった。所属を探らないのは、業界のマナーのようなものだ。お互いに知り過ぎれば、呪術の対象になってしまう。だから、訊かない。
真那が立ち上がって、キッチンのほうへ行った。しばらく水音と食器の音がして、戻ってきたときには、マグカップを二たつ持っていた。片方を湊の前に置く。
「すみません、紅茶しかなくて」
すぐに帰るつもりだったのに、断りきれず、座ってしまった。
「砂糖はありますか」
「……えっと、ないです」
真那が困った顔をしたので、湊は諦めてそのまま一口飲んだ。香りは良いが、渋い。
真那は座り直すと、頭を下げた。
「あの、解呪、ありがとうございました」
あまりに素直に頭を下げられて、毒気を抜かれてしまった。
危機感が足りないとは、思っている。けれど、それを繰り返すのは、やめておいた。
「ああ、いえ……重くなる前で良かったですね」
「……はい。でも、軽いものだったから、かえって気付けなかったみたいで」
部屋の隅で、かぼちゃたちが小さな声で訴えている。
「はろうぃん おわれば いなくなるよ」
「おいださないで」
「できれば おかしもほしい」
湊が顔を向けると、ぴたりと静かになった。
真那はかぼちゃたちを見て、小さく笑った。顔色は良くない。目の下が暗くて、笑うとそれがはっきりした。
疲れている様子が、他人事に思えなかった。
「疲れてたんだと思いますよ」
湊の言葉に、真那は振り向いた。
「え……?」
「疲れてると、呪いもかかりやすくなる。まあ、疲れてることに関しては、俺も人のことは言えませんけど」
このくらいは良き隣人の範囲だろうと、湊は頭の片隅で自分を納得させてから、傍に置きっぱなしだったビニール袋を引き寄せた。
中から一とつ取り出す。ハロウィンの装いをしたかぼちゃプリンだった。かぼちゃ色の上に白いクリームが渦を巻いて、その上にかぼちゃの形のビスケットと、蝙蝠の形のチョコレートが乗っている。
ローテーブルに置いた。
「疲れたときは甘いものが良いですよ」
「え、でも、助けてもらった上にいただくわけには」
「買いすぎたんで、もらってください」
買いすぎたのは、本当のことだった。コンビニで、賞味期限も見ずに籠に入れたものだった。
真那が湊の手元の袋を見て、ぽかんと口を開ける。透けた袋の中身は、確かに全部が甘いものだった。淡い色合いのプリン、かぼちゃのパウンドケーキ、和栗のモンブラン、紫芋のドーナツ、キャラメル味の何か。チョコレートの箱が二たつ。季節のせいか、どれも茶色と橙と紫をしていて、袋ごと秋の色をしている。
「え、それ全部甘いものですか?」
「それは、まあ。一人暮らしですし」
「一人暮らしだと全部甘いものになるんですか?」
「なりませんか」
「なりません」
部屋の隅が騒がしくなった。
「おかしだ」
「ずるい」
「たべたい」
湊がちらりと視線をやると、やんだ。
真那は少し考えるような顔をしてから、自分のコンビニ袋を引き寄せた。そして、湊が止める間もなく、中身をローテーブルに並べ始めた。
おにぎりが三つ。豚の角煮、牛しぐれ煮、チキンライス。サンドイッチはハムと卵。サラダのパックにも、こんもりとしたレタスの上にカリカリのベーコンが乗っている。
「これ、夕飯ですか? 一人で」
「あ、いえ、さすがに夜に全部は。明日の朝の分もあるんです。最近、自炊する元気がなくて」
「……随分と、肉が多くないですか」
「え」
真那は自分の夕飯を見下ろして、首を傾けた。何を言われたか分からない、という顔だった。それから牛しぐれ煮のおにぎりを取り上げて、差し出してくる。
「あの、これ、食べてください」
「……え、肉ですか」
「疲れたときは、お肉食べたくなりません?」
「いえ、夜はあまり」
「じゃあ、朝にでも」
「朝から肉もちょっと」
「……じゃあ何食べて生きてるんですか」
「甘いものを」
「そんなのかぼちゃたちと変わらないじゃないですか」
言い返す言葉が出てこなかった。
部屋の隅では、危険物が三体、菓子を欲しがって光っている。
真那は信じられないものを見るような目で湊を見上げていて、湊はそれを見下ろしていた。互いに不可思議なものに出会ってしまった気分で、しばし見詰め合う。
やがて、どちらからともなく視線を外して、二人で床の飴を拾い集めた。かぼちゃたちの前に並べてやると、光を強くして騒いだ。
「あめ!」
「あまいの!」
「きらきら!」
結局、真那はかぼちゃプリンを受け取り、湊は牛しぐれ煮のおにぎりを受け取った。
◆◆◆
湊は自分の部屋に戻って、スーツのまま、冷蔵庫を開けた。
単身者向けの小さなものだから、中を見るには身を折ることになる。一番下の棚に手を伸ばすなら、膝をつくしかない。背丈に合ってはいないが、置き場がその大きさなので仕方がない。
膝を折って、ビニール袋から菓子を出して、一とつずつ入れていく。プリン、パウンドケーキ、モンブラン、ドーナツ、チョコレート。もともと甘いものしか入っていない棚なので、詰めればいくらでも入る。着替えるより先にこれをやるのが、いつからか習慣になっていた。
袋の底に、おにぎりが残った。
牛しぐれ煮。
甘いものだけの棚に、それを置く。白と茶色と橙の中に、海苔の黒が一とつ混じった。
扉を閉めようとして、手が止まる。
さっきの、肩の感触。
咄嗟のことだった。解呪にはああするしかない。耳に息を吹き込む。それ以外のやり方を湊は知らないし、実際、今まで何度もそうしてきた。相手が誰であっても同じようにしただろう。仕方なかった。
そう自分に言って、それでも何かが収まらない。
そのとき、壁の向こうで水の音がした。
壁の向こうには、隣の風呂場がある。前から知っている。夜中に水の音がすれば、隣人が帰って風呂に入っているのだと分かる。ただの生活音で、今まで一度も、それ以上のことを考えたことはなかった。
今は、考えてしまった。
肩は細かった。頭一とつ、自分より小さかった。腕の中に、すっぽり収まってしまった。さっきはそんなこと、意識もしていなかったのに。
立ち上がれなかった。
膝をついたまま、さっき彼女の目を塞いだ手で、自分の顔を覆う。
閉まりきらない冷蔵庫が、低く鳴っていた。




