第一話 とりっく おあ とりーと
コンビニの袋を提げて、樗木真那は夜道を歩いていた。
日の沈むのが、随分と早くなった。細かい文字を一日じゅう追いかけていたせいで、目の奥が重い。仕事の集中でのぼせたような頭を、夜風に晒して冷やしながら歩く。
住宅街はしんと静まっているけれど、灯りの漏れている窓は多い。暗い道のそこかしこに、暖かそうな光がぼんやりと浮かんでいる。半分だけの月が、家並みの上に低く傾いていた。
そのどの灯りも届かない植え込みの陰から、声がした。
「とりっく おあ とりーと」
舌足らずな子供の声だった。
真那は足を止めて、暗がりを覗き込む。丸い目が二たつ並んで、その下に、にっこりと笑うような口。どこを見ているのか分からないのに、確かに目が合ったと感じる。目も口も、内側からぼんやりと光っていた。
近寄ると、輪郭がはっきりしてきた。オレンジ色の、かぼちゃだった。
そうか、もうじきハロウィンだ、と思う。思ってから、真那は気付いた。飾り物は喋らない。
「あれ ことば わからない? おかしくれないと いたずらしちゃうぞ」
光がちかちかと瞬いた。不満らしい。
「言葉は分かるよ。ごめんね、今はお菓子を持ってないんだ」
真那は手の中のビニール袋を持ち上げてみせた。
「おにぎりとサンドイッチしかなくて。お菓子にはならないよね。具は全部お肉だし」
「おかし ない? じゃあ いたずらだ!」
真那はしゃがみ込んで、光る顔を覗き込んだ。
「ちなみに、どんな悪戯をするつもり?」
「え? ええっと……うーんと」
光の色をふわふわと揺らして、かぼちゃは考え込んでしまった。真那は膝を抱えて、その言葉を待つ。相手の機嫌を伺うのは毎日やっていることだけれど、これはずいぶん気楽だ。疲れた頭が、少しだけ和んだ。
「ひかる! すんごくひかるよ!」
「うん、夜中にすんごく光られたら、困る人はいるかもね」
「でしょでしょ だから おかしちょうだい」
真那は立ち上がると、そのかぼちゃを両手で抱え上げた。
「わ! なにするの! おとさないで! おちたら われちゃう!」
「落とさないよ」
きゃあきゃあと騒ぐのをしっかり抱え直して、真那はまた歩き出す。
「一緒においで。今は持ってないけど、家に飴くらいならあるから」
声がぴたりとやんだ。考えるように光がふわふわと瞬いてから、小さな声がする。
「あめ? ほんと?」
「うん。一緒に食べよう」
「いく ぼく いくよ」
こうして真那は、野良精霊を拾って帰ってしまった。
◆◆◆
翌朝、かぼちゃは二体になっていた。
洋室の隅に、昨日拾った子と、見覚えのない子が並んでいる。どちらも同じような間の抜けた顔で、ふわふわと光りながら真那を見上げていた。
「……増えてる」
「おはよう!」
「おかし!」
真那は寝間着のまま袋から飴を取り出して、小さな包みを一とつずつ床に置いた。二体はきらきらと光を強くして、それを迎える。
どこから来たのかは、考えないことにした。お菓子をねだって光るだけで、害はない。可愛いし、まあ、良いか。
真那はいつも通りに身支度を進めた。
◆◆◆
その日も、帰りは遅くなった。
「樗木さん、こんばんは」
すぐ隣で声がして、真那は肩を跳ね上げた。咄嗟のことで、悲鳴も出なかった。
今にも肩を叩かれそうな距離に、ひょろりと背の高い男が立っている。足音も、気配もしなかった。
地味なスーツ。少し猫背の立ち姿。ぼさっとした黒髪と、黒いフレームの眼鏡。表情の読みにくい、全体にぼんやりとした印象の男だった。
アパートの隣人の、若月湊である。顔を合わせれば挨拶をするし、世間話もする。仲が良いのかと問われると悩むけれど、穏やかな隣人関係ではあると真那は思っている。
「若月さん……こんばんは」
街灯の下で、湊の白い顔を見上げた。前髪と眼鏡で隠れているけれど、こうして見ると、整った顔をしている。
「すっかり、暗くなるのが早くなりましたね」
湊は挨拶の流れでそう言って、歩き出した。やはり足音がしない。真那はその横に並んだ。彼の手にも、コンビニのビニール袋が提げられている。
「本当に。昼間はまだ蒸し暑いのに、夕方を過ぎると秋ですよね」
「お仕事、大変そうですね」
湊の柔らかな声が、労るように真那の耳に入り込んできた。
「……そう見えますか?」
「歩き方が、疲れてましたよ」
真那は自分の足元を見た。どう歩いていたのか、自分では分からない。
「月末までの仕事があって」
「俺もです。大変ですよね、月末」
湊は、少しだけ笑ったようだった。表情の分かりにくい顔なので、確かではない。
駅からアパートまでの道を、二人で歩く。商店街はもうすっかり店じまいを終えていて、シャッターの降りた前を通り過ぎた。取り立てて話すこともないのに、気詰まりではなかった。
建物の角の階段を上がって、廊下を大通りのほうへ戻る。先に湊の部屋があって、その隣、突き当たりが真那の部屋だ。
湊が自分のドアの前で足を止めて、それから、その先に目をやった。
真那のドアの前に、緑色のかぼちゃが落ちていた。
「とりっく おあ とりーと」
「あ、また増えた」
真那は当たり前のようにしゃがんで、それを両手で抱え上げる。
「あなたも、うちに来る?」
「いく!」
「……また?」
割り込んできた湊の声が、いつもより硬かった。
「樗木さん、かぼちゃ、他にもいるんですか」
「はい、部屋に」
「……何体」
「二体……あ、この子で三体目です」
湊が眼鏡の奥で目を眇めた。
「なんで野良精霊を家にあげてるんですか」
「お菓子をねだるくらいで、害はないんですよ。あとは光るくらいで」
「光るくらいで済まないでしょう。野良ですよ」
「でも実際、飴をあげたら喜ぶだけですし」
湊は大きく息を吐いた。態とらしいほどの、長い溜め息だった。
「……ちょっと見せてください」
真那は鍵を開けて、ドアを引いた。
玄関を入るとすぐキッチンで、出したままのコンビニの袋と、最近は使っていないコンロが、開けた瞬間に他人の目に入る。今更それに気付いて、けれど本当に今更なので、真那はそのまま上がってもらうことにした。
水回りの前を数歩抜けて、洋室のドアを開ける。
隅に、かぼちゃが二体。ローテーブルの脇に並んで、ふわふわと光っている。真那は抱えていた緑の子を、その傍に置いた。
背後で、湊がもう一度、深く息を吐いた。
「あ このひと おかしもってる!」
「おかしくれないと いたずらするぞ!」
「となりのへやのほうが いいにおい するの ぼく しってるよ!」
三体が一斉に光を瞬かせて騒ぎ始める。真那はローテーブルの上から飴の袋を持ち上げた。透けた袋の中に、小さな包みが詰まっている。林檎、檸檬、葡萄、ソーダ。
「ちょっと待ってね、今あげるから」
「……ひょっとして、毎日そうやってあげてるんですか」
「ええ。だって、可愛いでしょう」
「良いわけないでしょう」
真那が振り返ると、湊はすぐ後ろに立っていた。
「失礼」
声と同時に、左手に肩を掴まれた。後ろから抱き寄せられて、背中に広い胸が当たる。背の高い体が、上から覆い被さってくる。
右の手のひらが、両目をまとめて塞いだ。骨ばった、大きな手だった。
突然のことに、真那は体を固くした。飴の袋が手から落ちて、小さな包みが床に散らばる音がする。
指の隙間から、橙色の光が滲んでいた。かぼちゃたちが騒いでいる。
首筋に体温を感じた。頬をくすぐる感触は、多分前髪だった。
「こんな魅了に引っかかるなんて」
呟く声が、耳のすぐそばで低い。そして、ふうっと息を吹き込まれた。
「……っ、ぁ」
熱い息が、耳から体の中に入り込んでくる。その感覚に、真那はびくりと体を揺らして声を漏らした。反対の耳から、何かがするりと抜け出てゆく。
肩と目が解放される。
力が抜けて、真那はその場に座り込んだ。散らばった飴の真ん中に膝をついたまま、動けない。熱の残る耳を、手で塞ぐ。
湊は、抜け出た靄のようなものを右手で掴んでいた。尻尾を掴まれた靄は、甘いにおいを撒き散らしながら、逃れようとびくびくと動いている。
「食っちまうぞ」
低い声だった。良き隣人の声ではなかった。
靄は、しゅんと消えた。
空になった右手を開いて、湊がそれを見下ろしている。眼鏡の奥がどんな顔をしているのか、床からは見えない。
かぼちゃたちは相変わらず「おかし」「おかし」と騒いでいた。三体分の光が床の飴に反射して、透き通った甘い色が、きらきらと輝きをばら撒いていた。
真那は座り込んだまま、動けなかった。
耳が、まだ熱い。




