後日談 緊急対応
若月湊は、朝から謝っていた。
月末だった。<月と物語りし悪魔>が請けている契約のうち、今月で更新の時期が来るものが十七件ある。そのうち三件は、いま動いている業務に対して、条件が足りていない。
足りていないのは、その契約が結ばれた時代が古いからだ。湊のせいではない。それでも、窓口は湊だった。
儀式室で、同じことを三度言った。
「私どもの契約では、そこまでお手伝いできません。申し訳ございません」
三組とも、困っていた。
困っている人に、できないと言う。それが今日の仕事だった。
◆◆◆
午後、オフィスに戻る。
チームのチャンネルに、上司の望月から連絡が届いていた。
――今月の更新、残り四件です。金曜までにお願いします。
湊は自分の受け持ちを確かめて、返事を打った。
隣の席で、月岡がモニタを見ている。
「若月さん、三件とも駄目だった?」
「駄目でした」
「そうだろうね」
月岡はそれだけ言って、モニタに戻った。それ以上は訊かない人だった。
引き出しからチョコレートを出して、一と欠け口に入れる。溶けるのが待てなくて、奥歯で噛み砕く。甘い。
もう一と欠け出して、口に入れる。それも噛み砕いて、飲み込んだ。
甘さだけが、舌に残った。
◆◆◆
九時前に、オフィスを出た。
電車は空いていた。座って目を閉じる。眠くはなかった。
最寄り駅で降りて、コンビニに入る。
籠を取って、いつもの棚の前に立った。
プリン、シュークリーム、苺のロールケーキ、期間限定のチョコレート。並びは昨日と同じだった。
湊は、しばらくそこにいた。
どれを取るのか、決まらなかった。
食べたいものは、いつもすぐ分かる。それだけは、考えなくても出てくるものだった。
今日は、出てこなかった。
棚の照明が白い。プリンの蓋の淡い色も、クリームの白も、ただ並んでいるだけに見えた。
湊は籠を戻して、店を出た。
外の冷たさが顔に当たって、背中で自動ドアが閉まる。
あのときと似ている、と思った。
それで、分かった。
欲しいものは、あの棚にはない。
◆◆◆
住宅街を歩きながら、文面を考えていた。
契約の維持管理には、定期の確認が必要である。どの契約書にも、そう書いてある。書いていないものでも、そう運用されている。
そして定期の確認以外に、緊急の対応がある。障害が起きたときは、次の定期を待たない。
今夜は、それに当たる。
筋は通っていた。
そして、これが言い訳であることも分かっていた。
階段を上がる。廊下の手前のドアの前で、止まった。
去年の十二月は、鳴らさなかった。
湊は一と息吸って、奥のドアまで歩いた。ほんの何歩か。そして、チャイムを鳴らした。
◆◆◆
鍵の音がして、ドアが開いた。
樗木真那が立っていた。
部屋着だった。髪を下ろしている。
「若月さん」
こちらを見て、それから、湊の手元に目を落とす。
「今日は、何もないんですね」
「はい」
湊は、頭を下げた。
「夜分に、すみません」
「いえ」
言うことは決めてきた。決めてきたのに、喉のところで止まった。
真那が、待っている。
「……緊急の、維持管理が必要です」
真那が、瞬きをした。
「緊急」
「はい」
「何が起きましたか」
障害対応の訊き方だった。
湊は、答えられなかった。何が起きたのかは、分からない。分かっているのは、コンビニで何も選べなかったことだけだ。
目を伏せた。
「……説明が、難しいです」
真那は、しばらく湊の顔を見ていた。
それから、体を半分ずらした。
「どうぞ」
◆◆◆
靴を脱ぐ。
キッチンの調理台に、マグカップが一とつ置かれていた。
そこを通り過ぎて、奥の洋室に通される。真那の後ろをついていった。
真那が、目の前で体ごと振り向いた。
「座ってください。お茶を」
湊は、動いた。
一歩で距離が詰まる。真那が何か言いかけて、それが途中で止まった。
背中と肩に腕を回して、抱き寄せる。屈まないと届かなかった。耳の辺りに、顔が落ちる。
力を入れた。入れてから、もっと入れた。華奢な体だと思った。
腕の中で、真那の体が小さくなった。真那の両腕が、胸のあいだに挟まっている。
真那の髪が、顔に当たっている。湊の唇が真那の耳をかすめた。
「……若月さん」
「はい」
「苦しいです」
「すみません」
謝った。手は、離さなかった。
今日は、一日謝っていた。謝っても、自分を出さない。それが仕事だった。
謝って、それでも自分を出したのは、はじめてだった。
腕の下で、真那の手が動いた。その手が、静かに湊の背中に回った。
「何分ですか」
湊は、顔を上げなかった。背中をもっと丸くして、顔を真那の首筋に近づけた。
「……二時間で」
「長いです」
「一時間」
「長いです」
「……三十分」
「座りましょう」
真那が、動こうとした。
湊は、離さなかった。
溜め息の音が、胸のところで聞こえた。
◆◆◆
真那の体を離さないまま、床に座った。
うまく座れなくて、途中で真那の膝が脛に当たった。
真那の体は、湊のあぐらの中に収まってしまった。
腕の中は、暖かかった。石鹸の匂いがした。肉の匂いは、しなかった。
真那の手が、背中を撫でている。ゆっくりだった。急いでいなかった。
この手つきには、見覚えがあった。はじめてこの部屋に上がった夜、かぼちゃを抱え上げた手つきだ。
それから、狭いベランダで小さなかかしを送ったときの、あの手だった。
その手が、今は湊の背中を撫でていた。
「若月さん」
「はい」
「原因は」
少し、考えた。
「分かりません」
「そうですか」
真那は、それ以上訊かなかった。
背中を撫でる手は、止まらなかった。
壁の向こうで、冷蔵庫が低く鳴っている。自分の部屋のものだった。今日も、甘いものだけが入っている。
去年の十二月も、あの冷蔵庫の前にいた。手が伸びなかった。
数歩先に、この部屋があった。鳴らせば、出てくるかもしれないと思った。
会えば崩れる、と思った。崩れたものを、この人にぶつけるわけにはいかないと思った。だからあのときは、会えないと思った。
今は、崩れている。崩れたまま、会いにきている。ぶつけている。
それは良くない気がした。それでも、腕の中のこの人を手放せなかった。
◆◆◆
三十分を過ぎても、真那は何も言わなかった。
真那を離そうと思っても、腕の力は抜けなかった。




