後日談 定期
土曜日の午前、若月湊は冷蔵庫を開けた。
おにぎりが、二たつ入っている。木曜日のぶんと、金曜日のぶんだ。どちらも郵便受けから取ってきて、そのまま入れた。
食べられなかった。
冷蔵庫を閉めて、シンクの前に立った。
水曜日から、甘いものを買っていない。だから郵便受けに入れるものもない。三日、何も入れていない。
自分の部屋のドアから、隣のドアまでは三、四メートル。
木曜日と金曜日は、残っていた更新を片付けた。定時では終わらなかった。終わらせなかった。
帰ったのは十時過ぎで、隣の窓はもう暗かった。
遅いから、チャイムを鳴らすこともしなかった。
顔を見たいと思うたびに、腕の中でこぼれた溜め息を思い出す。
苦しいです、と言われた。
あのとき、分かっていた。力が強すぎることも、相手が困っていることも、分かっていた。
相手が何を嫌がるかは、分かる。それを察するのは、得意なほうだった。
だからあのときも、分かっていた。分かっていて、離さなかった。
湊は、蛇口をひねって水を出した。それから、止めた。
何をしようとしたのか、思い出せなかった。
◆◆◆
チャイムが鳴った。
ドアを開けると、樗木真那が立っていた。
両手に袋を提げている。ねぎの緑が、袋の口から出ていた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
湊は、ドアを押さえた。目を合わせるのに、少し時間がかかった。
「ご飯、作りに来ました」
「……そうですか」
真那は上がって、袋をキッチンの調理台に置いた。
それから、こちらを向いた。
「若月さん」
「はい」
「食べられそうですか」
湊は、口を開いた。
開いて、言葉が出てこなかった。
腹が空いているのかどうかが、分からない。昨日も今日も、何も食べていない。それで平気だった。平気なのがおかしいことは分かるけれど、食べたいかどうかは分からない。
「……分かりません」
言ってから、また困らせてしまう、と思った。
真那は、頷いた。
「はい」
それだけだった。
袋から、材料を出していく。ねぎ、卵、鶏肉。それからタッパーを一とつ。
「ご飯は炊いてきました」
「はい」
「雑炊にします。少なめにしますね」
湊は、頷いた。
◆◆◆
真那は、シンクの下から土鍋を出した。
十一月に買ったものだ。一番手前に入っていて、それ以外の置き場所はなかった。
水を張って、だしのパックを落とす。鶏肉を切って入れて、蓋をする。
鶏の匂いが立ってきた。
湊は冷蔵庫の前に立って、それを見ていた。座っていてくださいと言われなかったので、立っていた。
真那が、まな板を洗って、ねぎを刻む。ナイフだと力が入りにくいのか、少し手間取っていた。
ボウルがないからか、卵を茶碗に割って、箸で混ぜる。土鍋に流し入れる。
ふつふつと、雑炊の表面が動いていた。
真那が手を止めて、振り向いた。
「おたま、買ったんですね」
「……はい。買うと言ったので」
「あって、良かったです」
真那は、真新しいおたまを軽く洗って、それで雑炊をよそった。
◆◆◆
ローテーブルに、茶碗が二たつ並んだ。
湊のぶんは、半分より少なかった。
いただきます、と声が揃う。
茶碗に口をつけて、一と口食べた。
温かかった。それは分かった。味は、よく分からなかった。
もう一と口。鶏のだしの味がした。ねぎが甘かった。卵がとろりと絡んでいる。
三口目で、腹が動いた。
空いていたのだと、そこで分かった。
「……食べられます」
真那が、こちらを見た。
「良かったです」
「はい」
湊は、茶碗を持ち直した。
少なめにしたぶんは、すぐになくなった。
真那がこちらを見ていた。
「もう少し、ありますけど」
「もらいます」
真那は立って、鍋からよそってきた。
◆◆◆
食べ終わって、湊が茶碗を集めた。
シンクに置いて、水を出す。真那が調理台に土鍋を置いて、隣に立った。
狭いので、二人で洗い物はできない。
「若月さん」
「はい」
「今日だけでは、足りないと思います」
湊は、手を止めた。
真那は調理台に手を置いていた。こちらを見ていない。
「水曜日のことですけど」
「……はい」
「あれは、緊急対応でしたね」
「はい」
「緊急の対応は、それでいいんです。障害があれば、定期を待つことはできません。対応はすぐに必要です」
湊は、蛇口を止めた。
自分が帰り道で組み立てた理屈だった。真那には、言っていない。
真那はそこでようやく、湊の方を見た。
「でも、定期のほうを、決めていませんでした」
湊は、何も言えなかった。
「契約に定期の確認がないと、緊急のときにしか会わないことになります。それは、運用として良くないです」
仕事の声だった。
湊は、その声を知っている。仮面の向こうで何度も聞いた声だ。
◆◆◆
湊が茶碗と箸を洗い終えると、入れ替わって、真那が土鍋を洗い始めた。
湊は、すぐ隣に立っていた。
真那が手を止めずに、言った。
「週に一度で、足りますか」
湊は、答えようとした。
足りるかどうかは、分からない。分からないというより、どのくらい欲しいのかを、考えたことがなかった。
考えたことがないので、出てこない。
水を止めて、真那が湊を見上げる。
「足りないなら、増やします」
湊は、視線を上げなかった。真那の顔を見ることができないまま、言った。
「……多いほうが」
「はい」
真那が、頷いた。
それだけだった。
湊は、耳のあたりが熱くなるのを感じた。
真那は調理台の上に、土鍋を伏せて置いた。
◆◆◆
「じゃあ、週に二度にしましょう。次は水曜にします」
シンクの前で、真那は湊を見上げていた。
湊は頷いた。
「はい」
ほっとしたように、真那は笑った。布巾を手にして、調理台を拭く。
「変えたいときは、言ってください」
「はい」
いつもの理知的な瞳だった。まとめた髪が、少しほつれている。
「樗木さん」
「はい」
「今日から、はじめて良いですか」
真那が、顔を上げた。
少し考えるような顔をして、それから頷いた。
「はい。今日を一回目にします」
湊は、腕を伸ばした。
真那は頭一とつ小さい。だから、少し屈んで、引き寄せた。
腕の中で、真那の体が固くなった。握っていた布巾が、調理台に落ちた。
「……若月さん」
「はい」
「あの、これは」
「定期の維持管理です」
真那は、しばらく動かなかった。
それから、息を吐いた。
「……分かりました」
背中に、手が置かれる。
しばらく、そうしていた。
「樗木さん」
「はい」
「あとで、コンビニに行きます」
腕の中で、真那が少し動いた。
「……今ですか」
「あとです」
「はい」
「甘いものを、買ってきます」
真那が笑ったのが分かった。胸のところが、小さく震えた。
「買いすぎないでくださいね」
「……善処します」
力を緩めて腕の中を見下ろすと、真那も見上げてきた。
その頬に手を添えて、顔を近づける。
「若月さん」
「はい」
「これも、維持管理ですか?」
「はい」
真那はちょっと困ったように視線を動かしてから、目を閉じた。
湊は静かに、唇を重ねた。
◆◆◆
抱き締める腕の力は、思ったより呆気なく抜くことができた。
真那はするりと腕の中から出ていった。その耳が赤くなっているのが見えて、少し嬉しかった。
残った材料をまとめて、真那は玄関で靴を履いた。
ドアが開いて、冷たい空気が入ってくる。
「では、水曜に」
「はい」
ドアが閉まる。
次は、水曜だった。
週に二度では、すぐに足りなくなる。
それは、分かった。




