第1話 完璧超人は校舎裏で焼きそばパンの夢を見るか
「平穏無事」
それが、俺――中野誠也の高校生活における絶対的なスローガンにして、生命線だ。
他人に深入りしない。誰にも期待しない。ただ己に課されたタスクと筋トレだけを、淡々とこなすだけ。
「省エネ」と言えば聞こえはいいが、要するに面倒な人間関係を極力避け、誰にも干渉されない静かな日常を死守して生きているだけである。
***
朝の登校時。
喧騒に包まれる正門付近に近づくと、生徒たちの間の空気が、微かな緊張感と確かな熱を持ち、ピンと張り詰めるのがわかった。皆、ある一点をチラチラと意識しながら、背筋を伸ばして逃げるように、あるいは憧憬の眼差しを向けながら校門を通り抜けていく。
視線の先に立っていたのは、風紀委員の腕章をつけた一人の女子生徒。
「おはよう。そこの君、ネクタイが指定の位置より三ミリ下がっているぞ。身だしなみは心の鏡。たるみは隙を生む」
凛と響く、どこか冷涼な秋の空気を思わせる澄んだ声。
彼女の名は、剣崎凛。
うちの高校で、その名を知らない奴はモグリだ。
俺より一学年上――高校2年生にして全国大会常連の剣道部主将兼風紀委員長。成績は常にトップクラスで、今時珍しいほどに、質実剛健を絵に描いたような性格。
おまけに女子にしては174センチと長身で、モデルのようにスレンダー。雪のように白い肌に風に揺れる黒髪のポニーテールと、隙のない凛とした佇まいには、男女問わず無数の隠れファンクラブが存在しているらしい。
「あ、ありがとうございます、剣崎先輩……!」
注意された男子生徒は、怯えるどころかなぜか嬉しそうに頬を染めてネクタイを締め直している。彼も信者の一人なのだろうか。
俺は少しだけ着崩していた制服の第一ボタンをさりげなく留めた。169センチでピタリと止まってしまった自分の身長を密かに呪いながら。……いや、靴を履けば170だ。人権はある。……多分。
面倒事には巻き込まれたくない省エネ主義者にとって、彼女に目をつけられるのは最も避けるべき事態だ。
今日もご立派なこって。
そう心の中で毒づきながら、彼女と目を合わさないように俯きながらサッと校門を抜ける。すれ違いざま、風に揺れた彼女の髪から、ふわりと、仄かに香る石鹸のような清潔な匂い――それにわずかに混じる、甘ったるいエナジードリンクの匂いが鼻を掠めた気がした。
……まぁ、どうでもいい。剣を手放した俺とはもう、関係のない存在だ。
在りし日の俺が焦がれた剣士。されど、今の俺とは住む世界が違う、完璧な人間。
それが、俺の剣崎凛に対する絶対の認識だった。
――数時間後の、昼休みまでは。
***
第四のチャイムが鳴り響くと同時に、俺はカバンから弁当箱と購買で買っておいた焼きそばパンを掴み、素早く教室を後にする。
向かう先は、校舎の裏手にある古い体育倉庫の横。
人通りが全くなく、日陰になっていて涼しいこの場所は、俺にとって唯一のパーソナルスペースだ。手作りの弁当を誰にも邪魔されずに味わうには最高の環境である。
「さて、今日の仕上がりは……」
一人暮らしの自炊スキルが極まった結果、俺の弁当はちょっとした定食屋レベルに達していると自負している。
今日のメインは、低温調理でしっとり仕上げた鶏むね肉の南蛮漬けだ。自家製の黒酢タレと特製タルタルソースの相性は抜群で、副菜のサラダやマリネと合わせた栄養バランスも完璧。
我ながら素晴らしい努力の結晶である。満足げに二段構えの弁当箱を開けようとした、その時。
「……っ、うぅ……っ」
俺の耳が、倉庫の裏側からの微かな声をキャッチした。
猫か何かか? いや、これは明らかに人間の……啜り泣く声。しかも、必死に何かを堪えるような、厄介ごとの予感しか感じない声。
面倒事はご免だ。見なかったことにして、今すぐに教室へ戻るべきだ。
脳内では危険信号がけたたましく鳴り響いているのに、俺の足は勝手に声のする方へと動いていた。こういう「困っている人を放っておけない」致命的なまでに損な性格のせいで、これまで何度も痛い目を見てきたというのに。
足音を殺してそっと壁から顔を覗かせる。
過去の教訓が全く生かされていない自分に、内心で舌打ちしながら。
声が聞こえてきた倉庫の裏。そこにいたのは、最もこの場所に似つかわしくない人物だった。
「……なぜ……今日に限って……っ」
地面にしゃがみ込み、両手で小さなアンパンを大事そうに握りしめている女子生徒。
朝の堂々とした立ち姿はどこへやら、背中は丸まり、その肩は小刻みに震えていた。誇り高く揺れていたはずのポニーテールも、今は悲しげに項垂れている。
剣崎凛、その人だった。
「……私の人生には……もはや、焼きそばパンすら、味方してくれないというのか……っ。なんで、いつもなら必ず買えたのに……!」
……は?焼きそばパン?
ぽろり、ぽろり。
端正な目元から大粒の涙がこぼれ落ち、虚しく握られたアンパンの表面に吸い込まれていく。
思わず自分の目を疑ってしまうのも無理はないだろう。
あの、完璧超人だと持て囃されている剣崎先輩が。いつも凛としていて、涙を流すところなんて全く想像できない、あの鉄の風紀委員長が。
たかが購買の焼きそばパンが売り切れていたくらいで、ボロボロと涙を流しているというのだから。
いや、え、嘘だろ……?
完璧超人の、あまりにも情けなく、そして不器用な姿。
普通ならここで立ち去るのが大正解だ。彼女にとっても、こんな無防備な姿を下級生に見られるのは切腹ものの屈辱に違いない。
そっと踵を返そうとした。
しかし、陽の光の下で見えた彼女のひどく疲労しきった横顔と、涙で崩れた化粧から覗いた濃い隈と、少しパサついている毛先、病的なまでに白い肌が、俺の足を縫い止めた。
もしかしたら、朝の凛とした姿は、文字通り身を削って、限界まで張り詰めた糸の上で踊るような虚勢だったのではないか。あのエナジードリンクの匂いが、気のせいではないのだとしたら。
いや、だとしても、俺が首を突っ込むべきではない。彼女ほどの人物ならば、きっと助けてくれる友人や信者がいるはずだ。
そう、自分に言い聞かせたのに。
ぐきゅるるるるる……っ、と。
彼女から、特大の腹の音がはっきりと聞こえる。
「……はぁ」
気づけば、深く諦めのため息をつき、手に持っていた焼きそばパンと弁当箱の重さを確認している俺がいた。
予備として買っておいた、特大サイズの焼きそばパン。そして、俺の持てる技術の粋を集めた至高の南蛮漬け弁当。
一歩、踏み出す。
「……焼きそばパン、売り切れだったんですか?」
俺に全く気づいていなかったのだろう。剣崎先輩は、俺の声にビクゥッと肩を跳ね上がらせ、弾かれたように顔を上げた。そのあまりの驚きようは、普段の姿からは想像できないほどコミカルで。
涙で潤んだ瞳が、湧き上がる笑いを必死に噛み殺している俺を捉える。その端正な顔は、驚愕と羞恥でみるみるうちに真っ赤に染まっていった。
「な、きしゃま……貴様……っ! なぜここに……! もしや、み、見たのか……!? いや、違う! 私は決して、パンくずのために涙を流すような軟弱者ではっ!」
慌てて立ち上がり、いつもの威厳を取り戻そうと声を張り上げる先輩。
だが、右手にしっかりと握られたかじりかけのアンパンが絶望的にしまらない。さらに言えば、口元の端には小さなあんこがちょこんと付いている。威厳もへったくれもない。
何より、自分で全部白状している。この人、思ったよりポンコツだな?
「俺、いつもここで飯食うので。……ああ、そうだ」
俺は彼女の苦しい言い訳を遮るように、特大サイズの焼きそばパンを彼女の目の前に差し出した。さらに、もう片方の手で弁当箱を開けて見せる。我ながら器用なもんだ。
「これ、俺の予備の焼きそばパンと……俺が作った弁当です。メインは鶏むね肉の南蛮漬け。もし、よかったら。一緒に食べますか?」
剣崎先輩の動きがピタリと止まった。
その視線は、俺の顔、こってりとしたソースが絡む焼きそばパン、そして艶やかな黒酢タレが光る南蛮漬けの間を、残像が残りそうなほど、凄まじい勢いで往復している。
隠しきれずはっきりと聞こえた、ゴクリ、と喉が鳴る音。
「なっ……! そ、そんな見ず知らずの男に。ましてや、ネクタイの色からするに貴様は下級生だろう!?そんな相手から施しを受けるなど、風紀委員長として、いや、剣士の誇りにかけて――」
「いや、嫌ならいいですけど。じゃあ俺、午後からめっちゃ腹減るんで全部自分で食べますね。あー、この自家製タルタルソースと黒酢の相性、最高なんだよな」
わざとらしく焼きそばパンと弁当を引き下げようとした、その瞬間だった。
「ま、待てっ!!」
ガシッ、と。
彼女の細い両手が、俺の腕を引き留めた。
全国レベルの剣道部主将にしては、幾分弱々しく感じる力。いくら女性とはいえ、こんなものなのか?
そんな疑問を抱いたせいで、振り払うのを一瞬躊躇してしまう。その隙に彼女は一歩こちらに踏み込み、俺たちの距離はぐっと縮まる。
169センチの俺と、174センチの剣崎先輩。
その5センチの差のせいで、俺は彼女を少しだけ「見上げる」形になってしまった。ただでさえ威圧感のある先輩に見下ろされる構図になり、いつもは冷徹な瞳を縁取る、涙で濡れた長いまつ毛まで見えてしまって思わず息を呑む。
だが、至近距離で俺を見つめ返した彼女が、ふいにハッと息を呑んで目を見開いた。
その視線は俺の顔ではなく、俺の前腕――普段は制服で隠れ、着痩せする俺だが、この時はたまたま袖を捲っていた――に向けられていた。
高校生にしては珍しいほどに鍛え上げられた、太い血管が這う筋骨隆々の腕。それは俺の、過去のトラウマを忘れるための、努力の証。
「……っ!?」
彼女の視線が、焼きそばパンから俺の腕へとスライドし、そこから釘付けになったようにピタリと動かなくなる。細い指先が、俺の腕に浮き出た筋肉の筋をなぞるように微かに震えている。
なんだ、この熱っぽい視線は。
「あの、先輩? 痛いんですけど。それに、近いです」
「……ぁ、あぁ、すまない。弁当だったな?い、いただこう。いや、適正な価格で買い取らせてほしい。……頼む」
俺を見下ろす形でありながら、その声は消え入るようで。しかし絶対に手放さないという異常な執念が籠もっていた。
彼女の目は既に、完全な虜になってしまっている。焼きそばパンと手作り弁当、そして何より『俺の腕の筋肉』の虜に。
これが、俺と彼女――人間不信で省エネ主義な俺と、完璧超人……ではなく、実は限界ギリギリでポンコツな先輩との、奇妙で厄介、されど甘い救済の始まりだった。




