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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第7話 一時間

 あのギルドの隅で、男がカウンターに叩きつけた革袋。

 中にある硬貨が擦れ合う鈍い音は、今も耳にこびりついて離れない。

 それは聖歌よりも救いに満ちた響きであり、同時に、俺が再び人殺しの業に身を投じることを決定づけた、断罪の鐘の音でもあった。


「……おじさん、ここ、いい匂いがする」


 アヤメが足を止めたのは、軒先から白い湯気と笑い声が溢れる大衆料理屋の前だった。

 店内に一歩入れば、煮込み料理の芳醇な香りが鼻をくすぐる。

 アヤメは品書きの端にある、一番安い「パンと薄いスープ」を指差し、申し訳なさそうに俺を見上げた。


「これ……これだけでいいよ。お仕事の大事なお金でしょ?」


「そんな細い腕で、いつまで俺のコートに掴まっていられる。もっと食え」


「あ……。だって、大切に使わなきゃ……」


 健気な嘘をつく彼女の指を、俺はそっと押し戻した。

 その指先は、外の冷たい風を引きずって、氷のように冷え切っている。

 俺は店員を呼び止め、男から受け取ったばかりの革袋の重みを指先に感じながら、注文を告げた。


「この娘に、一番いい牛の煮込みと、蜂蜜を入れた温かいミルクを。それから、焼きたての白パンだ」


「えっ、おじさん……! そんなに贅沢しちゃだめだよ!」


「いいから食え。……俺は、お前にこれを食わせるために、あの依頼を受けたんだ」


「……うん。ありがとう、おじさん」


 運ばれてきた料理は、野宿の焚き火で炙ってきた泥のような干し肉とは、比べものにならないほど輝いていた。

 器から立ち上る湯気がアヤメの顔を包み込み、冷え切っていた彼女の輪郭を柔らかく解かしていく。


「わあ……! お肉、お口の中で溶けちゃう。すっごく美味しい!」


「そうか。……なら、もっと食え」


 アヤメは最初こそ遠慮していたが、一口食べると瞳を驚きに見開き、無我夢中でスプーンを動かし始めた。

 頬を膨らませて懸命に咀嚼するその姿は、この殺伐とした町にはあまりに不釣り合いなほど無垢だった。

 湯気に包まれて桃色に染まっていく彼女の頬。それを眺めながら、俺は冷えたエールを喉に流し込む。


(この平穏は、明日には誰かの血で購われるものだ……)


 温かな食事を楽しむ彼女の背後に、黒い死の影が張り付いている。

 美味そうに白パンをちぎる彼女の指先を汚さないために、俺はこれから何人の命を摘み取ることになるのか。

 そう自覚するたび、俺の腹の底には、あの革袋と同じ鉛のような冷たさが溜まっていった。

 食事を終え、夜の帳が下りた町へと繰り出した。

 二人で腹を満たしてもなお、あの男が「誠意」と呼んだ革袋には、まだ十分な余裕がある。

 路地裏の湿った空気とは対照的に、目抜き通りには華やかな魔法灯が灯り、宝石のような光を石畳に落としていた。


「アヤメ、こっちへ来い」


「なになに? どこに行くの?」


「好きなものを選べ。リボンでも何でもいい。……形に残るものを、持たせてやりたいんだ」


 俺は革袋から鈍く光る数枚の銀貨を取り出し、彼女の小さな掌に握らせた。


「えっ、いいの!? どうしよう、何にしよう……あっちも気になるなぁ」


「慌てなくていい。じっくり選べ」


 銀貨の重みに戸惑いながらも、アヤメの顔には子供らしい輝きが戻っていた。

 彼女はあちこちの店を覗き込み、色とりどりの刺繍や、細かな木工細工に目を奪われていた。

 その背中を追う俺の口元が、わずかに緩んでいたのかもしれない。


「おじさん、あっちの角も見てきていい? すぐ戻るから!」


「ああ。……だが、俺の目の届く範囲にいろ。遠くへは行くなよ」


「はーい! すぐだよ!」


 少しだけ、警戒が緩んでしまっていたのかもしれない。

 アヤメの喜ぶ姿に毒気を抜かれ、かつての直感が鈍っていた。

 アヤメが露店の影に隠れ、彼女の背中が視界から外れた、その数瞬のことだった。


「――っ、やめて! 返して、それは……!」


「ひひっ、いいもん持ってんじゃねえか!」


「よこせ! お前には似合わねえだろ!」


 悲鳴に近い少女の声が路地に響き、俺の心臓は一瞬で氷結した。

 一拍置いて、沸騰したような怒りが脳を焼く。

 反射的に先割れスプーンに手をかけ、地を蹴る。

 路地の角へ滑り込むと、三人の少年たちがアヤメを壁際に追い詰め、取り囲んでいた。


「おい、ガキが銀貨なんて持ってちゃ危ねえだろ?」


「俺たちが預かってやるよ。感謝しな!」


「だめ……返して! それは、おじさんが……私のためにくれたものなの……っ!」


 リーダー格の少年が、アヤメの掌から銀貨を乱暴にひったくった。

 抵抗しようとしたアヤメは地面に突き飛ばされ、泥水に汚れながらも、必死に手を伸ばして叫んでいた。

 掌には、銀貨を奪われた際に付いたであろう赤い傷跡が痛々しく残っている。


「うるせえ! ほら、行くぞ。今日はご馳走だ!」


 少年たちが勝ち誇ったように笑い、逃げ出そうと背を向けたその瞬間。

 彼らの行く手を、大きな影が遮った。


(連携が取れている。……ただの浮浪児じゃないな)


 獲物を追い詰めるその足並み、死角を塞ぐ身のこなし。

 背後に透ける薄汚い組織の影を直感し、俺の手は自然と得物へと伸びかける。

 だが、その衝動を理性がかろうじて抑え込んだ。

 こいつらは、まだ子供だ。

 声をかけようとした指先を、音もなく引き戻す。

 この幼い賊たちに制裁を加える必要はない。こいつらはただの「手駒」であり、俺が振るう刃の価値に見合わない。

 少年たちは盗み出した金品を汚れた布袋に詰め、夜の帳へと消えていく。その怯えた足取り、不自然に統制された動き――。

 直感が告げている。この少年たちを操り、泥にまみれさせている黒幕こそが、俺が今宵、命を刈り取るべき「標的ターゲット」だ。


「……泳がせてやる。そのまま案内してくれ」


 低く呟いた声は、冷たい夜風に溶けて消えた。

 少年たちの小さな背中を見送る俺の瞳から、一抹の迷いも消え失せる。

 俺は一歩、影へと踏み出した。少年の救済ではなく、その根源にある「ボス」の死を完遂するために。

 少年たちが夜の闇に吸い込まれていくのを、壁の影からじっと見送った。

 あいつらを捕らえたところで、空腹が満たされるわけでも、罪が消えるわけでもない。

 俺がやるべきことは、彼らを泥沼に突き落としている「源流」を断つことだ。


「……私も行く」


「待て。お前が踏み込むべき場所ではない」


「……」


 アヤメの視線が、俺の手に握られた「スプーン」に、そして俺の冷え切った瞳に注がれる。

 彼女は言葉を飲み込んだ。

 俺がこれから向かう先で、どのような「音」が響き、どのような「色」が床を染めるのか。

 彼女は薄々感づいている。

 俺が、ただの腕の立つ冒険者などではなく、血の匂いを纏う「別の何か」であることを。


「……わかったわよ。でも、一時間だから」


 アヤメの声は微かに震えていた。

 それは俺への不信ではなく、触れてはいけない深淵を覗き込んでしまった者の震えだった。

 その真意を口にすることなく、俺はただ背を向けた。


「ここで待ってろ。一時間だ」


「……約束よ。戻らなかったら……」


 アヤメは悔しげに唇を噛みながらも、最後には力なく手を離した。

 彼女の視線を背中に浴びながら、俺は一度も振り返らずに闇へと溶け込んだ。

 辿り着いたボスの邸宅は、遠目には城のようだったが、近づくほどにその悪趣味さが鼻についた。

 門には金箔を塗りたくられた獅子の像が鎮座し、外壁には脈絡のない英雄譚の浮き彫りが並んでいる。

 真の貴族が持つ洗練さとは無縁の、ただ金を積み上げただけの「成金」の傲慢さが、石造りの隙間から溢れ出していた。

 俺は外壁の死角を選び、音もなく跳躍した。

 バルコニーを指先一つで掴み、二階の窓から内部へと侵入する。

 絨毯は厚く、足音を完全に吸い込む。

 廊下には高価だが統一感のない絵画が所狭しと並んでいた。

 空気には安物の強い香水と、隠しきれない血の匂いが混じっている。

「おい、さっきのガキども、金は持ってきたんだろうな?」

 廊下の向こうから、下卑た笑い声と共に二人の男が歩いてきた。

 俺は懐から「それ」を取り出した。

 俺が持つ唯一の武器。銀色に鈍く光る、先割れスプーンだ。

 一人目の男とすれ違う瞬間、俺の手首が閃いた。

 スプーンの鋭利な三又の先端が、吸い込まれるように男の喉笛を貫通する。


「ガ……ッ」


 漏れようとした悲鳴を、俺の掌が即座に塞ぐ。

 そのままスプーンを横に一閃させ、頸動脈を深く断ち切った。

 噴き出す熱い血を俺の外套で受け止め、男の体が完全に弛緩するまで静かに抱え込み、床に横たえる。


「なっ、貴様――!」


 遅れて異変に気づいた二人目が、腰の剣に手をかける。

 だが、その指が柄に触れるより早く、俺は一歩踏み込み、男の懐へ潜り込んだ。

 逆手に持ち替えたスプーンの丸い縁を、男の眉間へと叩き込む。

 強靭な魔力を乗せた一撃は、鈍い破壊音とともに頭蓋を内側から粉砕した。

 白目を剥いて崩れる男の顔面に、さらにスプーンの先端を突き立て、確実にトドメを刺す。

 廊下の先、さらに三人の手下が異変を察知してこちらへ駆け寄ってくる。

 俺は影を縫うように疾走した。

 一人目の懐へ滑り込み、スプーンの尖端を眼窩へ突き刺し、脳まで貫く。

 悲鳴を上げる暇さえ与えず、死体を引きずりながら二人目への盾にする。

 困惑する二人目の喉元を、スプーンの縁で剃刀のように切り裂いた。

 最後の一人が恐怖に顔を歪め、大声を上げようと口を開く。

 その口内へ、俺は無造作にスプーンを叩き込んだ。


「あが……っ」


 舌を根元から潰し、そのまま後頭部を壁に叩きつける。

 鈍い音とともに、男の意識は闇に沈んだ。

 血に濡れたスプーンを一振りし、粘り気のある赤い飛沫を絨毯に散らす。

 周囲には、もはや物言わぬ肉の塊が五つ。

 死体は物陰に蹴り込み、再び無音の歩法で奥へと進む。

 曲がり角ごとに現れる手下たちを、俺は食事でもするかのような手際で「片付けて」いった。

 喉を突き、心臓を抉り、時にはスプーンの縁で頸椎を断つ。

 アヤメの想像通り、もはやそこに人間としての尊厳など介在する余地はない。

 俺はただ、害虫を間引く機械のように、静かに、そして確実に命を刈り取っていく。

 目指すのは、この悪趣味な屋敷の最上階。

 少年たちを使い捨て、自分だけはこの贅沢な檻で肥え太っている「標的」の部屋だ。

 アヤメとの約束まで、あと四十五分。

 その命をこのスプーンですくい上げるには、十分じゅうぶんすぎる時間だった。

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