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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第8話 裏社会の支配者

 重厚な黒檀の扉を前にして、俺は一度、熱を帯びた重い呼気を吐き出した。

 この扉の向こう側に座る男を殺したところで、この街の住人たちが心から快哉を叫び、明日への希望を抱くわけではない。

 彼らにとって、支配者が一人消えることは、また別の新しい恐怖が空席になった椅子に座るまでの、ほんの短い休息に過ぎないからだ。

 結局のところ、この暗殺で最も醜い笑みを浮かべるのは、商売敵の排除を画策し、俺に銀貨を握らせた強欲な依頼人だけだろう。


「……騎士や冒険者の領分だな、本来は」


 誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に呟く。

 正義を標榜する騎士が法の名の下に断罪するか、勇猛な冒険者が白日の下で大剣を振るい、悪を討ち果たす。

 それが、この世界の物語としては正しい幕引きのはずだ。

 暗殺者という日陰者が、銀色のスプーン一本で男の首を刈るような結末は、あまりに不格好で、救いがない。


「だが、仕事だ。金は受け取った」


 俺は一瞬で思考を切り替え、冷徹な機械へと戻った。

 廊下の突き当たりにある、意匠を凝らした通気窓へと視線を向ける。

 正面の魔法鍵を避けるため、俺は一度建物の外壁へと逃れた。

 夜の冷気が頬を叩く。

 悪趣味な石像の突起を足場にして、垂直に近い壁を音もなく登り、最上階のテラスへと取り付いた。

 指先から伝わる石材の冷たさが、研ぎ澄まされた感覚をさらに鋭くさせる。

 窓の合わせ目に先割れスプーンの鋭い先端を差し込み、微かな魔力を込めて内部のボルトを跳ね上げる。

 カチリ、という小さな金属音さえ、風の音に紛れ込ませた。

 俺は一寸の淀みもなく、豪華なカーテンの隙間から室内へと滑り込んだ。


「……ようやく来たか。待ちくたびれたぞ、暗殺者」


 部屋の中央、深紅の革張りソファに腰を下ろした男が、静かにワイングラスを傾けていた。

 事前の予想に反して、ボスは肥え太った醜悪な男ではなかった。

 むしろ痩身で、仕立ての良い漆黒の燕尾服を完璧に着こなしたその姿は、一見すると教養溢れる紳士そのものだ。

 だが、向けられた視線の奥には、他人をただの使い捨ての道具としか見なさない、底冷えするような冷酷な光が宿っている。

 壁に掛けられた巨大な肖像画や、棚に並ぶ高価な骨董品が、彼の権力の大きさを無言で誇示していた。


「手下どもの悲鳴が途絶えてから、少々時間がかかったな。正面突破を捨てて、窓から入るとはなかなかに慎重なことだ」


 ボスは不敵に笑い、獲物を品定めするように俺を眺めた。

 部屋の中には、彼が放つ圧倒的な「個」の圧力が、濃密な霧のように充満している。

 それは数多の修羅場を潜り抜けてきた者だけが放つ、独特の静かな威圧感だった。


「驚いたか? お前が来ることは、はじめからわかっていた。依頼人のあさましい顔が目に浮かぶよ。あいつは昔から、自分の手を汚さずに他人を消すことだけには熱心でね」


 俺は無言のまま、逆手に持った先割れスプーンを低く構えた。

 銀色の表面に、部屋の豪華なシャンデリアが歪んで映る。

 周囲の空気は、まるで見えない鎖に縛られたように重く沈んでいた。


「恨みはない。仕事だ、命をもらう」


「仕事、か。いい響きだ。嫌いではないよ」


 ボスは余裕を崩さず、飲み干したグラスを大理石のテーブルに置いた。

 その動作には一切の隙がない。

 彼は椅子から立ち上がることなく、ただ俺を見つめているだけなのに、部屋の隅々まで彼の支配下にあるような錯覚を覚える。


「だが私をただの成金だと思ったのなら、お前も、お前の飼い主も、ひどく愚かだな。金で買えないものがあることを、そろそろ学んだ方がいい」


 俺は爆発的な踏み込みで間合いを詰め、影が跳ねるような速度で銀色の閃光を走らせた。

 剥き出しになった頸動脈を正確に捉える。

 必殺。回避不能。熟練の戦士であっても、この速度には反応できない。

 そう確信した一撃だった。

 しかし、スプーンがその肌を切り裂く寸前、男は座ったまま、まるで羽虫を払うかのような最小限の動作で首を傾けた。

 銀の先端が空を切り、空気に鋭い音が鳴る。


「……っ!?」


 俺は即座に手首を返し、横一文字に薙ぐ。だが、男は俺の動きの先を読むように、上体をわずかに引いてそれをかわした。

 俺の攻撃はすべて、紙一枚の差で届かない。

 男は指一本俺に触れることなく、ただ優雅な身のこなしだけで、俺の必殺の刺突をすべて無効化していく。


「甘いな。殺気だけは一流だが、動きが型通りすぎる。その程度か」


 男の身体から、隠しきれない真の強者のプレッシャーが溢れ出す。

 それは、何千もの魔物を屠り、何百もの死線を潜り抜けてきた者だけが纏う、血生臭い覇気だ。


「驚いたか? 私もかつては冒険者でね。剣一本で、泥の中から這い上がってきた。お前が生まれる前から、私は死体と会話してきたのだよ」


 俺の暗殺術が、通用しない。

 これまで数多の標的を仕留めてきた俺の絶対的な技術が、この男の前では遊びのように扱われている。

 男は未だにソファから立ち上がることすらしていない。

 その余裕が、俺への何よりの侮辱であり、実力の差を見せつけていた。


「引退して久しいが、格下の殺し屋に遅れを取るほど鈍ってはおらんよ。暗殺術など、正面から力で見切ってしまえば、赤子の手をひねるより容易い」


 絶体絶命の静寂の中、ボスは残酷な笑みをさらに深く刻んだ。

 部屋の明かりが男の顔を不気味に照らし出し、彼の影が怪物のように伸びている。


「さて、そのスプーンで、次は何を掬い上げるつもりかな? 慈悲か? それとも自分の命か?」


「……」


「依頼人には伝えておこう。お前の死体という、身の程を知るための高い代償を払わせたとな。そして、次はお前の番だとね」


 男はゆっくりと立ち上がり、俺を見据えた。

 その手には武器さえないが、それこそがこの男が持つ底知れない武力の証左だった。

 視界が次第に重圧に染まっていく。

 だが、俺の心臓はまだ諦めてはいなかった。

 ボスの圧倒的な威圧感が部屋に満ちる中、俺は一言も発さず、ただ静かに一歩、後ろへ下がった。

 饒舌なボスとは対照的に、俺の喉は凍りついたように動かない。

 だが、それは恐怖ではなく、次なる「必殺」のための集中だった。

 俺はそのまま背を向け、窓から夜の闇へと身を投げた。

 暗殺者にとって、逃げることは恥ではない。

 あえて標的の前に姿を晒したのは、作戦の一環であり、近づいた際に肌で感じ取った男の底知れぬ雰囲気に対する、俺なりの敬意の表れであった。

 素性も過去も知らないが、立ち昇る殺気が、彼が並の標的ではないことを物語っていた。

 その強者に対し、まずは正面から一度存在を誇示すること。

 それが、俺なりの儀式だった。

 だが、俺の「仕事」はまだ終わっていない。

 窓から飛び降り、階下のひさしを蹴って、俺はすぐさま隣の建物の影へと潜り込んだ。

 ボスが勝利を確信し、ふっと肩の力を抜いた瞬間――退散からわずか数分。

 俺は再び、今度は一切の音も、殺気も、光も持たぬ「完全な暗殺術」を以て、ボスの背後から部屋へ滑り込んだ。

 正面からでは通じぬ相手なら、その意識の「隙」を突く。

 手にした先割れスプーンが、立ち上がろうとしたボスの延髄を音もなく、深く貫いた。

 強敵であったはずの男は、自分がいつ、何によって命を刈り取られたのかさえ気づかぬまま、膝から崩れ落ちた。


「……」


 声もなく、俺はボスの遺体から証拠の指輪を抜き取ると、再び闇へと溶け込んだ。

 夜明け前、街の外れの廃屋で銀髪の少女、アヤメと合流した。


「おかえりなさい、おじさん……。終わったの?」


 アヤメが不安そうに俺を見つめる。

 武器など持たぬ彼女の細い指先が、俺の袖を遠慮がちに掴んだ。


「ああ。行くぞ」


 報酬を受け取るためギルドへと戻ったが、依頼人の姿はない。

 受付の男から「西の貯水池まで来い」という紙片を渡された。


「ねぇ、おじさん。あそこ、暗くて怖いよ……本当に行くの?」


「……ああ。罠だろうな」


 俺は短く答えた。

 依頼人が素直に金を払うとは端から思っていない。

 ボスの首を獲れるような危ない奴を生かしておくはずがないからだ。

 俺はその末路を、薄々どころか確信に近い予感として抱いていた。

 貯水池に着くと、案の定、武器を構えた十数人の刺客たちが待ち構えていた。

 そこには人間の荒くれ者だけでなく、夜目が利き、並外れた嗅覚を持つ獣人の姿も混ざっている。


「悪いな。主人の命令だ。証拠の指輪を持ったお前らを、ここでまとめて始末させてもらう」


 鋭い牙を剥き出しにした狼の獣人が、低く唸り声を上げた。


「おじさん……!」


 アヤメが怯えて俺の背後に隠れる。


「アヤメ、耳を塞いで伏せてろ。すぐ終わる」


「……うん、わかった。おじさん、気をつけてね」


 地面にうずくまる彼女を庇いながら、俺は懐から先割れスプーンを抜き放った。


「はっ、そんなガラクタで俺たちの牙に勝てるかよ!」


 獣人が風のような速さで跳躍し、鋭い爪を振り下ろす。

 だが、その一撃が届くよりも早く、俺の身体は影よりも深く沈み込んでいた。

 俺は一瞬の迷いもなく踏み込み、獣人の懐へ滑り込むと、先割れスプーンの先端をその喉笛に深く突き立てた。


「が……はっ……」


 驚愕に目を見開く獣人を蹴り飛ばし、返り血を浴びる間もなく次なる人間の刺客の眼窩を貫く。


「ぎゃあああッ!?」


「な、なんだこの速さは……! 獣人の動きを見切るなんて!」


 武器を使えないアヤメは、俺の背後で小さく丸まり、震えながら嵐が過ぎ去るのを待っていた。

 数分後、貯水池の周りには物言わぬ肉塊が転がっていた。

 俺は息絶え絶えの指揮役の男を、血濡れのスプーンで指し示した。


「依頼人はどこだ。吐け」


「ひ、東の門の近くに……馬車を待機させて……逃げるつもりだ……がはっ」


 男の心臓を貫き、俺はアヤメの小さな手を引いた。


「アヤメ、門へ向かうぞ。……あいつに会って、この街を出る」


「……うん。あのね、おじさん。私、怖いけど……おじさんが守ってくれるなら、どこへでもついていくよ」


「ああ、約束だ。……もう、誰も俺たちを邪魔させない」


 俺たちは石畳を蹴り、最後の獲物が待つ東の門へと走り出した。

 遠くのボスの屋敷の方からは、異変に気づいた部下たちの怒号と警鐘の音が響き始めている。

 門の近くには、豪奢な馬車が止まっていた。

 その影で、依頼人の男が落ち着かない様子で周囲を見渡している。

 貯水池へ送った私兵たちの報告を待っているのだろうが、彼らはもう来ない。


「おい、まだか! あの殺し屋は始末したんだろうな!」


 男の叫びに、俺は影から応えることなく、ただ静かに歩み寄った。


「アヤメ、ここで待ってろ。すぐ済む」


「え……? おじさん、どこに行くの?」


「忘れ物を、取りに行くだけだ」


 俺は彼女を馬車の陰に立たせると、一人で依頼人の前に姿を現した。


「だ、誰だ……!? ひっ、お前は……!」


 男の顔が驚愕に染まる。

 俺は無言で、手にした血塗れの指輪を男の足元に放り投げた。


「約束の報酬をもらおう」


「な、何を言っている! 衛兵! 誰か来い!」


 男の絶叫は、深夜の街には虚しく響くだけだった。

 街の衛兵たちは遠くの屋敷の騒ぎにかかりきりで、この門まで手が回っていない。

 俺は一歩、また一歩と詰め寄り、懐から先割れスプーンを取り出した。


「待て! 金ならやる! 倍だ、いや三倍払う! だから……!」


「……契約は、最初の時点で破られた」


 俺の腕が動き、鈍い金属音が響く。

 依頼人の男は、喉を押さえながら、その場に崩れ落ちた。

 俺は男の懐から、重みのある金貨の袋を奪い取ると、返り血を拭ってからアヤメの元へと戻った。


「おじさん、おかえり。忘れ物、あった?」


「ああ。これだ」


 俺は金貨の袋を軽く振ってみせた。

 彼女の純粋な瞳に、この凄惨な光景を見せる必要はない。


「アヤメ、終わったぞ。行くか」


 アヤメは俺の手をぎゅっと握りしめ、静かに頷いた。

 俺たちは開かれたままの東の門をくぐり、街道へと足を踏み出した。

 ふと立ち止まり、朝靄に包まれ始めた街を振り返る。

 あのボス、そしてこの依頼人。

 この街の裏社会を支配していた「毒」を俺はすべて抜き去ってしまった。

 不浄なりに秩序を保っていた元締めがいなくなったことで、明日からは残された小悪党たちが牙を剥き出しにして、街の治安はこれまで以上に悪化するだろう。


「……」


 少しだけ、胸の奥がざわついた。

 俺がしたことは、この街にさらなる混沌を招く種を蒔いただけなのかもしれない。


「おじさん……? どうしたの?」


 アヤメが不思議そうに俺の顔を覗き込む。


「……いや、なんでもない」


 考えても仕方のないことだ。

 俺は聖者でもなければ、街を守る騎士でもない。ただの暗殺者だ。

 一人の少女を連れて、明日を生き延びること以上に優先すべきことなどない。

 俺は街に背を向け、歩き出した。


「おじさん、足が……少し痛いかも……」


「謝るな。俺の背中に乗れ。このまま夜が明けるまで走る」


「……うん。おじさんの背中、お日様の匂いがする」


 アヤメを背負い、俺は一歩一歩、確かな足取りで暗闇の中を進む。

 もう二度と、この不浄な街を振り返ることはない。

 朝焼けが地平線を染め始め、俺たちの長い夜はようやく終わりを告げようとしていた。

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