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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第9話 フランチェスカ

 新しい街「ブルッフ」の石畳は、前の街よりも幾分か乾いていた。

 だが、家々の隙間から漂う空気の淀みはどこも似たり寄ったりだ。


「……おじさん、お腹すいたね」


 アヤメが、俺の裾を遠慮がちに引く。

 見慣れぬ土地への不安と、長旅の疲れが、その小さな肩に隠しきれない影を落としていた。


「ああ。適当な店で何か買うか。美味い果物でもあるといいが」


 俺たちは喧騒の市場へと足を踏み入れた。

 活気ある呼び込みの声を切り裂き、一角から異様な怒号が放たれる。

 見れば、上質な絹の外套を羽織った初老の男が、露天商の若い女に向かって狂ったように喚き散らしていた。

 男は真っ赤な顔をして、顔中に刻まれた皺を歪ませながら、額の血管をはち切れんばかりに浮き上がらせている。


「――っ! ――!! ――ッ!!」


 男が何を叫んでいるのか、もはや誰にも理解できなかった。

 意味のある言葉として結実する前に、負の感情が濁った音の塊となって口から溢れ出している。

 単なる怒りというよりは、理性を失った獣の咆哮に近い。

 その音は聴く者の神経を逆撫でし、生理的な不快感が波紋のように市場全体へ広がっていく。

 周囲の客や商人は、そのあまりの剣幕と狂気に当てられ、吐き気を催すような表情で顔を背けた。

 関わりを恐れる人々が道を開け、そこには異様な空白地帯が出来上がっている。

 男は目の前の商品を無造作に叩き落とし、泥にまみれたリンゴを執拗に靴で踏みつぶす。

 若い女の店主は、青ざめた顔でただ立ちすくんでいた。

 反論することも、逃げ出すこともできず、金縛りにあったようにその場で激しい震えに耐えている。

 ふと隣を見ると、アヤメが俺のコートの端を指が白くなるほど強く握りしめていた。

 彼女は震える唇を噛み締め、俯いている。

 かつての地獄で、自分をモノのように扱った大人たちの理不尽な暴力。

 その記憶に耐えるように、身体を岩のように硬直させていた。

 その細い指先の震えだけで、彼女が今どれほどの恐怖を感じているか、言葉を交わさずとも痛いほど伝わってきた。


(……死なせる必要はない。だが、しばらくは他人を土足で踏みにじれないようにしてやる)


 本来なら、無視して通り過ぎるのが暗殺者の作法だ。

 だが、俺の横で震えるこの小さな重みが、俺の「仕事」の優先順位を狂わせた。

 俺は懐から、使い古された先割れスプーンを滑り込ませるように取り出した。

 人混みを縫い、波立つ殺気を完全に消して男の背後へ滑り込む。

 狂乱の渦中にいる男は、死神がその背に触れようとしていることさえ気づかない。

 男が再び大きく息を吸い込み、さらなる罵声を浴びせようとした、その瞬間。

 俺は男の背中、頸椎のわずか下にある急所へと、冷徹な精度でスプーンの先を突き立てた。


「……っ!?」


 男が声を上げる間もなかった。

 刃先が骨の隙間を抜け、筋肉の動きと身体の制御を一時的に遮断する。

 直後、男の全身から不自然に力が抜けた。


「あ、が……あ……」


 さっきまでの勢いはどこへやら、男はその場に膝から崩れ落ちる。

 糸の切れた人形のように崩れたその姿。

 同時に、自制心を失ったかのように、男の股下からじわりと黒い染みが広がった。

 耐えがたい悪臭が周囲に漂い始める。


「ひっ、ああ……あああ……!」


 傲慢に吠えていた初老の男は、今や自分の汚物にまみれ、赤子のように無様に悶えている。

 神経の麻痺が解けるまで、当面は自分の足で立つことも、威勢よく他人を圧し潰すことも叶わないだろう。


「うわっ、汚ねえな……」


「なんだよ、いい歳して漏らしてやがるぞ」


 恐怖は一転、冷ややかな嘲笑へと変わった。

 男は顔を真っ赤にし、震える腕で泥と汚物にまみれながら、這いずってその場を去っていった。

 一歩進むごとに道には無様な跡が刻まれ、その背中にはもはやかつての威厳など微塵も残っていない。

 俺は血の一滴もついていないスプーンを袖口で拭い、何事もなかったかのようにアヤメの元へ戻る。


「……行こう。あっちの店の方が、静かに買い物ができそうだ」


 アヤメは不思議そうに、這いずり去る男の背中を見送っていた。

 だが、やがて俺の手をぎゅっと握り直し、少しだけ安心したように微笑んだ。


「うん、おじさん。お腹、ぺこぺこだよ」


 暗殺者の指先が救えるものなど、本来はこの世に何一つない。

 だが、この温もりを守るための「掃除」なら、たまには悪くない。


 市場の喧騒を少し離れた、ブルッフの広場に面したオープンテラス。

 頭上では街路樹の葉が風に揺れ、石畳に柔らかな木漏れ日の斑紋を描き出している。

 昼下がりの穏やかな陽光がテーブルを照らし、周囲には食事を楽しむ市民たちの話し声が流れていた。

 テーブルの上には、地元の根菜をふんだんに使った透き通ったスープが二つ。

 その脇には、表面をカリリと香ばしく炙った薄切りのパンが数枚並んでいる。


「おじさん、このスープ……飲むと、お腹の中がぽかぽかして気持ちいい」


 アヤメは小さく、それでいて大切そうにスプーンを動かし、穏やかに頬を緩めていた。


「そうか。しっかり食え。まだ先は長いからな」


「うん。おじさんもちゃんと食べて。……あ、パン、スープに浸して食べるともっと美味しいよ」


「ああ、わかっている」


 俺はスープを吸わせたパンを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。

 束の間の平穏。だが、その柔らかな空気は、一人の女の接近によって音もなく塗り替えられた。

 艶やかな黒髪を肩に流し、身体のラインを容赦なく強調するタイトな深紅のドレスを纏った女。

 土臭いこの街には不釣り合いなほどセクシーで、ドレスの深く開いた襟元からは、溢れんばかりの豊かな胸の曲線が大胆に覗いている。

 女は断りもなく、俺たちのテーブルの空いた椅子に腰を下ろした。


「失礼。隣、いいかしら?」


 香水の甘く退廃的な香りが、スープの素朴な匂いを一瞬で支配する。

 至近距離で椅子に深く腰掛けた彼女の豊満な胸元が、テーブルの端を圧迫するようにせり出してきた。


「……何の用だ。見ての通り、連れと食事中だ。席なら他にもあるぞ」


 俺は努めて平淡な声で言った。アヤメは不思議そうに食事を中断し、目を丸くして美女を見上げている。


「そんなに邪険にしないで。私はフランチェスカ。素敵なランチの邪魔をしてごめんなさいね」


 女は俺の視線を真っ向から受け止め、挑発的な笑みを浮かべた。


「お名前は? あなた、この街の人じゃないわよね」


「名乗るほどの者じゃない。用がないなら消えてくれ」


「ふふ、冷たいのね。でも、用ならあるわ。さっきの市場でのことも……あなたがそこで何をしていたかも、全部見ていたもの」


 フランチェスカと名乗った女の囁くような言葉に、俺の指先がわずかに硬直した。


「あなたのあのスプーンの使い方、本当に興味深かったわ。あんな風に、一瞬で、まるで魔法みたいに――」


「悪いが、俺の食事マナーを分析するのは別の機会にしてくれ」


 俺は女の言葉を軽く受け流すように遮った。

 俺が「何者」であるか、その生々しい輪郭をここで言葉にさせるわけにはいかない。

 アヤメは、俺の手が血に塗れていることを薄々感づいている。

 俺も、彼女がそれに気づいていることを知っている。

 それでも、俺たちはその一線を越えないことで、この脆く歪な「日常」を繋ぎ止めていた。

 あえて「知らないふり」をすることで保たれているこの関係を、部外者に土足で踏み荒らされるわけにはいかなかった。

 フランチェスカは俺の視線の先にある、沈黙の契約を瞬時に察したようだ。

 彼女はわずかに眉を上げ、アヤメに一瞬だけ慈しむような目を向けると、豊かな胸を反らせるようにして艶然と立ち上がった。


「分かったわ。今は、あなたとこの子の『大切な時間』なのね。野暮なことは言わないわ。……また会いましょう、素敵な『おじさん』」


 女はそれ以上何も語らず、了解したことを伝えるように優雅に首を傾げてみせた。

 そして、その魅力的な肢体を揺らしながら、雑踏の中へと消えていった。


「ねえ、おじさん……あのお姉さん、誰? 胸、すっごく大きかったね……」


 アヤメはスプーンを口に咥えたまま、ぽかんとした顔で女の背中を見送っている。

 十歳前後の子供らしい感想を口にしながらも、その瞳の奥には、今しがた遠ざかった「闇」への理解がかすかに沈んでいた。


「……さあな。注文を間違えたんだろう。それよりスープが冷めるぞ。早く食べてしまえ」


「うん、そうだね。お姉さん、不思議な匂いがしたね」


 アヤメは何事もなかったかのように視線を落とし、穏やかな「食事の時間」に戻った。

 この街、ブルッフでもまた、血の匂いが俺たちを追いかけてくる。

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