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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第10話 依頼

 ブルッフの街に、重く冷たいとばりが下りる。

 俺とアヤメは、石畳の路地裏に潜む安普請な旅館の二階へと逃げ込んだ。

 案内された部屋には、湿り気を帯びたシーツと、微かに鼻を突く黴の匂いが漂っている。

 外を走る馬車の車輪の響きや、遠くで酔客が吐き捨てる怒鳴り声も、厚い石壁に遮られてここまでは届かない。

 昼間の喧騒から一転し、夜の静寂が部屋を支配していた。

 今の俺たちには、この剥き出しの静けさこそが何よりの休息だった。

 アヤメは泥のように眠っていた。

 昼にスープを飲み終えた後、彼女はいつもより少しだけ長く、縋るように俺の服の袖を掴んでいた。

 今はその小さな手も力なく解け、規則正しい幼い寝息だけが、狭い部屋の重い空気をわずかに震わせている。

 俺はベッドの傍らに腰を下ろし、彼女の無防備な寝顔を見守りながら、懐にある先割れスプーンの感触を指先で確かめていた。

 それは食事の道具であり、同時に一瞬で喉笛を掻き切る牙でもある。

 この冷たい金属の肌に触れている時だけ、俺は濁った日常の中で自らの「輪郭」をかろうじて保つことができた。

 コト、と窓が鳴った。

 二階の高さだ。風の悪戯にしては、あまりに明確な「合図」だった。

 誰かが意図を持って、そこに指を添えた。その確かな質感が、薄いガラス越しに伝わってくる。

 カーテンを僅かに開けると、そこには夜の闇に同化した、巨大な猿のような異形の男が窓枠に張り付いていた。

 人間離れした長い腕を器用に使い、重力に逆らうようにして垂直な壁面に留まっている。

 男は声を発することなく、毛むくじゃらの指先で一枚の紋章入りのカードを差し出した。

 紫の蝋で封じられた、あの女――フランチェスカからの呼び出し状だ。

 カードから漂う微かな香りは、昼間に彼女が残していったものと同じ、甘く痺れるような花の匂いだった。

 俺は眠るアヤメの額に一度だけ触れ、その温もりを指先に残したまま、音もなく窓から夜の闇へと滑り出した。

 案内されたのは、街の中心部にある、ごくありふれた石造りの住宅だった。

 隣家と軒を連ね、窓からは家族の団欒を思わせる暖かな灯りが漏れている。

 どこにでもある、平穏な市民の生活の匂いが漂う場所だ。

 だが、一歩足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気の「重さ」が劇的に変わった。

 外観の質素さからは想像もつかないほど、内部には異様で広大な空間が広がっていたのだ。

 玄関ホールは静まり返っており、人の気配はない。

 しかし、吹き抜けになった回廊の壁一面を埋め尽くすのは、おびただしい数の植物だった。

 それも、この乾燥した街には存在し得ない、熱帯の湿り気と毒々しい極彩色を帯びた、名も知らぬ奇妙な花々だ。

 むせ返るような濃厚な芳香が鼻腔を突き、昼間にアヤメが口にした「不思議な匂い」の正体がこれだと即座に理解した。

 廊下の床は厚く柔らかな毛皮で覆われ、俺の足音を完全に吸い込んでしまう。

 曲がり角を過ぎるたびに、影の中に配置された出所不明の骨董品や、瞳に怪しい光を宿した絵画が、まるで生きているかのように俺の品定めをしてくる。

 この屋敷は、外側の「日常」という皮を被った、巨大な偽物だった。

 突き当たりにある、重厚な彫刻が施された扉が、何者かに招かれるように音もなく開いた。


「ようこそ、素敵なおじさま。夜遊びにはいい時間でしょう?」


 部屋の奥から、低く、甘く、それでいて肌を刺すような声が響いた。

 そこは広大なサロンだった。

 薄衣を纏い、深紅のソファに深く身を沈めたフランチェスカが、グラスを揺らして微笑んでいる。

 彼女の背後には、月明かりを浴びて銀色に鈍く光る巨大な鳥籠が置かれていた。

 彼女の視線は、俺の懐に隠された「獲物」のありかを正確に射抜くかのように、鋭く、そして妖しく濡れていた。


「座れば? その先割れスプーン、懐に隠したままじゃ肩が凝るわよ」


 フランチェスカは俺の得物を見透かしたように、琥珀色のグラスを揺らした。

 その仕草は優雅だが、言葉の端々には獲物を追い詰める猟犬のような鋭さが混じっている。

 俺は勧められた上等なソファには指一本触れず、背後の闇に溶け込むように立ったまま、彼女の動向をじっと見据えた。


「用件を。子守の最中だ」


「あら、せっかちね。……仕事の話よ。厄介な男に執着されて困っているの。私のこの『庭』を土足で荒らそうとする、分別のない困った方」


 彼女は白いうなじをなぞり、溜息をついた。

 その身のこなしには年相応の瑞々しさがあるが、纏う空気は完成された大人の女の狡猾さを帯びている。

 瞳の奥に宿る光は、若さに不釣り合いなほど冷酷で、底の見えない沼のように淀んでいた。


「その男を消して。貴方の腕前で。誰にも気づかれず、静かにね」


 俺は沈黙を返した。

 背後に置かれた銀の鳥籠の中で、極彩色の小鳥たちが俺を嘲笑うように鳴いた。

 目の前の女が、ただの「不埒な求婚者に怯える女」なわけがない。

 この屋敷の異常なまでの広さと静寂、壁を埋め尽くす毒々しい植物。

 そして窓から呼び出し状を届けに来た、あの異形の使い。

 彼女がこの街の闇の深層に根を張る存在であることは明白だった。

 彼女自身がその気になれば、あるいはその飼い犬どもをけしかければ、男の一人や二人、今夜中にでも闇に葬れるはずだ。

 わざわざ、今日この街に流れ着いたばかりの俺に頼る必要など、どこにもない。


「……不可解だな。あんたなら自分で処理できるはずだ。俺を呼ぶ理由がない」


 俺の声が、低い地鳴りのようにサロンに響く。

 フランチェスカの口角が、艶然と持ち上がった。


「そうね。でも、私にはネイルを塗り替える時間も必要なの」


「俺に言わせれば、あんたのその爪の方が男の喉を裂くには適役に見えるが」


「あら、褒め言葉として受け取っておくわ。でも残念、今回は私の手の届かない場所から来た、『余所者』の力が必要なの。この街の因縁に縛られない、純粋な死神の力がね」


 彼女はソファから立ち上がり、音もなく至近距離まで歩み寄ってくる。

 むせ返るような濃厚な花の香りが鼻腔に忍び寄ってきた。


「理由は言えないわ。私自身の、ちょっとした矜持の問題よ。あるいは、余計な『目』を欺くための手続き、と言ってもいいかしら」


 彼女の白く細い指先が、俺の胸元――スプーンを潜ませた場所に触れそうで触れない距離で止まった。


「とにかく、貴方にしかできないの。断ってもいいわ。でも、報酬は期待して。望むなら、あの子――貴方が連れているお嬢さんに、一生『血の匂い』のしない平穏な暮らしを約束してあげてもいい」


「……」


「新しい身分も、安全な住処も、真っ当な教育もね。貴方がどれほど望んでも、その手では決して与えられない未来を、私が買い取ってあげる」


 その言葉が、俺の心の一番深い場所に、氷の楔となって突き刺さった。

 アヤメをこの泥沼から引き揚げ、陽の当たる場所へ送り出すこと。

 それは、血に塗れた俺の人生において、逆立ちしても叶えられない唯一の望みだった。


「……ターゲットは誰だ。まさか、そのネイルを剥いだ犯人探しじゃないだろうな」


「ふふ、そんなに可愛らしい仕事なら、貴方を呼び出したりしないわ」


 フランチェスカは満足げに瞳を細めた。

 その奥に潜む「何か」が、獲物を捕らえた蜘蛛のように、妖しく、そして残酷に光った。


「標的の名前はオインク。……魔物の種族、オークの一人よ」


 フランチェスカが淡々と告げたその名を聞き、俺は喉の奥で苦い舌打ちを飲み込んだ。

 オーク。豚に似た醜悪な外見と、狡知を併せ持つ厄介な亜人だ。


「彼は『オーク衆』の一員なの。私の縄張りを勝手にかき回す、行儀の悪い連中の一人ね」


 その名が出た瞬間、俺の指先に鋭い緊張が走った。

 かつて別の街で、俺は奴らの仲間の人間を三人、この手で始末したことがある。

 しつこい脂汚れのように、拭い去ったはずの場所から、また同じ不快な臭いが漂ってきた。


「……趣味が悪いな。よりによって、あいつらの一味か」


「あら、はぐれ者の刺客が選り好みできるほど、夜の街は甘くないでしょう?」


 フランチェスカは琥珀色のグラスを弄びながら、挑戦的な笑みを浮かべた。


「オインクは今、街の外れにある古い食肉解体場を根城にしているわ。詳しい場所は、この地図に書いておいたから」


 彼女が示したテーブルの上には、丁寧に折り畳まれた上質な紙があった。

 俺はそれを引ったくるように受け取ると、コートの深いポケットにねじ込んだ。


「話は終わりだ。夜明けまでには終わらせる。それ以上のことは期待するな」


「あら、報酬の『お菓子』の相談もまだなのに? せっかちな死神さんね」


 彼女の揶揄を背中で聞き流し、俺は異様な植物が蠢く玄関ホールを抜けようとした。

 だが、その出口を、あの「使い」が天井から音もなく降り立ち、威嚇するように遮った。

 巨大な猿のような異形の男。

 毛むくじゃらの長い腕を扉の枠にかけ、剥き出しの牙を見せて低く唸っている。

 その獣じみた気配に、俺の身体が反射的に戦闘態勢に入ろうとした。

 しかし、俺の足を真に止めたのは、その異形の放つ威圧感ではなかった。

 男の足元、深い影の中にひっそりと佇む、あまりに小さな影。


「……アヤメ」


 その名を呼ぶと、影がびくりと肩を震わせた。

 旅館の二階で眠っていたはずの少女が、そこに立ち尽くしていた。

 寝癖のついた髪を揺らし、そのままの姿で、彼女はじっと俺を見上げている。

 アヤメの表情には、俺たちが保っていた「日常」の面影は、もはや欠片もなかった。

 そこにあるのは、言葉にできないほどの淋しさと、自分を責めるような申し訳なさ。

 その潤んだ瞳を見ただけで、俺はすべてを察した。

 彼女は、目が覚めたときに俺がいないことに気づき、必死に俺の「匂い」を追いかけてきたのだ。

 迷路のように入り組んだ夜の街を、たった一人で。


「おじさん……ごめんなさい。私、怖くて……どうしても……」


 アヤメの声は、今にも夜の静寂に溶けて消えてしまいそうなほど細かった。

 彼女の小さな手が、服の裾をぎゅっと、引きちぎらんばかりに握りしめている。

 その様子を、フランチェスカは蜜の味を占めたような冷ややかな笑みを浮かべて眺めていた。

 彼女は優雅に椅子に腰掛け、愉悦を隠そうともせずに告げる。


「あらあら、可愛いストーカーさんね。おじさま。貴方の隠し事は、どうやらこの子には通じないみたいよ」


 俺はアヤメを、この「闇」から遠ざけるために、殺しの契約を交わしたばかりだ。

 それなのに、守りたかったはずのその当人が、今この場所で、俺の最も忌むべき側面に触れようとしている。

 俺は立ち塞がる猿の男を睨み据え、それからアヤメの元へと一歩踏み出した。


「おじさん……!」

 アヤメが弾かれたように駆け寄り、俺の腰にしがみついた。

 その小さな身体は、夜の冷気のせいか、あるいは拭いきれぬ恐怖のせいか、小刻みに震えている。

 俺のコートを掴む指先には、二度と離さないというような強い力が込められていた。


「……どうして勝手に」


 喉まで出かかった咎めの言葉は、彼女の怯えた瞳を見た瞬間に霧散した。

 本来なら、こんな危険な場所に足を踏み入れた軽率さを厳しく正すべきだ。

 だが、迷路のような夜道を一人、俺の残香だけを頼りに歩いてきたこの子を、今の俺はどうしても責めることができなかった。

 その光景を、フランチェスカは面白そうに眺めていた。


「仲が良いのね。でも、そんな震える子を連れて『お仕事』に行くつもり? 捗らないわよ」


 彼女はソファから立ち上がり、滑らかな足取りでアヤメに歩み寄った。

 俺は反射的にアヤメを背後に隠したが、フランチェスカは構わず優雅に微笑む。


「貴方が仕事をしている間、この子はここで預かってあげる。安旅館の黴臭いベッドより、ずっと寝心地の良い部屋を用意させるわ。……安心なさい、私の『庭』にいる限り、この子に誰も指一本触れさせないと約束するわ」


「……あんたを信じろと?」


「信じるしかないでしょう? それとも、解体場にまで連れて行く? 豚の断末魔を子守唄にするのは、情操教育に悪いと思うけれど」


 フランチェスカは俺の返事を待たず、手下の猿のような男に顎で合図を送った。

 男は唸り声を止め、恭しく扉を開ける。


「旅館の未払い分と荷物は、後で私の使いに整理させておくわ。さあ、行きなさい。夜明けは意外と早いのよ」


 俺は足元に縋るアヤメの頭を、一度だけ強く撫でた。

 その温もりを振り払うようにして、彼女の手を優しく、だが断固として解く。


「……ここで待っていろ。すぐに戻る」


「おじさん……行っちゃうの?」


 アヤメの淋しげな声を背中で受け止めながら、俺は一歩も振り返らずに屋敷を飛び出した。

 背後で重厚な扉が閉まる音が、この世の境界線を引いたように響いた。

 外の空気は刺すように冷たい。

 俺は懐の先割れスプーンの感触を確かめ、フランチェスカに渡された地図を脳内に展開した。

 街の外れ、古い食肉解体場。

 そこには、俺を待つ「豚」がいる。

 石畳を蹴る足音だけが、静まり返った夜の街に空虚に響き渡った。

 アヤメに約束した「平穏」を勝ち取るために、俺は再び、慣れ親しんだ血の匂いの中へと突き進んでいく。

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