第11話 狂宴
街外れに佇む、錆びついた鉄扉と腐臭の混じった古い食肉解体場。
そこが、狡猾なオークであるオインクの根城だ。
俺は暗殺者のスキルを発動し、自身の気配を完全に断つ。
吐息を殺し、足音を無に。
世界から自分の存在を消し去り、夜の闇と一体化して、建物の歪んだ隙間から内部へと滑り込んだ。
鼻を突く血の匂いを覚悟していたが、目に飛び込んできたのは予想を裏切る光景だった。
荒廃した外観からは想像もつかない、豪華絢爛な空間。
床には深紅の絨毯が敷き詰められ、壁には略奪品だろうか、金縁の絵画や豪奢な燭台が並んでいる。
解体場というよりは、成金の貴族の館だ。
その異常なギャップに、俺は音もなく眉をひそめる。
奥からは下品な笑い声と、肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
どうやら、今夜はパーティーの最中らしい。
耳を澄ませると、野太く濁った咆哮に混じって、場にそぐわない女たちの嬌声が聞こえてきた。
俺は壁を垂直に登り、天井を這う巨大な鉄骨に身を移した。
梁の影に潜り込み、獲物の真上へと音もなく接近する。
眼下の大広間では、巨大な体躯を絹のローブに包んだオインクが、血の滴るような肉塊を頬張りながら、机の上に積み上がった金貨を指で弄んでいた。
周囲を固める人間たちは武器を携えておらず、ただ卑屈な笑みを浮かべて、主であるオインクに傅いている。
さらにその宴席には、オインクの友人らしき者たちの姿もあった。
贅を尽くした衣服を身に纏う人間や、同じく着飾った他のオークたちが、対等な立場で酒杯を酌み交わしている。
奴の傍らには、極端に肌の露出が多い薄着の衣装を纏った女たちが数人侍り、酒を注いでいた。
彼女たちに怯えた様子はない。むしろ、この狂った宴を心から楽しんでいるかのように、頬を紅潮させ、身をよじって笑い声を上げている。
シャンデリアの眩い光が、オインクの脂ぎった顔と、女たちの剥き出しの肌を妖しく照らし出す。
俺は梁の上で身を伏せ、得物の柄にそっと手を伸ばした。
女たちの嬌声と、客たちの下卑た談笑は、絶好の隠れ蓑だ。
誰一人として、この頭上の闇に「死」が潜んでいることなど気づいていない。
俺は呼吸を極限まで細くし、影の中に完全に溶け込んだ。
ターゲットの首筋が、シャンデリアの真下で無防備に晒される瞬間をじっと待つ。
冷たい鋼の感触を掌に感じながら、俺は獲物の動きを凝視し続けた。
天井の鉄骨から、俺は一滴の雫が落ちるよりも静かに舞い降りた。
深紅の絨毯は、着地の微かな衝撃音さえも無慈悲に飲み込む。
俺は一瞬で「暗殺者」の輪郭を消し、「匿名の客」へと存在を書き換えた。
背を丸め、視線を落とす。
周囲の喧騒に、自身の心拍数と存在感を完璧に同調させた。
広間は、地獄の底を黄金で飾り立てたような狂乱の真っ只中だ。
空気は上等な香水と、安物のどぎつい紫煙に満ちている。
鼻を突くのは、肌を刺すような甘ったるい違和感だ。
「ははは! もっと注げ! 命の水を惜しむな!」
贅を尽くした衣服を纏う男が、琥珀色の液体を滝のように喉に流し込む。
その横では、ドレスの女が銀のパイプから立ち昇る妖しい紫煙を深く吸っていた。
その煙は、街の裏路地で取引される禁じられた薬物だ。
吸った者の理性を泥濘の底へと沈めていく。
人間としての形を保てぬ者たちの笑い声が、巨大なシャンデリアを揺らしていた。
俺は空の酒瓶を運ぶ召使いを装い、あるいは酩酊した客のふりをする。
よろめく足取りで、着実にオインクへと距離を詰めていった。
だが、近づくほどに、この乱痴気騒ぎの裏にある「秩序」が浮き彫りになる。
一見すれば無秩序な宴。
だが主の周囲にだけは、目に見えない強固な防壁が幾重にも張られていた。
(……想像以上に、厄介な防衛陣だ)
奴の巨体の周りには、笑い転げる「友人」たちが配置されている。
ただの酔っ払いに見えるが、その立ち位置は計算され尽くしていた。
どの角度から近づこうとしても、必ず誰かの視線が交差する。
物理的な距離も、巧みに体で遮られていた。
傍らで嬌声を上げる女たちも、ただの飾りではない。
酒を注ぐ指の動き、周囲を見渡す視線。
彼女たちは、いざという時の「肉の盾」だ。
同時に主の死角を補う、残酷な監視役として機能していた。
調度品すらも、無造作に置かれているわけではない。
金縁の椅子や銀の酒樽が、侵入者の最短距離を阻む障害物となっている。
狡猾なオーク、オインク。
奴はこの狂宴そのものを、難攻不落な「動く城」として構築していた。
客たちの濁った瞳の奥に、時折、鋭い光が走る。
俺はそれを見逃さなかった。
この場の全員が、オインクという巨悪を守るための歯車なのだ。
俺は一旦歩みを止め、テーブルの銀の杯を無造作に手に取った。
毒々しい酒を啜るふりをしながら、この「生きた城壁」の綻びを探る。
力任せの突破は、無数の刃に切り刻まれるのがオチだ。
奴の脂ぎった太い首筋に、愛用の「先割れスプーン」を突き立てたい。
そのためには、この熱狂の中に「混乱」という火種を投じる必要がある。
俺は懐に隠した、鈍く光る鋼鉄の匙をなぞった。
先端に並ぶ三本の凶悪な爪は、肉を裂くために研ぎ澄まされている。
一瞬の隙、一筋の影、あるいは一呼吸の静寂。
それを作り出し、奴の喉笛をこの匙で抉り取る。
俺は闇の中で、次なる一手を静かに思案し続けた。
突然、会場の空気が一変した。
耳を劈くようなラッパの音が不協和音を奏で、狂乱の合図を告げる。
大広間の奥、一段高い場所に設えられたステージの幕が、脂ぎった重苦しい音を立てて左右に開かれた。
そこには、天井を這う巨大な鉄骨から太い縄で吊るされた、みすぼらしい身なりの男がいた。
手足は幾重にも縛り上げられ、猿ぐつわを噛まされた口からは、絶望に満ちたくぐもった呻きが漏れている。
男は極限の恐怖に顔を歪ませ、無様に身をよじり、助けを求めるように視線を彷徨わせていた。
その瞳はもはや理性を失い、ただ一点、迫りくる死の影に怯えきっている。
「さあ、野郎ども! 今夜の余興だ! 獲物は新鮮、的は極上だぞ!」
司会役の男が、黄色い歯を剥き出しにして、唾を飛ばしながら絶叫した。
「こいつは街の掃き溜めで拾ってきた、名もなきゴミだ! 存分に遊んでやれ!」
それを合図に、酔客たちは一斉にテーブルを叩き、足を踏み鳴らして喝采を送った。
「いいねえ! どっちの耳から先に削ぎ落とすか賭けようぜ!」
「俺は右目に銀貨一枚だ! 泣き叫ぶ面を拝ませろ!」
薬物で充血した瞳をギラつかせ、他者の苦痛を最高の肴にしようと身を乗り出す。
このオインクという男の「悪」は、単なる略奪や殺戮に留まらない。
奴は街を影から支配する「死のブローカー」だ。
逆らう者の家族を拉致しては、自らが所有するこの解体場へ連れ込み、生きたまま肉を削いでその悲鳴を肴に酒を呑む。
さらに、奴は略奪した金銀財宝を汚職役人や堕落した貴族にばら撒き、この世の正義を金で買い叩いてきた。
街の貧民たちが飢えに苦しむ一方で、奴は奪い取った穀物を地下室でわざと腐らせる。
供給を絞ることで価格を吊り上げ、パン一枚を少女の純潔や老人の命の対価として要求するのだ。
男たちが家族を救うために盗みに走れば、それを捕らえて「獲物」として、こうして余興の的にする。
目の前のオインクが浮かべる卑屈な笑みの裏側には、何千もの人生を蹂躙し、絶望のどん底に叩き落としてきた冷酷な計算が潜んでいた。
「まずは、我らが偉大なる主、オインク様からだ! その神業を見せていただきましょう!」
オインクが椅子を軋ませ、脂ぎった巨体を揺らしながら立ち上がった。
「ふん、あまりに無様で狙う気も起きんが……まあ、食休みには丁度いい」
傍らにいた薄着の女が、金細工の施された重厚なボウガンを恭しく差し出す。
オインクは太い指で矢を番え、不敵な笑みを浮かべて獲物の喉元へと狙いを定めた。
「おい、ゴミ。あまり動くなよ? 外れたら、次は指を一本ずつ削いでいくからな」
会場の熱狂は最高潮に達し、獣のような叫びが地響きとなって伝わってくる。
(……助けたい。だが、不用意に動けば俺も奴も死ぬ)
俺は群衆の影に深く沈み込みながら、激しい葛藤に身を焼かれていた。
今、この瞬間に飛び出せば、一瞬で「肉の盾」と化した護衛たちが壁となるだろう。
暗殺者の矜持は、あくまで音もなく、確実にターゲットの息の根を止めることにある。
無策な英雄的行動は、暗殺者にとっては死に直結する、最も忌むべき愚行でしかない。
「ぎゃははは! 泣け、喚け、最高の死のダンスを見せてみろ!」
オインクが耳障りな笑い声を上げながら、引き金を引き絞った。
鋭い風切り音と共に放たれた矢が、吊るされた男の右肩を浅く抉り取った。
男の口から、猿ぐつわ越しに濁った絶叫が漏れ、体が一際大きく跳ね上がる。
「はっはあ! 外したか! だが、これで少しは活きが良くなっただろう?」
鮮血が弧を描いて舞い、深紅の絨毯にどす黒い染みを作っていく。
それを見た客たちは、待ってましたと言わんばかりに、狂ったように笑い転げた。
オインクは満足げに鼻を鳴らし、次の矢を手に取って弄んでいる。
「次はどいつだ。まだ死なせるには早すぎるからな。……おい、お前も一発撃ってみるか?」
奴にとっては、人の命など、皿の上で食い散らかした肉塊となんら変わりない。
その傲慢さと、それを取り巻く腐りきった観衆の熱狂。
それらすべてが、俺の胃の腑を不快にかき乱し、冷たい殺意を醸成させていく。
俺の視界が、抑えきれない怒りでじわじわと赤く染まっていく。
腹の底から湧き上がるのは、氷のように冷たく、それでいて火山の如く熱い殺意だ。
震える右手が、懐に隠した「先割れスプーン」の柄を強く、折れんばかりに握りしめる。
鋼鉄の冷たさが、怒りで逆立つ神経に心地よく響き、俺の意志を研ぎ澄ませていく。
この場所を支配するのは、強者が弱者を蹂躙するだけの狂った論理だ。
だが、その強者が「死」に直面したとき、一体どんな無様な顔を見せるのか。
金で買った権力も、肉で築いた壁も、この一振りの匙の前では無力であることを教えてやる。
(許せるはずがない。この豚も、豚に傅く犬どもも、すべて等しく死に値する)
俺は目を細め、オインクの喉笛を、加えてそのボウガンの機構を冷徹に凝視した。
無闇に飛び出せば、待っているのは失敗と死だ。
ならば、この狂乱の渦そのものを利用し、誰にも気づかれぬままに、この地獄を終わらせる。
俺は誰にも聞こえないよう呼吸を整え、研ぎ澄ませた集中力を「匙」の先端に乗せた。
人混みの隙間を縫い、影から影へと、最速かつ最短の殺しのルートを瞬時に演算する。
この腐った宴の終わりは近い。
吊るされた男の命の灯火が消える前に、この不快な空間を、絶望の悲鳴が支配する血の海へと沈めてやる。
俺の魂が、静かに、だが確実に、逃れられぬ死の執行を告げるように燃え上がっていた。
オインクが二の矢を放とうと、太い人差し指を冷酷に引き金にかけた。
その刹那、俺は足元に転がっていた宴の残骸を音もなく拾い上げた。
手にしたのは、誰かがへし折った、鋭く硬い「獣の骨の破片」だ。
俺は暗殺者の技術を指先に凝縮した。
狙うはオインクが手にするボウガンの心臓部。
弦を固定するクランク機構の一点だ。
一瞬の呼吸の隙。
誰の視線も俺を捉えていない死角から、その骨の破片を弾丸の如き速度で解き放つ。
「ガチリッ!」
硬質な金属と骨が激突する、鋭い音が響いた。
放たれる直前だったボウガンの弦が、投げられた骨に弾かれる。
弦は異常な軌道で跳ね上がり、矢は力なくあらぬ方向へ飛んだ。
頭上のシャンデリアを吊るす鎖を激しく叩き、空虚な金属音が広間に轟く。
「……なんだ!? 今のは何が起きた!」
放たれるはずだった殺意の快感を削がれ、オインクが苛立ちに顔を歪めて叫んだ。
奴は手元に残ったボウガンの狂いを確認する。
信じられないものを見るように、脂ぎった顔を左右に振り、周囲を激しく見回した。
「誰だ! 今、俺の邪魔をしたのはどいつだ!」
「どこのどいつが邪魔立てしやがった! 吐け!」
静まり返っていた会場に、困惑と動揺のざわめきが波紋のように広がっていく。
薬物で濁っていた客たちの目にも、得体の知れない「見えない敵」への恐怖が混じり始めた。
俺は再び群衆の影、もっとも深い闇の中へと自身の気配を沈めた。
この混乱こそが、暗殺者にとって最大の武器となる。




