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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第31話 年齢差

 王立魔法学院の重厚な石造りの門が、朝の霞の中にぼんやりと見える。

 その手前の道端で、アヤメは足を止めた。

 朝の光を浴びる彼女の制服姿は、まだどこか着せられているような違和感がある。

 だが、その背中には未知の世界への期待と、慣れない環境への緊張が同居していた。

 アヤメはゆっくりと俺の方を振り返る。


「行ってきます、おじさん……」


 すぐそばで、静かに、けれどしっかりと告げる声。

 期待に目を輝かせながらも、どこか心細さを隠しきれないその表情に、俺は短く手を振って応えた。

 彼女が学院の敷地へと続く並木道へ消え、その姿が完全に見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。

 アヤメを見送った後、俺は正反対の方向へと歩き出した。

 向かうのは、街の西側にある再開発の工事現場だ。

 次の依頼は三日後。

 それまでの間、俺はこうして現場に入り、日雇いの重労働をこなす。

 華やかな魔法学院とは無縁の、土と汗にまみれた場所だ。

 現場に到着すると、すでに土埃が舞い、男たちの怒号に近い掛け声が響いていた。


「おい、新入り! こっちの石材を運べ! 早くしろ!」


 監督の荒っぽい指示に従い、俺は一人では抱えきれないほど大きな岩石の塊を担ぎ上げる。

 この現場には、魔法を動力にした便利な重機など一台も存在しない。

 ただひたすらに、筋肉を軋ませ、汗を流し、時間を労働に変えていく泥臭い世界だ。

 足元のぬかるみに足を取られそうになりながらも、一歩一歩踏みしめる。

 岩を一つ運ぶたびに、背負った重みがアヤメの生活を支える糧に変わっていく。

 そう考えると、指先がひび割れるような過酷な作業も、不思議と苦にはならなかった。

 今の俺にはこの静かな積み重ねが、彼女の平穏な学び舎での時間を支えているという確かな実感を与えてくれた。

 その頃、アヤメは歴史の重みを感じさせる教室の一角で、学友のシェリルらとともに机を並べていた。

 教室の壁は長年の月日で煤けており、所々にひび割れが走っている。

 使い込まれた木の机には無数の傷が刻まれ、床の石畳も生徒たちの足跡で滑らかに摩耗していた。

 白亜の外観とは対照的な、古びた、どこか埃っぽい静寂がそこにはあった。


「ねえアヤメ、魔力の流れはね、中心から等間隔に広げていくのがコツみたいよ」


 シェリルが色褪せた教科書を指差しながら、学友として気さくに話しかけてくる。

 だが、アヤメにとってその時間は、新鮮な驚きと同じくらい、苦労の連続だった。

 これまで学校に通った経験がないアヤメにとって、見るものすべてが未知の連続だった。

 周囲の生徒たちが当たり前のようにこなす所作の一つひとつが、彼女にとっては高い壁だ。

 文字の読み書きも最低限しかできない彼女にとって、黒板に踊る複雑な魔法の記述は、意味の分からない図形の羅列に見えていた。


「……ごめんなさい、シェリルさん。この、ぐるぐる回るみたいな形の字……これ、なんて読むんですか?」


 教科書の一点を指差し、アヤメは隣の友人に小声で尋ねた。

 周りの視線を気にしながら、恥ずかしそうに肩をすぼめる。

 シェリルは一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに顔を近づけて、自分のノートを見せてくれた。


「ああ、それはね……」


 シェリルは嫌な顔一つせず、文字の意味を噛み砕いて教えてくれる。

 アヤメはそれを聞き漏らさないよう、必死に、震える手で自分の紙に書き写していった。

 午後の実技演習になると、アヤメの周囲に緊張が走った。

 彼女の魔力保持量は、講師の目から見ても群を抜いて優秀だ。

 しかし、彼女は魔法の使い方をよくわかっていなかった。


「集中、集中……。指の先に、小さな火を灯すだけ……」


 シェリルと並んで立ち、アヤメは精神を研ぎ澄ます。

 イメージするのは、暗闇を照らすマッチの小さな火だ。

 だが、彼女の内に眠る膨大な魔力は、彼女の拙い制御をあざ笑うかのように溢れ出した。

 パチン、という乾いた音が響く。

 次の瞬間、彼女の指先から真っ赤な火柱が、天を突くように噴き出した。


「きゃああっ!?」


 周囲の生徒たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げる。

 あまりの熱量に、周囲の芝生が一瞬で炭化した。

 慌てて駆け寄った講師が、全力で消火に走ってようやく火柱が収まる。

 アヤメは、焦げ臭い煙の中で立ち尽し、呆然と自分の手を見つめていた。

 自分の中にこれほどの力があることが恐ろしく、同時にそれを全く扱えないもどかしさが胸を締め付ける。

 素質はある。

 けれど、力をどう流し、どう形作ればよいのかが、どうしてもわからない。

 これから少しずつ、この強大な力と向き合っていく必要があった。

 夕暮れ時、現場作業を終え、全身の筋肉を重く感じながら俺は朝と同じ場所で彼女を待った。

 泥で汚れた服を軽く払い、夕闇に染まり始めた並木道の向こうに目を凝らす。

 しばらくして、学院から歩いてきたアヤメの足取りは重かった。

 俺の姿を見つけると、彼女は少しだけ表情を緩めたが、その瞳には隠しきれない困惑が滲んでいた。


「おじさん……。私、やっぱり大変。字もまだよく書けないし、魔法も加減が全然できなくて、みんなを驚かせちゃった」


 ため息をつくように、小さな声で吐き出された言葉。

 アヤメは俯き、自分のつま先を見つめている。

 授業についていけない焦りと、魔法をうまく扱えなかった申し訳なさ。

 彼女の心に溜まった重荷は、並んで歩く俺にも痛いほど伝わってきた。

 俺は黙って、ゴツゴツとした大きな手を彼女の頭に置いた。


「二日目だぞ、アヤメ。たった二日で全てができるようになったら、魔法学院なんて必要ない」


 彼女の頭を、乱暴にならないよう優しく撫でる。


「三日後の俺の依頼だってそうだ。当日のために、俺は何日も前から準備を重ねる。お前の学校もそれと同じだ。一文字ずつ、一歩ずつ覚えていけばいい。焦らなくていいんだ」


 俺の言葉を聞き、アヤメはゆっくりと顔を上げた。

 夕日に照らされた彼女の瞳に、少しだけ自信の光が戻る。


「……そうだね。明日もまた、シェリルさんに教えてもらわなきゃ」


 彼女は小さく、けれど確かな前向きさを持って笑った。

 文字の読み書き、魔法の制御、そして友人との交流。

 彼女の新しい日々は、まだ始まったばかりだ。

 二人の影が、家路へと続く道に長く伸びていった。



 アヤメが学院に通い始めてから、早いもので三日が経過した。

 今日は、以前からギルドを通して決まっていた仕事の日だ。

 学院での生活が始まってまだ間もなく、慣れない環境に戸惑いを見せているアヤメをボロアパートに一人残していくのは、どうしても不安が拭えなかった。

 そのため、俺は出発の数時間前に彼女を連れて、フランチェスカの家を訪ね、預かってもらうことにした。


「ええ、いいわよ。読み書きも見てあげるから、安心して行ってらっしゃい」


 フランチェスカは、俺の頼みを快く承諾してくれた。

 彼女の穏やかな笑顔とアヤメの少し緊張した顔を交互に見て、俺はようやく後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、集合場所である街の東門へと足を向けた。

 門の前には、朝の光を反射してまばゆく輝く装備に身を包んだ三人の若者が待っていた。

 今、ギルドで新進気鋭のB級冒険者パーティーとして名を馳せている「赫耀たる星辰」の面々だ。


「あ、来られましたね。クライドさん、今日もよろしくお願いします!」


 リーダー格の剣士が、爽やかな笑みとともに声をかけてきた。

 前回の顔合わせでは互いに立場を確認する程度の短い挨拶で終わっていたが、今日は出発前に改めて自己紹介を交わす流れになった。


「改めて自己紹介します。僕はリーダーで剣士のカイルです」


「……重戦士のバルガスだ」


「魔術師のセリナよ。よろしくね、クライドさん」


 三人が名乗りを上げた後、彼らの視線が俺の腰元や背中に集中した。

 そして、その表情がみるみるうちに驚愕へと変わっていく。


「……クライドさん、武器は? 鎧どころか、剣すら持ってないんですか?」


 カイルが困惑した声を上げる。バルガスやセリナも、呆れたような、あるいは「正気か」と言いたげな視線を俺に向けた。

 B級パーティーの彼らにとって、丸腰で依頼に臨むなど自殺行為に等しいのだろう。

 俺は無言のまま、上着の懐を軽く叩いて見せた。

 外からは見えないが、そこには使い慣れた例の武器を忍ばせてある。

 大仰な剣など、今の俺には必要ない。


「……そうですか。まあ、懐に何かあるみたいですけど……」


 カイルは釈然としない様子だったが、無理に踏み込もうとはしなかった。

 彼らは、俺がかつてS級冒険者パーティーに所属していた過去を知っている。

 だからこそ、こうして表向きは敬意を払った態度を崩さない。

 だが、その瞳の奥には「やはり過去の人だ」という侮りが、より一層強く滲んでいた。

 装備すら整えられないほど落ちぶれた、三十男。

 彼らにとっての俺は、守るべき「お荷物」にしか映っていないのだろう。


「移動しながら今回の依頼内容を説明します」


 カイルの合図で一行が歩き出し、俺もその後ろを付いていく。

 彼らの話によれば、今回の彼らの本命の仕事は、国境地帯に暗躍する盗賊団の討伐だという。

 盗賊団の中にどうしても「暗殺者」の技術でなければ仕留められない相手がいるため、今回「赫耀たる星辰」の三人は、隠密特化の俺を雇ったのだ。

 国境地帯の盗賊団か。

 何日か前、アヤメを連れてそこを通った際、俺は盗賊団の仲間らしき連中を始末している。

 今の説明を聞く限り、あの時の連中だ。だとすれば、盗賊の生き残りはまだたくさんいるはずだ。

 俺は冷静に、状況の裏側を読み解こうとしていた。

 目的地へと歩を進める道中、若者たちの間では賑やかで希望に満ちた会話が絶えなかった。


「今回の盗賊団、無事に片付ければいよいよA級への昇級も見えてくるわよね!」


「ああ、ギルド長も期待してるって言ってたしな。一気に名前を売ってやろうぜ」


 バルガスもセリナも、未来への期待に声を弾ませている。

 一方の俺は、その後ろを黙々と歩き続けることしかできなかった。

 会話に入ろうにも、最近の戦果の自慢話も、俺の手元には何一つ持ち合わせていない。

 何か気の利いたことでも言おうと無理に口を開きかけても、結局ふさわしい言葉が見つからず、そのまま喉の奥に押し戻してしまう。


「……クライドさん、やっぱりこういう遠征には慣れておられるんですか?」


 カイルがふと後ろを振り返り、敬語を使いながらも、その実力を探るような視線を向けてくる。

 俺は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を足元に落とした。


「いや……最近は地味な仕事を細々とこなしてきただけだ」


「はは、またそうやって謙遜を。まあ、今回は僕たちが派手にやりますから、クライドさんは後ろでゆっくり構えていてください。何かあっても、僕たちが守りますからね」


 敬意の仮面の裏側から覗く、純粋で残酷な若さゆえの傲慢。

 三十男の俺は、若い彼らのパーティーの中で完全に浮いた存在であり、少々居づらい気分だった。

 会話もうまく成立せず、ただ黙々と道を進むだけの時間。

 だが、俺は懐にある例の武器の感触を確かめ、自分に言い聞かせた。

 これは、何よりも大切な仕事だ。

 今、フランチェスカの家で慣れない読み書きを一生懸命に頑張っているアヤメの、生活を支えるための。

 俺は彼らの談笑を背に、静かに目的地を見据えた。



 目的地が近づくにつれ、周囲の空気は少しずつ湿り気を帯び、重苦しい沈黙が山全体を支配し始めた。

 俺たちは深く生い茂る山道へと足を踏み入れる。

 数日前、アヤメを連れて歩いた街道とは別だが、すぐ近くを並走する古い裏道だ。

 木々の隙間から時折見える景色や、風に乗って流れてくる土の匂いが、あの時の記憶を鮮明に呼び起こす。

 アヤメと過ごした時間が、今は遠い昔の出来事のようにも思えた。

 「赫耀たる星辰」の三人は、事前にギルドから入手していた情報を事細かに確認しながら、迷いのない足取りで進んでいく。

 カイルが時折立ち止まり、手に持った地図と周囲の複雑な地形を照らし合わせた。

 彼らの装備は最新のもので、歩くたびに微かな金属音を響かせているが、彼ら自身はその音に無頓着なようだった。


「……よし、方角は間違っていない。この先に、たれこみのあった古い建物があるはずだ」


 カイルが声を潜めて指示を出す。

 その声には、これから始まる手柄への期待が隠しきれずに混じっていた。

 しばらく進むと、バルガスが地面の落ち葉を大斧の柄で払い、鋭い視線を足元に向けた。


「カイル、見ろ。焚き火の跡だ。それに、新しい足跡もある。かなりの人数が通った形跡だぜ。奴ら、隠れる気もねえらしいな」


 そこには、隠すつもりもないほど露骨な盗賊団の痕跡が散乱していた。

 空き瓶や食い散らかした動物の骨。

 彼らはこの山を完全に自分たちの聖域だと思い込み、追手が来ることなど微塵も考えていないらしい。

 その慢心が、彼らの終焉を早めていることにも気づかずに。

 痕跡を辿り、鬱蒼とした木立を抜けると、前方に古びた石造りの建物が姿を現した。

 かつては何かの詰所、あるいは監視所だったのだろう。

 今は厚い蔦に覆われ、不気味な静寂を纏っている。

 だが、その静寂は熟練の冒険者の感覚を逆なでするような、偽りの平穏だった。


「……いたわ。あのアジトの周り、見張りだらけね」


 セリナが低い茂みに身を潜め、魔力を帯びた杖を握りしめる。

 建物の周囲には、だらしなく武器を携えた男たちが数人、暇そうにあくびをしながら辺りをうろついていた。

 一人ひとりの動きは鈍く、規律のかけらも感じられない。

 しかし、その身に纏う薄汚れた空気には、これまで幾多の略奪を繰り返してきたであろう凶悪さがべったりと張り付いていた。


「ざっと見えるだけで五人……。中にどれくらい潜んでいるか分からないわね。厄介だわ」


 セリナの言葉に、バルガスが鼻を鳴らし、大斧を軽く担ぎ直した。


「ふん、まとめて叩き潰せばいい。俺が正面から突っ込んで注意を引く。その隙にカイルが仕留めろ。B級パーティーの力を見せてやるぜ」


「いや、待てバルガス。まずはセリナの魔法で遠距離から一人削って、混乱したところを叩くのが定石だ。無駄な傷は負う必要はない」


 若手三人は、木陰で小声で作戦会議を始めた。

 彼らの瞳には、昇級への功名心と「自分たちなら容易く勝てる」という瑞々しい自信がぎらぎらと燃えている。

 その自信が、いかに脆い土台の上に成り立っているかを彼らはまだ知らない。

 俺は彼らから少し離れた場所で、完全に気配を殺して建物の裏手や、頭上に広がる高台の木々に視線を走らせる。

 見えている五人はただの撒き餌だ。

 あちこちに不自然な枝の揺れがあり、鳥の鳴き声も絶えている。

 伏兵が絶好の位置に配置されているのは、俺の目にはあまりに明白だった。


「……クライドさん、どうしました? さっきから一言も喋らずに。まさか、怖気づいちゃいましたか?」

 カイルが肩越しにこちらを振り返り、形ばかりの敬意を混ぜた口調で揶揄するように言った。

 彼らにとって、鎧も身につけず、丸腰で立ち尽くす俺は、守られるべき戦力外の観客にしか映っていないのだろう。

 俺は答えず、懐にある先割れスプーンの感触を手元で確かめる。

 銀色に鈍く光るその小さな先端は、どんな業物よりも確実に、音もなく標的の急所を抉り出す。

 このスプーン一本で、俺はこれまで数多の夜を越えてきたのだ。

 さて、どう攻めればよいか。

 若手たちの無謀な突撃を合図にするべきか。

 それとも、彼らが窮地に陥る前に、影から先に伏兵の首を刈り取っておくべきか。

 俺は静かに息を整え、アジトに巣食う悪人たちの命の灯火を一つひとつ、冷静に見定めた。

 見上げれば、空はすでにどす黒い朱色に染まり始めている。

 もうじき夜が来る。

 暗闇は俺にとって、最高に都合の良い味方だった。

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