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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第3話 掃除

 どんよりとした曇り空が、街全体を重苦しく押し潰している。

 俺は掃き溜めのような路地で、黙々と箒を動かしていた。

 かつて影の世界で生きてきた俺にとって、今の生活はひどく退屈で、それでいて、どうしようもなく不器用なものだ。

 暗殺という「壊す」仕事には誰よりも通じていたが、この街の清掃という「整える」仕事には、いつまで経っても馴染めそうにない。


「……ちっ、腰が鳴りやがる。慣れない仕事は、標的の喉元を掻き切るより骨が折れる」


 独りごちる俺に、隣でゴミ袋を広げていた日雇い仲間のトニーが、屈託のない笑みを向けてきた。


「おい、クライド! そんなに無理やり詰め込んだら袋が破けるぞ。もっと丁寧に、優しくやりなよ」


 トニーはこの不潔な街には珍しく、お人好しで、青臭いほどの正義感を持った男だった。家も持たず、その日暮らしの底辺で喘ぐ俺たちにとって、そんな美徳は腹の足しにもならないというのに。


「……丁寧、か。俺の指は、壊すことには慣れているが、守ることには向いていないんでね」


「ははっ、相変わらず冗談がキツいな。ほら、あっちの角も片付けちまおうぜ。終わったら安い酒でも飲もう」


 トニーの明るい声に、俺は無言で頷いた。

 二人が歩道の泥や、家畜の乾いた糞を片付けていた、その時だった。

 ベチャリ、と背筋が凍るような不快な音がして、俺の足元に何かが叩きつけられた。

 それは、中身の腐りかけた紙製の食事容器だった。どろりと溢れ出した残飯が、石畳に広がり、鼻を突く強烈な悪臭を放つ。

 見上げれば、そこには上質な絹の服に身を包んだ男が立っていた。

 男はさも当然といった顔で、汚れのついた指先をハンカチで拭いながら、何事もなかったかのように歩き出す。


「旦那、失礼。何か大切なものを落とされたようだよ」


 トニーが努めて穏やかな、礼儀をわきまえた声で男を呼び止めた。

 だが、男は一瞥もくれない。それどころか、歩きながら今度は噛み終えた獣の骨を、平然と道端に放り投げた。

 俺の胸の奥で、冷ややかな怒りが静かに熱を帯びる。

 掃除という「真っ当な仕事」を、文字通り足蹴にされた感覚。だが、俺はそれを表に出さず、トニーの肩に手を置いた。


「……放っておけ、トニー。関わるな」


「だがクライド、見てくれ。せっかく俺たちが清掃したばかりの道が台無しだ。一言、謝ってもらわないと気が済まないよ」


 トニーの瞳には、真っ直ぐな正義感が宿っていた。


「いいか、トニー。ああいう手合いにとって、俺たちは道端に転がっている石ころ、いや、ゴミと同じなんだ。無視して拾えば済むことだろ」


「いいや、俺は石ころじゃない。誇りを持って仕事をしている人間だ」


 トニーは俺の制止を振り切り、大股で男に歩み寄った。


「失礼するよ、旦那! 待ちな。ゴミは集積場に捨てるのがこの街の決まりだ。あんたほどの身なりなら、そんな作法は先刻ご承知だろうに」


 男がようやく足を止めた。ゆっくりと振り返ったその顔には、隠そうともしない深い侮蔑が浮かんでいる。


「……下賤なネズミが、私に物申しているのか? 吐き気がする」


「……何だって? 謝ってくれ。今すぐ、あんたが捨てたものを拾うんだ!」


 トニーが男の袖を掴もうと手を伸ばした、その瞬間だった。

 男の背後に影のように控えていた大柄な護衛が、言葉よりも早く、獣のような速さで踏み込んできた。


「汚い手で触れるな、屑が」


 低く冷酷な声と共に、護衛の太い腕がトニーの顔面に叩きつけられた。

 バキリ、と嫌な音が響く。

 鼻梁を砕かれたトニーの顔から鮮血が噴き出し、彼は糸の切れた人形のように石畳へ転がった。


「が、はっ……あ、が……」


 トニーが顔を覆って悶絶する間も与えず、護衛の容赦ない追撃が始まった。

 固く重い鉄板入りの革靴が、トニーの脇腹を無慈悲に抉る。


「カハッ!」


 肺から空気が強制的に押し出され、トニーの体がへの字に折れ曲がる。


「待って……くれ、どうか、……」


 掠れた声で許しを乞うトニーの頭を、護衛はサッカーボールでも蹴るかのような勢いで蹴り飛ばした。

 ゴン、という鈍い衝撃音が路地裏にこだまする。

 トニーの体は数メートルも地面を滑り、さっき彼自身が掃き清めたばかりの石畳を、自らの血で赤黒く汚していく。

 痙攣するトニーの指先が、無意識に地面の泥を掻いた。


「身の程を知れ。ゴミを掃除するのがお前の仕事だろう? なら、私の捨てたゴミを黙って拾っていればいいのだ。それがお前という道具の、唯一の存在価値だ」


 男は冷たく言い放つと、意識の朦朧とするトニーの頬を、汚い物を見るような目で踏みつけた。

 そして、これ見よがしに彼の耳元へ唾を吐き捨てた。


「行こう。空気が汚くてかなわん」


 男たちは、まるで汚れた靴を拭った後のような顔で、悠然と歩き去っていった。

 周囲の通行人は、関わりを恐れて足早に去り、路地には静寂とトニーの苦しげな呼吸音だけが残る。

 俺は、一歩も動かなかった。

 ただ、手に持っていた箒の柄を、ミリ、と指が食い込むほど強く握りしめていた。

 ミシッ、と木が悲鳴を上げる。


「……トニー、言ったはずだ。放っておけとな」


 俺は静かにトニーの傍らに膝をついた。

 その瞬間、俺の瞳から、うだつの上がらない日雇い労働者の光は完全に消え失せていた。

 代わりに宿ったのは、かつて数多の命を奪ってきた暗殺者の、冷徹な「炯眼」だ。

 トニーは震える手で俺の袖を掴み、血の混じった声で何かを言おうとしている。

 俺は彼の頭を優しく撫で、耳元で低く囁いた。


「……安心しろ。お前がそこまで体を張ったんだ。この街で一番汚い『ゴミ』の始末は、俺が引き受けてやる」


 立ち上がった俺の視線は、既に角を曲がろうとする男の背中を、逃れられぬ標的としてロックオンしていた。

 暗殺者としての「本能」が、久々の獲物を前にして、静かに牙を研いでいる。


 俺は動かなくなったトニーを背負い、血に濡れた石畳を後にした。

 向かったのは、街の外れにある崩れかけた廃屋だ。

 ここは家を持たない日雇い労働者たちが、寒さを凌ぐために身を寄せ合う掃き溜めのような場所だ。

 背中に伝わるトニーの呼吸は浅く、途切れ途切れで、時折、肺の奥から漏れるようなヒューヒューという音が俺の耳を突く。


「……クライド、悪い……。俺、……また、明日から、仕事に……」


 掠れた声でトニーが呟く。


「喋るな。今は休め」


 俺は短く応え、歩を早めた。

 廃屋の汚れた毛布の上にトニーを横たえたが、その顔色は土気色に変り、素人目に見ても容態は絶望的だった。

 駆けつけた仲間の、かつて軍医だったという男が、トニーの腹部を検分して重く首を振った。


「……内臓がひどくやられている。命が助かっても、もう二度と、まともに歩くことも、重い箒を握ることも無理だ」


「……そんな、トニーは、もう終わりだっていうのか」


 別の仲間が絶望的な声を漏らす。

 その言葉に、廃屋の中に沈痛な沈黙が流れた。

 トニーはうわ言のように「俺は、石ころじゃ……」と繰り返していたが、やがて力尽きたように意識を失った。

 俺は無言で立ち上がり、暗い夜の底へと足を踏み出した。


「クライド、どこへ行くんだ」


 背後で仲間が声をかけてくるが、俺は振り返らなかった。


「……少し、やり残した仕事があってな」


 あの男の傲慢な顔、そしてあの護衛の踏み込みの癖。

 網膜にはっきりと焼き付いている。

 貴族や豪商が通う高級娼館か、あるいは私的な賭博場か。

 あの男から漂っていた、安物の香料とは違う、鼻を突くような「贅の臭い」が、俺の暗殺者としての勘を刺激していた。


「……あの足取り、あの靴の汚れ方。北の貴族街へ続く、会員制の酒場『深紅の果実』か」


 確信に近い予感があった。

 俺は腰の奥、日雇い仕事では一度も触れることのなかった、使い古された武器を指先で確かめた。


「掃除はまだ、終わっちゃいない」


 夜の冷気が、鈍っていた暗殺者の神経を極限まで研ぎ澄ましていく。

 街灯の届かぬ影を縫い、俺は音もなく「ゴミ」の居場所へと向かった。


「待ってろ、トニー。お前を笑った奴らの息の根を、俺が代わりに止めてきてやる」


 俺の瞳には、昼間の冴えない労働者の面影は微塵もなかった。

 標的の居所は、もうすぐそこだ。


 夜の帳が下りた『深紅の果実』。

 そこは、選ばれた富裕層だけが贅を尽くした美酒と放蕩に耽る、この街の汚濁を凝縮したような楽園だった。

 俺は通気口の狭い隙間から、音もなく、一匹の影となって滑り込んだ。

 高い天井を走る梁の上に身を潜め、冷徹な瞳で眼下を見下ろす。

 シャンデリアの眩い光の下、昼間にトニーの尊厳を土足で踏みにじったあの男がいた。

 男は高級なワインを喉に流し込み、隣に座る女の肩を抱いて下卑た笑い声を上げている。


「がはは! あのネズミの顔を見たか? 私に説教を垂れるとは、身の程を知らんにもほどがある」


 男がそう言って笑うと、傍らに控えるあの護衛も鼻で笑った。


「ええ、旦那。あんな屑、一蹴りで十分でしたな。今頃は泥の中でくたばっているでしょう」


「……見つけたぞ、ゴミ屑が」


 俺は梁の上で、静かに独語した。

 懐から取り出したのは、使い古された一本の先割れスプーンだ。

 指先に伝わる鉄の冷たさが、眠っていた俺の本能を心地よく刺激する。


「……あ?」


 シャンパンの栓が抜ける、祝祭の合図のような乾いた音。

 それに紛れ、俺は梁から男の背後へと音もなく舞い降りた。

「な、何だお前は……!」

 護衛が異変を察知し、喉の奥で声を上げようとしたその瞬間。

 俺は先割れスプーンの鋭利な先端を、護衛の頸動脈へと迷いなく突き立てた。


「がっ……!?」


 熱い鮮血が噴き出し、護衛の巨体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 間髪入れず、恐怖に頬を痙攣させた主人の喉笛を、スプーンの縁で一気に掻き切った。


「ガ、……あ、……」


 男は喉を両手で押さえ、琥珀色の酒が注がれたグラスの中に、真っ赤な死の色彩をぶちまけて倒れ伏す。

 暗殺者としての「仕事」に、慈悲などという夾雑物は一切必要ない。


「火事だァーッ!」


「旦那が殺されたぞ! 出入り口を固めろ!」


 静寂は一瞬にして切り裂かれ、店の中は怒号と悲鳴が渦巻く地獄絵図へと変わった。

 俺はその喧騒を冷ややかに嘲笑いながら、隣のテーブルで腰を抜かし、泡を吹いている肥った金持ちの懐に手を伸ばした。


「……手間賃としていただくぜ。残飯掃除の、な」


 指先に触れたのは、ずっしりと重い金貨の袋だ。

 パニックに陥った客たちが我先にと入り口へ殺到する中、俺は返り血を拭うことさえせず、影から影へと渡り歩き、悠々と裏口から夜の街へと消えた。

 廃屋に戻ると、トニーは死人のような青白い顔で横たわっていた。

 軍医崩れの男の尽力で、どうにか一命は取り留めたようだが、その瞳に宿っていたかつての輝きは失われている。


「……クライド、……戻ったのか」


 トニーが力なく目を細め、掠れた声で俺に問いかけてくる。


「ああ。少しばかり臨時収入があってな。これはお前の分だ。取っておけ」


 俺は掠め取ってきた金貨の袋を、トニーの枕元に置いた。

 一生を安穏と遊んで暮らせるだけの重み。

 それが、不器用な正義を貫こうとして未来を奪われた彼への、せめてもの手向けだった。


「……こんな大金、どうしたんだよ。クライド、お前、まさか……あの男に……」


「喋るな。これでお前の『仕事』は終わりだ。これからは、誰に指図されることもなく、静かに暮らせばいい」


 トニーの震える言葉を最後まで聞かず、俺は出口へと歩み出した。

 一度も、振り返ることはしなかった。

 俺たちが共有した「日雇い労働者」としての時間は、もう二度と戻らない。


「待ってくれ、クライド! どこへ行くんだ! お前は……お前はどうするんだよ!」


 背後から必死に俺を呼ぶトニーの声が響く。


「掃除の場所を変えるだけだ」


 夜霧の中に溶け込んでいく俺の歩みが止まることはなかった。

 俺、クライドには住む家がない。

 だが、次に世界を汚すゴミを見つけた時、俺の「仕事」は再び人知れず始まるのだ。

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