第4話 花
俺は特に目的もなく放浪の旅を続けていた。
とある町を通り過ぎる。
石畳がどこまでも続くメインストリートは、正午の陽光を浴びて白く輝いていた。
色とりどりの天幕を張った露店が所狭しと並び、芳醇なスパイスの香りと、焼き立てのパンの匂いが混じり合って鼻腔をくすぐる。
着飾った貴婦人たちが日傘を回しながら談笑し、その脇を、重い荷を積んだ馬車が車輪の音を高く鳴らして通り過ぎていく。
大道芸人が手品を披露すれば、集まった子供たちが歓声を上げ、高く舞い上がった鳩の群れが青空に白い弧を描く。
噴水広場では、吟遊詩人が奏でるリュートの調べに合わせ、若者たちが軽やかにステップを踏んでいた。
行き交う人々は皆、豊かな暮らしを謳歌するかのような笑みを浮かべ、平和な午後のひとときを楽しんでいる。
高級な絹織物を纏った紳士が、銀杖を突きながら、道端のカフェで優雅に琥珀色のワインを傾けていた。
立ち並ぶ白壁の建物には鮮やかな花々が窓辺を飾り、この町が繁栄の極みにあることを無言で誇示している。
だが、その眩いばかりの賑わいからわずか数歩、影の落ちる路地裏へ足を踏み入れれば、空気は一変する。
石畳の路地裏に、粘りつくような下卑た笑い声が響いていた。
表通りの活気とは裏腹に、路地を一歩入れば陽の光も届かぬ湿った不穏さが淀んでいる。
立ち並ぶ建物の壁は薄汚れ、窓からは住人のものか、あるいは通りを監視する者のものか判別しがたい視線が絶えず突き刺さる。
市場の片隅で、青い髪をした十歳そこそこの少女が声を張り上げていた。
「お花はいかがですか? 今朝、摘みたての花ですよ」
彼女の身なりは、この町の格差を残酷なほどに象徴していた。
着ているチュニックは、もともとの色が何色だったのか判別できないほどに退色し、幾重にも継ぎ接ぎが当たっている。
小さな体に対し、丈の足りなくなった袖口からは、寒さと栄養不足のせいか、ひび割れた細い手首がのぞいていた。
泥にまみれたぶかぶかの靴が、彼女の置かれた過酷な境遇を物語っている。
それでも彼女は、籠いっぱいの可憐な花々を大切そうに抱え、行き交う人々に健気に微笑みかけていた。
だが、人々は関心なさげに通り過ぎるか、あるいは彼女の貧しさを避けるように目を背けるばかりだった。
そんな彼女の前に、見るに堪えない醜悪な風体の男たちが立ちはだかった。
三人は一様に、手入れのされていない脂ぎった体を、安物の服に無理やり押し込んでいる。
ベルトの上一面に乗った、醜く突き出た太鼓腹が、呼吸のたびにだらしなく揺れていた。
その様子は、弱者を食い物にして肥え太った豚そのものだった。
「ひひっ、いいじゃねえか。そんな小銭にしかならねえ花を一日中売って、何になるんだ?」
先頭に立つ、頬に深い傷のある大男が、少女の顎を汚れた指先で強引にしゃくり上げた。
脂で光る指先が、少女の白い肌を汚していく。
「なあ、そんな花よりも、お前自身を俺たちに買わせてくれねえか。もっといい稼ぎをさせてやるぜ。……なあ、お嬢ちゃん。悪い話じゃねえだろ?」
男の言葉には、隠そうともしない卑劣な欲望が透けて見えた。
少女は顔を真っ青にさせ、震える声で必死に首を振る。
「……嫌。離してください。これ、大事な売り物なんです……」
「ああん? 客の誘いを断るってのか、このガキが! 誰の許可を得てここで商売してやがる!」
男が肉の厚い腕を、万力のような力で少女の細い腕に絡ませた。
少女は細い腕を必死に引くが、脂ぎった男の怪力には抗う術もない。
「やめて! 痛い……離して!」
悲鳴を上げる間もなく、彼女が地面へ無理やり引きずり出される。
その拍子に、彼女が命の次に大切に抱えていた花籠が、石畳の上に無残に転げ落ちた。
「あ……っ! お花が、お花が!」
籠から溢れ出したのは、色とりどりの可憐な花々。
どれも夜明け前から丁寧に摘み取られ、手入れされた、鮮やかな彩りだった。
「ぎゃはは! 見ろよ、汚ねえ地面にぴったりだぜ!」
「いいから来い。たっぷり『可愛がって』やるって言ってんだ、この小娘!」
三人の男たちはそれを、泥と馬糞にまみれた重いブーツで容赦なく踏みにじった。
生々しい「ぐしゃり」という破壊音が、静かな路地に響く。
少女の希望そのものだった花弁が、汚泥と共に石畳にこびりついていく。
その光景を見た瞬間、俺、クライドの胸の奥で、冷たく鋭い「何か」が音を立てて爆発した。
「失礼ですが、そこまでにしていただけませんか」
俺の声は、自分でも驚くほど穏やかで、しかし地を這うような重みを持って響いた。
男たちの下劣な笑い声がぴたりと止まる。
「ああん? なんだてめえ。余所者が首突っ込んでんじゃねえよ」
傷跡のある巨漢が、少女の腕を掴んだまま、苛立ちを隠さずにこちらを睨みつける。
顎の下に二重、三重に溜まった贅肉が、怒りに不快に波打っていた。
「いえ、通りがかっただけの者ですが……。その手を離していただけないでしょうか。お願い申し上げます」
俺は一歩、また一歩と、逃げ場のない男たちの方へ足を踏み出した。
俺は剣を持っていない。
だが、懐の奥には愛用の先割れスプーンが静かに眠っている。
銀色に鈍く光るその食器は、俺にとっては何よりも頼れる武器だが、それを見せるのはまだ早い。
「重ねて申し上げます。その娘さんから手を離してください。そうしていただけるまで、私はここを退きません」
「抜かせ! やっちまえ!」
男が少女をゴミのように突き放し、代わりに俺の胸ぐらを掴もうと、脂ぎった手を伸ばしてきた。
俺はその手を軽くいなし、同時に懐へそっと手を滑らせる。
その指先が、鋼鉄よりも頼りになる相棒の柄に触れた。
「……っ!?」
男の動きが凍りついた。
俺が放ったわずかな気配。
丁寧な物腰の裏に潜む、凍てつくような真の殺気に、男の本能が警鐘を鳴らしたのだ。
男の額から、大粒の脂汗がタラリと流れ落ちた。
「……っ。ひっ……」
「お引き取りください。二度は申し上げません。これ以上は、お互いのためになりませんので」
「……っ。……ちっ。……お、覚えてろよ! おい、行くぞ、野郎ども!」
男は吐き捨てるように言い、仲間を促した。
三つの肥大した背中が、逃げるように、しかし強がって肩を怒らせながら揺れる。
去り際、リーダー格の男は俺の横を通り過ぎる瞬間、低い声で呪詛のように呟いた。
「……おい、テメェ。ツラはしっかり覚えたからな。地獄を見せてやる」
「……ご親切に。お気遣い痛み入ります。私、これでも自分の命は大事にしている方ですので」
男たちは俺を射抜くような恨みの視線を背中に残し、不快に肉を揺らしながら路地の闇へと消えていった。
静まり返った路上で、少女はへたり込んだまま、無残に潰れた花と籠を見つめていた。
俺は彼女の傍に静かに跪き、せめて形が残っている数輪を、そっと拾い上げる。
「ほら、大丈夫か? どこか痛むところはないか?」
「ありがとうございます。でも、お花が……。せっかく、一生懸命摘んできたのに……」
少女は涙を溜めた瞳で俺を見上げた。
俺は籠の隅で、奇跡的に汚れを免れた白い花を一輪見つけた。
名前も知らないが、清楚な花びらを広げたその一輪を指で摘まみ上げ、彼女の目の前に差し出す。
「これ、一輪売ってくれないか。すごく綺麗だ」
「えっ……? でも、そんな汚れた籠の中にあったものですし、売り物には……」
「いや、俺が欲しいんだ。……ほら、代金だ。取っておけ」
俺は彼女の手のひらに、銀貨を一枚置いた。
一輪の花にはあまりに不釣り合いな額に、少女は目を見開いて固まった。
この銀貨一枚あれば、彼女は数日はまともな食事ができ、新しい花の仕入れだってできるだろう。
「こんなに頂けません! これじゃあ多すぎます!」
「いいんだよ。釣りはいらない。明日、また綺麗な花を仕入れるための資金にしてくれ。……いいな?」
少女は戸惑いながらも、銀貨を細い指先でぎゅっと握りしめた。
その瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、微かな灯火のような希望が宿っていた。
「……本当に、ありがとうございました! 旅人さん!」
「寄り道しないで真っ直ぐ帰るんだぞ。あの連中、しつこそうだからな。気を付けて」
「はい! ありがとうございます!」
彼女は何度も振り返りながら、ぶかぶかの靴を鳴らして路地の向こうへ走っていった。
その後姿が角を曲がって消えるまで、俺は見届ける。
一人残された俺は、手元の白い花を見つめた。
その清楚な輝きは、この淀んだ町の空気にはあまりに不似合いだった。
あいつらの目は、間違いなく俺を狙っている。
……まあ、せいぜい夜道で不意打ちを食らわないよう気を付けるとしよう。
俺は花を懐にしまい、隠し持った先割れスプーンの感触を確かめながら歩き出した。
あの少女とは、これでもう関わることもないだろう。
この町を離れれば、すべてはただの旅の記憶に消えていく。
不穏で熱い風が路地を吹き抜けていった。




