第29話 歓迎
王立魔法学院の、高く荘厳な石造りの天井。
そこに、アヤメの履いた小さな靴の音がコツコツと小気味よく響き渡る。
その音に導かれるように、廊下を歩いていた生徒たちの視線が次々と彼女に注がれていった。
「……ねえ、あの子じゃない? 信じられないくらい愛らしいわ」
「ええ、間違いないわ。学院の歴史を塗り替える十歳の入学者よ。まるでお伽話から抜け出してきたお人形さんみたい……」
すれ違う生徒たちは思わず足を止め、背の低い彼女を見下ろしながら、その可憐さに溜息を漏らす。
入学式はごく簡素な儀式のみで執り行われたため、アヤメには他の生徒と会話を交わす機会など全くなかった。
アヤメにとって、この広大な廊下を歩く時間は、本格的な学院生活の始まりであると同時に、初めて見知らぬ他者と言葉を交わす瞬間の始まりでもあった。
そんな好奇心の熱気に満ちた廊下を、アヤメは緊張を押し隠しながら進んでいく。
そんな彼女の前に、十五歳の女生徒、シェリルが銀の巻き毛を揺らし穏やかな笑みを湛えて歩み寄ってきた。
「おはよう。あなたがアヤメさんね? 私はシェリル」
シェリルはアヤメの目線に合わせて、丁寧に腰を落とした。
「年齢は少し離れているけれど、私もあなたと一緒に今年入学したの。今日から同じクラスで学ぶ同期生として、よろしくね」
その落ち着いた声音と包み込むような慈愛の表情は、周囲の好奇の視線を優しく受け流していく。
初めて「同期生」からかけられた温かい言葉に、アヤメの心はふわりと解きほぐされていった。
そこへ、廊下の向こうから歌うような軽やかな足音が近づいてくる。
「いたわ! 噂の小さな天才さんね!」
現れたのは二学年上の上級生、十八歳のカトリーナだった。
彼女はアヤメの正面に陣取ると、まじまじとその顔を覗き込み、感極まったように声を上げる。
「……ちょっと、シェリル。この子、本当に私たちと同じ生き物なのかしら?」
カトリーナはアヤメの透き通るような白い頬を指先でそっとつつき、真顔で問いかけた。
「信じられないわ。こんなにも隙のない顔立ち。おまけに十歳でこの学院に来るなんて……。実は、どこかの天才職人が作り上げた『魔法仕掛けの自動人形』なんじゃないかしら? ほら、背中のあたりに、ネジ穴の跡でも隠れていない?」
冗談めかしながらも、半分は本気で感嘆している様子のカトリーナ。
彼女はそのまま辛抱たまらんとばかりに、アヤメの小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「いいわ、もし本当に人形だったとしても、私が責任を持って一生メンテナンスしてあげる! 今日からあなたは私の、世界で一番可愛い義妹よ!」
アヤメは、十八歳の大人びた女性の体温に、驚きながらも恥ずかしそうにはにかんだ。
しかし、その華やかで温かな歓迎ムードを、壁際から冷ややかに見つめる者がいた。
三十歳前後だろうか。どこか神経質そうな眉間に深い皺を刻んだその男もまた、アヤメやシェリルと同期の入学者だった。
彼は、入学試験の模擬戦においてアヤメが対峙したあの男だ。
序盤は、彼が年齢にふさわしい圧倒的な魔力の出力と力業で攻め立て、着実に彼女を追い詰めていた。
しかし、勝利を掴みかけたその瞬間にすべては暗転した。
アヤメが土壇場で放った、理屈を超えた一撃――その底知れない魔力の奔流の前に、彼は一瞬にして逆転を許し、膝を屈したのだ。
学院の入学者としてはかなり高齢の部類だが、彼は幾度もの挫折を乗り越え、ようやく念願叶って門を潜った苦労人であった。
模擬戦での敗北こそ喫したものの、それまでの圧倒的な魔力操作と執念が認められ、首の皮一枚で入学を許可されたのだ。
「……人形なものか。あんな恐ろしい術を、土壇場で繰り出す者が」
男は唇を噛み、鋭い眼光でアヤメを睨みつける。
周囲の誰もが彼女を「愛でるべき対象」として持て囃す中、彼だけは、彼女を「倒すべき敵」としか認識できていなかった。
いつか必ず雪辱を果たす。その執念だけが彼を突き動かしていたのである。
初めて交わす言葉、初めて触れる温もり、実力を知る者から向けられる鋭い敵意。
アヤメの王立魔法学院での日々は、そんな濃密な人間模様の渦の中から、鮮烈に幕を開けた。
「おい! よりによって今日みたいな忙しい日に、珍しく遅刻じゃねえか!」
現場監督の野太い怒鳴り声が、すでに石材を削る音と労働者たちの荒い息遣いが激しく交錯する工事現場に炸裂した。
俺は無言のまま、使い古されて指先の生地が薄くなった軍手をはめ、深く被ったヘルメット代わりの帽子の影から監督を軽く見上げた。
「……すみません。ちょっと、外せない野暮用があったもので」
「野暮用だぁ? お前みたいな真面目だけが取り柄の奴が、そんな言い訳をするとはな。だが現場は待っちゃくれねえんだ」
監督は鼻を鳴らし、乱暴に顎で現場を指した。
「ほら、休んでる暇があったらさっさとあっちの石材を運べ! 遅れた分はきっちり働いてもらうぞ!」
アヤメを執拗に狙っていた悪者共を「掃除」し、路地裏に散らばった返り血を拭い、証拠を闇に葬ってからここへ直行したのだ。
予定より時間がかかったせいで、太陽はすでに中空に昇り始めており、現場の熱気は最高潮に達していた。
午前中の仕事は、まさに肉体を酷使する苦行だった。だが、俺にとってはこれが救いでもあった。
役獣が引く荷車の軋みを聞きながら、肩に食い込む石材の重みを感じ、全身が泥と汗にまみれていく感覚に没入している間だけは、数時間前に指先に残っていた、あの忌々しい生命のやり取りの感触を忘れられるからだ。
俺はただのしがない労働者として、周囲と余計な会話を交わすこともなく、黙々と、しかし誰よりも正確に仕事をこなした。
昼休み、埃っぽい現場の隅っこで一人食べる、乾燥してパサついた黒パン。
その味気ない塊を咀嚼し、喉を通るたびに、自分がまだこちらの「日常」の世界に踏みとどまっていることを実感できた。
午後の作業もようやく終わりを迎え、空が赤銅色に染まり始めた頃。
沈みかけた夕日に長く伸びる自分の影を見つめながら、重い足取りで現場のゲートをくぐり、帰路につこうとした時だった。
「……その場しのぎの地味な仕事に精を出しているのね」
背後から、不意に声をかけられた。
鈴を転がすような可憐な響きを持ちながらも、その奥に氷のように鋭利な冷たさを秘めた声。振り返るまでもなく、それが誰であるかは分かっていた。
埃と泥にまみれた工事現場の出口、騒々しい通りの喧騒から少し外れた壁際に、その女は立っていた。
フランチェスカ。
彼女の凛とした気高い佇まいは、労働者たちの汗の臭いが漂うこの場所において、あまりに異質で、およそ不釣り合いな光景だった。
「……何の用だ。俺はもう今日の仕事は終えたつもりなんだが。見ての通り、今はただの疲れ果てた労働者だ」
俺のそっけない態度を気にする様子もなく、フランチェスカはわずかに目を細めて微笑んだ。
「そう急がないで。まずは……おめでとう。アヤメちゃん、無事に学院へ通い始めたわね。あなたの尽力には敬意を表するわ。あの子の制服姿、きっと可愛らしいでしょうね」
その確信に満ちた言葉に、俺の足が止まった。フランチェスカはゆっくりと歩み寄り、周囲の目を避けるように声を潜めた。
「特待生として学費が免除されたとはいえ、これからの生活費や教材費……アヤメちゃんを守り続けるための蓄えも、いつまでもその泥まみれの稼ぎだけで賄えるとは思えないけれど?」
彼女の瞳が、俺の懐の寂しさを見透かすように光る。
「だからこそ、あなたの『本業』の方に、興味深い依頼を持ってきたのよ。ある冒険者パーティーが、一時的に特定の『技術』を持つ者の力を借りたいと言っているの。あなたなら、これ以上ないほど適任でしょう?」
俺は眉を寄せ、即座に首を振った。
「断る。俺は冒険者なんてガラじゃない。群れるのは性分に合わないし、今さら正義の味方ごっこをするつもりもない」
「正義なんて安い言葉、誰も使っていないわ。これは純粋なビジネスよ」
「……向いてないんだよ。俺みたいなF級の出来損ないはな」
自嘲気味に吐き出した言葉と共に、かつて俺を「F級だから」という理由だけで切り捨てたS級パーティーの嘲笑が蘇る。
彼らにとって、暗殺しか能のないF級はパーティーの体面を汚すゴミでしかなかったのだ。
「俺は闇に潜んで、獲物の隙を突き、音もなく息の根を止めることしか知らない。光の下で堂々と剣を振るう連中と一緒に歩けば、足並みが乱れるだけだ」
俺が話を切り上げ、歩みを進めようとしたその時。フランチェスカの声が重くなった。
「もったいないわね、その才能。このまま工事現場で泥にまみれて朽ちていくには、あなたのその腕はあまりに鮮やかすぎる。あなたは、命の灯を消すことにおいて『天才的』よ。それを誰よりもあなた自身が自覚すべきなんじゃないかしら?」
彼女の瞳には、打算以上の情熱が宿っていた。
「それに、冒険者パーティーという『隠れ蓑』を得ることは、あなたにとっても悪くない話のはずよ。いつまでも一匹狼でいれば、いずれ本当の猟犬に嗅ぎつけられる。仲間という名の盾を持つことも、あなたの在り方を守る生存戦略の一つではないかしら?」
俺は立ち止まり、自分の汚れきった掌をじっと見つめた。
S級冒険者たちに「無能」と捨てられた、この血塗られた技術。それをフランチェスカは残酷なまでに正確に、そして甘美に肯定してみせた。
沈黙が流れる中、俺は小さく息をつき、彼女の方へ向き直った。
「……具体的に、どんな依頼なんだ」
俺の問いかけに、フランチェスカは勝利を確信したように、満足げで、そしてどこか妖艶な微笑を浮かべた。
「ギルドに行けば、すべてわかるわ」
フランチェスカは俺の問いに直接は答えず、ただ妖艶な笑みを深めた。
夕闇が迫る工事現場の入り口で、彼女の紅い唇だけが不自然なほど鮮明に浮き上がって見える。
「……ギルドなんて、俺にとっては不愉快な記憶の掃き溜めでしかないんだがな」
「あら、過去をいつまでも引きずるのは感心しないわ。アヤメちゃんのこれからの生活を担保にするなら、多少の不快感くらい飲み込めるはずでしょう?」
まるであらゆる弱みを知り尽くされ、手のひらの上で転がされているかのような錯覚に陥る。
結局、俺は彼女に言いくるめられる形となり、泥にまみれた作業着のまま、重い足を渋々と冒険者ギルドへと向けることになった。
フランチェスカと別れた後、俺は一人、夕闇に沈み始めた街を歩き出した。
脳裏をよぎるのは、家で俺の帰りを待っているアヤメの顔だ。
今日は彼女にとって、学院での記念すべき最初の授業が行われた日だった。
本当なら、今頃は家に戻って「どうだった?」と声をかけ、彼女の嬉々とした報告を聞きながら夕食を囲んでいるはずの時間だ。
それなのに、これから不本意な用事でギルドに向かうとなれば、帰宅はさらに遅くなる。
せっかくのハレの日に、期待と不安を抱えて帰ってきた彼女に、余計な心配をかけてしまうことが心苦しかった。
(……だが、今の俺に拒否権はないか)
アヤメとの平穏な暮らしを維持し、彼女を学院へ通わせ続けるためには、フランチェスカの用意したこの『隠れ蓑』に乗るしかない。
俺は自嘲気味に息を吐き、重い足を渋々と冒険者ギルドへと向けた。
ギルドの重厚な扉を押し開けると、特有の喧騒と、酒と汗の入り混じった臭いが鼻を突いた。
十年以上も遠ざかっていた場所だというのに、その空気は吐き気がするほど変わっていない。
俺は誰とも視線を合わせないよう、深く被った帽子の影に顔を隠したまま、受付へと歩み寄った。
「次の方、どうぞ」
落ち着いた、しかしどこか聞き覚えのある涼やかな声。
顔を上げた俺は、思わず絶句した。
「……え?」
そこにいたのは、ニーナだった。
十数年前、俺がまだ身の程知らずの子供だった頃、暗殺者としてギルドに登録した際に担当だった女性だ。
当時、武器すら持たず登録に来た俺に対し、彼女は「究極の万能暗殺具よ」と、とんでもない勘違いをしたまま、一本の『先割れスプーン』を自信満々に手渡してきたのだ。
今の俺の技術の出発点には、常にあのふざけた銀色の食器があった。
しかし、何よりも驚くべきは彼女の姿だった。
十年以上の歳月が流れているはずなのに、ニーナはあの頃と少しも変わっていなかった。
肌の張りも、少し眠たげな瞳の輝きも、時の流れを拒絶したかのように若いままなのだ。
まるで彼女の周りだけ、時間が完全に止まっているかのようだった。
(……いや、まさかな。単に面影が似ているだけの別人か、あるいは俺の記憶が書き換わっているだけか?)
あまりの変わらなさに、俺は自分の記憶違いを疑い始めた。
声変わりもして体格も変わった俺とは対照的に、彼女はあまりにもあの日のまますぎる。
だが、その少し眠たげな目元も、事務的ながらもどこか温かみのある物腰も、俺の記憶にあるニーナそのものだった。
「どうかしましたか? お客さま」
ニーナは俺の驚愕など露ほども気づかない様子で、事務的な微笑を浮かべている。
だが、帽子の影にある俺の顔をじっと見つめていた彼女の瞳が、ふいに焦点を合わせた。
「……あら。もしかして、クライドさん? あの時の『究極の万能暗殺具』の持ち主さんかしら。懐かしいわね、随分と立派な体格になったのね」
彼女は、俺を見るなり即座に思い出したのだ。
驚異的な記憶力というべきか。
十数年の歳月を隔て、声も体つきも様変わりしたはずの俺のわずかな顔立ちから、あのスプーンを託した少年の面影を瞬時に手繰り寄せたのだ。
「……ああ。おかげさまで、あれが俺の『唯一の友』になったよ」
俺は喉の奥で皮肉を噛み殺しながら、掠れた声を出した。
十数年、あのふざけたスプーン一本で血の泥を啜ってきた日々を思い、口の端をわずかに歪める。
俺の含みのある言葉をどう受け取ったのか、ニーナはただ穏やかに目を細めた。
そして、俺がまだ何も口にしていないというのに、すべてを察したように書類を片付け始めた。
「その様子だと、例のパーティーに用事があるみたいね。ちょうど今、奥の応接室で待っているわよ。案内するわね」
俺がここに来た目的まで見透かしたような彼女の言葉に、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
時を忘れた受付嬢に導かれ、俺は再び「冒険者」という光の下へと足を踏み出すことになるのだろうか。




