第28話 入学
数日の待ち時間は、S級冒険者として最前線の死地を彷徨っていた頃の、いつ命を落としてもおかしくない張り詰めた時間よりも長く感じられた。
その停滞した空気を破ったのは、ある朝のことだ。
いつものように重い身体を起こし、一日を始める準備をしていた俺の視界に、古びたドアの下から差し込まれた一通の封筒が入った。
王家を象徴する重厚な封筒。
アヤメの「王立魔法学院」への入学許可証だ。
「……おじさん、見て。本当に、合格したみたい」
震える手で封を切ったアヤメが、中身を俺に差し出した。
そこには、フランチェスカが予想していた通り、「特待生」の三文字が誇らしげに記されている。
学費は全額免除。
剣を振るい、魔法が飛び交う戦場こそが俺の日常であり、学び舎という静謐な空間は、俺の人生には無縁のものだと思っていた。
だが、この羊皮紙の通知にだけは、これ以上ないほどの価値を感じた。
命を懸けて潜り抜けてきた、どの戦場から持ち帰った報酬よりも、この一枚の紙の方がずっと重かった。
俺にとって、その場所はアヤメが行くべき光り輝く場所であって、俺が望むべき場所ではなかったからだ。
さらに数日が過ぎ、迎えた入学式の日。
国内最高峰、屈指の規模を誇る学院の門をくぐったが、式典そのものは驚くほどあっさりとしたものだった。
高くそびえる大理石の柱や、魔力を帯びたステンドグラスが作り出す荘厳な空間。
だが、そこで行われるのは形式を重んじる貴族主義の披露ではなく、合理と実利を尊ぶ魔法使いの巣窟らしい、極めて実務的な儀礼だった。
壇上の学長が述べた祝辞も短く、数分後には「本格的な勉強は明日からだ」と告げられ、あっけなく解散となった。
「おじさん、明日から本格的な授業が始まるよ。私、精一杯頑張るから」
真新しい制服に身を包んだアヤメが、少しだけ緊張を滲ませながら俺を見上げて言った。
その屈託のない呼び声を聞くたび、俺の胸の奥に澱んでいた、消し去れない戦いの記憶が少しずつ洗われていくような錯覚を覚えた。
だが、感慨に浸っている暇はない。明日から彼女はエリートの道を歩むが、俺は地を這う日雇いの毎日だ。
学院の特待生とはいえ、教材費や食費、そして何よりこの街で二人で暮らしていくための生活費は、俺が稼ぎ出さねばならない。
この町は、平和だ。あまりに平和すぎて、俺がこれまで培ってきたスキルを活用する機会など、微塵も存在しない。
かつてS級冒険者として人知れず強大な敵を屠ってきた男の力。
人並み以上の体力と、効率を極めた身のこなし。それは今、工事現場で重い石材を運び、誰よりも早く資材を積み上げるためにだけ費やされている。
現場の親方は、俺の素性など何も知らない。ただ「無口だが人一倍動くタフな男」として重宝している。
周囲の作業員たちが肩で息をしながら運ぶ巨大な花崗岩を、俺はただ黙々と、呼吸を乱すことなく運搬する。
誰にも気づかれない。俺が淡々とこなす作業の裏に、かつて敵の急所を確実に射抜くために研ぎ澄まされた身体操法が息づいていることなど、誰も想像だにしないだろう。
俺の武器は、懐に隠した一本の先割れスプーンだ。
かつてはそれ一つで重装騎士の喉笛を突き、あらゆる敵を排除してきた。
その技術も、今では現場の休憩時間に支給される、具の少ない薄いスープを啜るためだけの道具に成り下がっている。
冒険者ギルドへ足を運ぶことは、もう二度とないだろう。
酒場を埋め尽くす血気盛んな若い冒険者たちの喧騒も、功名を競い合う無意味な虚飾も、今の俺には遠い世界の出来事だ。
英雄と呼ばれた過去も、S級という称号も、今の俺には何の価値もない。
俺の存在は、この平和な街の風景に溶けて消えるのが一番正しいのだ。
夕暮れ、空が赤紫に染まる頃、泥と汗にまみれた身体でアパートへ帰る。
階段の軋む音を聞きつけ、アヤメが玄関まで迎えに来てくれた。
「おかえりなさい、おじさん。あ、また手が汚れてる。すぐにお湯沸かすね」
そう言って笑う彼女の日常を守れるなら、俺は一生、無能な労働者で構わない。
かつて戦いの中で汚し続けてきたこの手は、今では毎日、洗っても落ちない土汚れにまみれている。
だが、この汚れは俺にとっての誇りですらあった。
S級冒険者として「死」を振りまいてきた手は、今、一人の少女を育てる「生」を支える手に変わったのだ。
たとえ、世界を驚かせたあの技術が錆び付き、いつか完全に消えてしまおうとも。
俺は名もなき労働者として、この先割れスプーンで泥水を啜りながら生きていくことに、一点の悔いもなかった。
翌朝、学院へと向かうアヤメを見送る俺の目は、かつて最前線の死地で敵のわずかな動悸すら捉えていた頃よりも、ずっと鋭敏になっていた。
真新しい制服を揺らし、期待と緊張が入り混じった足取りで大通りへ向かうアヤメの背中。
その後ろ姿をそっと視線で追っていると、朝の活気に満ちた雑踏の中に、明らかに周囲から浮いた「異物」が混じっていることに気づいた。
立ち並ぶ露店の影、あるいは建物の角。
そこに潜むのは、少女の門出を祝うような温かな視線ではない。
獲物の隙を伺うような、粘りつく悪意を孕んだ視線だ。
俺は一度足を止め、アヤメが角を曲がって学院へと続く人混みに完全に紛れたのを確認した。
それから、気配を殺してその「視線」の主の後をつけた。
相手は三人。
男たちはアヤメが学院の重厚な正門をくぐるのを遠巻きに見届けると、満足げに頷き合い、近くにある薄暗い廃屋へと入り込んでいった。
俺は呼吸を整え、腐った木材の隙間からその様子を窺った。
「……あの特待生のガキ、間違いねえな。いい制服着やがって。昨日からずっと目をつけてたんだ」
聞き覚えのある、下卑た声が響いた。
アパートに住み始めた際、俺たちの部屋に勝手に入り込み、住み着こうとしていたあの男だ。
アヤメが正体不明の魔法を放った際、男はそれを彼女の術だとは露ほども思わず、不気味な幻覚でも見たのだと思い込もうとしていた。
だが、その時に味わった底知れぬ恐怖は消えず、男は俺たちに叩き出された屈辱を逆恨みに変えて仲間を募ってきたらしい。
「あの短すぎるスカートを見てみろよ。あんな無防備な格好で歩き回りやがって」
男は鼻を鳴らし、アヤメの幼い脚線を目で追っていた時の嫌な手つきを再現するように指を動かした。
「金になりそうだし、何よりあのツラだ。攫って、徹底的に可愛がってやるよ」
リーダー格の男が、歪んだ欲望を隠そうともせずに言い放つ。
その言葉に応じて、背後に控えていた残りの二人が、獲物を前にした獣のような陰湿な笑みを浮かべた。
「いいな。ボロ雑巾みたいに使い潰して、飽きたらどこか遠くへ売り飛ばしてやりゃいい」
仲間の下卑た追従に、男が喉を鳴らして笑う。
「ああ。あの時、わけのわからねえ幻覚で俺を怯えさせた恨み、たっぷり晴らしてやるよ」
彼らは笑いながら、アヤメの尊厳を無惨に踏みにじる計画を詳細に語り合っていた。
アヤメを単なる「使い潰すための道具」としてしか見ていないその汚らわしい言葉が、俺の中で静かに、だが決定的な拒絶反応を引き起こした。
それは、平穏という名の薄氷を土足で踏み荒らされることへの、逃れようのない殺意だった。
俺は、廃屋の入口に音もなく立ち、埃っぽい空気を揺らすように軽やかに声をかけた。
「――お忙しいところ、失礼いたします」
慇懃に首を傾け、穏やかな笑みを浮かべて会釈をする。
泥汚れの作業着に身を包んだ場違いな男の登場に、廃屋の中の談笑が凍りついたように止まった。
「な、なんだ、お前……。あの時の、ガキと一緒にいた野郎か?」
住み着こうとしていた男が、引きつった顔でナイフを抜く。
土汚れにまみれた今の俺が、どんな仕事で食い繋いでいるかなど、こいつは知る由もない。
「ご挨拶が遅れましたね。本日は、皆様のその下劣な夢を終わらせに参りました」
俺は何も答えない。ただ、懐から一本の先割れスプーンを取り出した。
「ははっ! なんだその安物は。スープでも配りに来たのか?」
笑い声が路地に響き渡る前に、俺の身体はすでに「静」から「動」へと転じていた。
踏み込みの衝撃音すら殺した一歩。
男の視界から俺の姿が掻き消えた次の瞬間、懐の先割れスプーンが銀色の閃光となって走る。
安っぽい金属の先端は、まるで熱したナイフでバターを断つように、一歩前に出ていた男の喉笛へと吸い込まれた。
「ガ、……ッ」
声にならない音が漏れる。
喉の軟骨を粉砕し、頸動脈を正確に捉えたスプーンを引き抜くと、鮮血が噴水のように壁を汚した。
俺は崩れ落ちる男の身体を、隣の仲間への盾にするように無造作に蹴り飛ばす。
「ひっ、……あ、ああ!」
怯んだ二人目の男が、震える手で腰の短剣に手をかけようとする。
だが、その動作はあまりに緩慢だった。
俺は一呼吸で距離を詰め、スプーンの柄を逆手に持ち替える。
上から叩きつけるような一撃が、男の眼窩を深く穿ち、眼球ごと脳漿を掻き回した。
男は白目を剥き、神経を寸断された操り人形のようにその場に頽れた。
「待っ、待ってくれ! 悪かった、俺たちはただ……!」
最後の一人、俺たちへの逆恨みの果てに今日まで生き延びてしまったあの男が、腰を抜かしながら後退る。
俺は言葉を待たない。
謝罪も後悔も、アヤメに向けたあの下劣な想像への免罪符にはなり得ない。
俺は男の胸ぐらを引き寄せると、逃げようとするその心臓の位置を指先で確認した。
肋骨の隙間。
そこへ、スープを啜るための食器を、全身のバネを込めて真っ直ぐに突き立てた。
鈍い感触と共に、金属が心臓の鼓動を止める。
男は大きく口を明け、音の出ない絶叫を上げながら、ゆっくりと生の光を失っていった。
S級冒険者として幾千の死線を越えてきた技術。
それが、路地裏の害虫を駆除するためだけに解放される。
数分後、廃屋には重苦しい静寂が戻った。
俺は血の付いたスプーンを、男の死体に着いていたボロ布で無造作に拭い、再び懐に収めた。
血の臭いを背後に残し、俺はそのまま工事現場へと向かう。
夕暮れになれば、またアヤメが笑顔で帰ってくる。
その日常に、今日のような泥濘が混じる必要はない。
俺は一生、ただの無能な労働者でいい。
懐のスプーンに残った命の感触を、今日のうちに完全に忘れることさえできれば。




