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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第27話 不法占拠者

 王立魔法学院の重厚な石造りの門を背に、アヤメは白く細い指先を組み、ふう、と深く長い溜息を吐き出した。

 緊張の糸が切れたその横顔には、まだ試験の熱気が微かに残っている。

「本当にお疲れ様、アヤメ。手応えはどうだった?」

 門の外で待っていたフランチェスカが、労うように声をかけた。

 アヤメは視線を落とし、迷うように口を微かに開いた。


「……全力は、出したわ」


 彼女は言葉を続けるのをためらうように、一度視線を泳がせた。

 試験中、彼女はただひたすらに、自分の中でもてあましている得体の知れない魔力と向き合うだけで精一杯だった。

 魔力を鍛える訓練など一度もしたことがない彼女にとって、それは御しがたい濁流のようなものだ。

 他の受験者の様子を伺う余裕など一秒もなく、誰とも言葉を交わしていない。


「でも……周りのレベル、わからなくて。自信はない。私、ちゃんとできてたかな」


 自分の力が人より優れているのか、それとも劣っているのか。

 客観的に自分を見る術を持たない彼女は、ただ暗闇を歩くような不安の中にいた。

 そんな彼女の短い呟きに対し、フランチェスカは不敵に、自信満々に笑ってみせた。


「何言ってるの。あんたが生まれ持ったその魔力の質、私が見誤るとでも思ってる?」


 正体こそ謎に包まれているが、彼女の言葉にはいつも不思議な説得力がある。

 フランチェスカはアヤメの細い肩に手を置くと、さらに力強く言葉を継いだ。


「その辺の有象無象に負けるはずがないわ。断言してあげる、あんたの合格は確実よ。私が保証するわ」


 その太鼓判に、アヤメはただ「……そう」とだけ短く応じた。

 強張っていた肩がようやく解けたようだが、本人はまだ、自分の力が特別だという実感が湧かないようだ。



 それから数時間後、空が茜色に染まり始めた夕暮れ時のことだ。

 これまで居候させてもらっていたフランチェスカの家を出た俺たちは、これからの王都生活の拠点となる新しく借りた住まいへと足を向けた。

 俺は自分の荷物をまとめ、それを背負って歩く。

 向かったのは王都の北端、石畳が少し欠け、街灯の灯りも届きにくい裏路地の先にある安アパートだ。

 お世辞にも綺麗とは言えないが、蓄えの少ない今の俺たちにとっては、運良く見つけることができた貴重な城だった。

 だが、夕闇が迫るその「城」の前に辿り着いたとき、俺の背筋せすじに奇妙な違和感が走った。

 大家が「鍵は開けっぱなしにしておく」と言っていた通り、部屋の扉は最初から僅かに開いていた。

 しかし、まだ俺が荷物を運び込む前の空っぽのはずの部屋から、あってはならない微かな生活音が漏れ聞こえてくる。

 木靴が床を叩く音、それから重い衣擦れの音――。


「……誰か、いるのか?」


 俺が慎重に扉を押し開けると、部屋の中に充満していた安酒の鼻を突く臭いが溢れ出してきた。

 そこには、見知らぬ大男がいた。

 薄汚れた外套を纏い、備え付けの粗末なベッドに、まるで自分の家であるかのように悠々と寝転んでいる。


「誰だ、お前は。ここは俺たちが契約した部屋だぞ」


 俺の鋭い問いかけに、男は面倒くさそうに片目を開け、ひどく濁った視線をこちらに向けた。


「あぁ? ……せっかくいい気分で寝てたんだ。さっさと閉めてどっか行け。ここはもう俺がもらったんだよ」


 話が通じる相手ではない。俺は一旦部屋を出て、一階の管理室にいる大家の老婆を呼び止めた。


「お婆さん、あそこに知らない男が居座っている。追い出してくれ」


 しかし、老婆は心底面倒そうに、しわくちゃの顔を歪めた。


「あぁ? 男だか何だか知らないよ。そんなの勝手に上がり込んできたんだろうさ」


 老婆はそう吐き捨てると、さらに顔のしわを深くした。

「あんたたち、鍵は開けっぱなしにしておいてやっただろ? あとは自分でどうにかしておくれよ。それで終わりだ」

 突き放すような言葉に俺が絶句していると、彼女は背を向けた。


「こっちは年寄りなんだ。これ以上、厄介事に関わらせないでおくれ」


 老婆は不法占拠者のことなど露ほども知らず、丸投げして奥へ引っ込んでしまった。

 無責任な言い草に呆れ果てながら、俺は再び階段を上り、部屋へと戻った。

 アヤメは不安の色を隠せず、俺のシャツの裾をぎゅっと掴んでいる。


「……おじさん、どうするの」


「大丈夫だ。俺が穏便に済ませてくる」


 俺は背負っていた荷物を一旦足元に置き、努めて冷静を保って再び男と対峙した。


「悪いが、この部屋の契約者は俺たちだ。今すぐ出て行ってくれるなら、不法侵入を咎めるつもりはない。さっさと立ち去ってくれ」


 男は鼻で笑い、巨体を揺らしながら起き上がった。その身長は俺より二回りはデカい。


「おいおい。この王都じゃあな、『座ったもん勝ち』なんだよ。文句があるなら魔法でも使ってみな」


 男はそう言って下卑た笑い声を上げると、じろりと背後に隠れるアヤメに視線を移した。


「それとも何か? 金がねえなら、その連れてるガキでも置いていくか。いい金になるぜ」


 男の濁った瞳が、アヤメを値踏みするように見つめる。

 隣でアヤメの指先が、怒りで微かに震えているのが分かった。

 俺は一歩前に出ると、感情を削ぎ落とした低い声で宣告した。


「……最後だ。出て行け」


 男は答えず、太い腕の拳を固め、威圧するように一歩踏み出した。

 誰がどう見ても、もはや言葉で解決できる段階ではない。

 だが、俺はそれでもなお、この場を平和的に――そう、目の前のこの男に傷一つ負わせることなく、静かに部屋から消えてくれるような穏便な解決策がないものかと、必死に思考を巡らせていた。

 これからアヤメが新しい生活を始める大切な家に、血の臭いなんてつけたくはなかったからだ。

 すると、アヤメがそっと俺の袖を引っ張った。

 言葉こそなかったが、俺のシャツを掴む彼女の小さな指先には、静かだが確固たる力がこもっていた。

 それは「これ以上、おじさんが言い争う必要はない」という彼女なりの意思表示のように思えた。

 俺は、怒りで熱くなりかけていた頭を一度冷やし、彼女の意を汲んで部屋の扉から数歩離れた。


「……けっ、最初からそうしてりゃいいんだよ。ガキ連れが偉そうに抜かしやがって」


 俺たちが引き下がったのを見て、男は勝ち誇ったように下卑た鼻笑いを浮かべた。

 そして乱暴な手つきでドアを掴むと、叩きつけるようにして閉めた。

 内側からガチャンと重苦しい鍵の音が響き、廊下には俺とアヤメ、そして足元に置いた俺の荷物だけが取り残された。

 アヤメは無言のまま、閉じられたその無機質なドアに向かって、ゆっくりと白く細い手をかざした。

 魔法学院の試験で彼女が向き合っていた、あの得体の知れない膨大な魔力が、彼女の掌に集まっていくような予感がした。

 だが、呪文を唱えるわけでも、複雑な魔法陣が空中に描かれるわけでもない。

 ただ、ドアの向こう側で、世界の密度がひどく重く、冷たく歪んだような、胃の奥がせり上がるような違和感だけが廊下に伝わってきた。

 数十秒ほどの、心臓の鼓動が耳に響くような奇妙な静寂。

 直後、それを切り裂くような凄まじい絶叫が、厚い木の扉を突き抜けて響き渡った。


「ぎゃあああああああああッ!? な、なんだ、なんなんだこれはぁ! くるな、こっちに来るなあああッ!」


 部屋の中からは、ガタガタと家具が激しく倒れる音や、何かに必死に抗い、のたうち回るような狂乱した物音が聞こえてくる。

 やがて内側から鍵が壊れんばかりの勢いで回される音がしたかと思うと、ドアが勢いよく弾け飛ぶように開いた。


「ひいぃっ、助けてくれ、許してくれぇっ!」


 飛び出してきた男の顔は、血の気が完全に引き、幽霊でも見たかのように真っ白に引きつっていた。

 男は俺たちの存在に気づく余裕すらなく、腰を抜かさんばかりの勢いで廊下を駆け抜け、階段を転げ落ちるようにして夜の街へと逃げ去っていった。

 俺は思わず、開いたままのドアから身を乗り出し、男が消えていった暗い廊下の先を見つめた。

 あそこまで怯えるなんて、一体部屋の中で何が起きたんだ?

 あの男、あのまま狂っちまうか、ショックでどこかで野垂れ死にしたりしないだろうな……。

 自業自得とはいえ、あんな尋常じゃない逃げ方を見せられると、気にするなという方が無理だった。

 それと同時にもう一つ、嫌な予感が頭をよぎる。

 もしあいつが正気を取り戻したとき、逆恨みをして仲間を連れて仕返しに来たりはしないだろうか。

 これからアヤメが学院に通うための大事な拠点なんだ。余計な火種は残したくないのだが……。

 廊下には、再び静寂が戻った。


「……アヤメ、今、何を……?」


 俺が呆然として問いかけると、アヤメはかざしていた手をゆっくりと下ろし、不思議そうに自分の掌をじっと見つめた。


「……わからない。ただ、出ていってほしかったの。おじさんの邪魔、嫌だから」


 彼女の内に眠る、御しがたいほどに強大な魔力が、彼女の願いに応えて無意識に漏れ出たのだろうか。

 あるいは、男の精神の奥底に直接、抗いがたい悪夢のような恐怖を植え付けたのか。

 その正体は、魔術の素養がない俺はもちろん、術者であるアヤメ本人にも全く分からなかった。

 静まり返った室内に入ると、そこには鼻を突く安酒の臭いと、長い間放置されていたような埃が積もっていた。

 俺は大きく溜息をつき、足元に置いていた荷物を部屋の中へと運び入れた。


「さて、アヤメ。誰にも邪魔されない俺たちの『城』だ。まずはこの汚れを全部拭い去って、今日からここで暮らそう」


「……うん」


 アヤメは短く頷くと、フランチェスカの家から持ってきた荷物の中から、雑巾にするための古布を取り出した。

 俺たちは協力して不法占拠者が残した不潔な痕跡を拭い去り、散乱したゴミを一つ一つ丁寧に片付けていった。

 俺が重い家具を動かして床を磨き、アヤメが棚の埃を払う。

 自分たちの使いやすいように荷物を配置し終える頃には、夜も更け、窓の外には銀色の月が昇っていた。

 壁も薄く、お世辞にも立派とは言えない狭い安アパートの一室。

 けれど、自分たちの手で取り戻し、磨き上げたこの場所が、今日から俺たちの新しい生活の拠点になるのだ。

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