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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第26話 試験

 試験当日の朝。

 アヤメは昨日、あの古びた仕立て屋で作ってもらったばかりの、ミントグリーンのセットアップに身を包んでいた。

 若葉のように瑞々しい色彩は、彼女の透き通るような青い髪と驚くほど見事に調和している。

 鏡の中の彼女は、どこか神秘的な気品さえ漂わせていた。

 しかし、本人の心境はそれどころではなかった。

 慣れない装いを何度も手で整えながら、アヤメの表情には拭いきれない不安が深く張り付いていた。


「……フランチェスカさん、わたし、魔法の使いかた……まだ、何もわからないの……」


 屋敷を出て、静まり返った王都の石畳を学院へと向かう道すがら、アヤメは消え入りそうな声で胸の内を吐露した。

 それは無理もない話だった。

 彼女の体内に歴史を塗り替えるほどの膨大な魔力が眠っていることは事実だが、それを「魔法」という術の形に編み上げる訓練など、一度も受けたことがないのだから。

 そんな少女の怯えを、隣を歩くフランチェスカは事もなげに笑い飛ばした。


「あら、そんなこと今から心配してどうするの?」


 フランチェスカは歩調を緩めることなく、自信に満ちた口調で続ける。


「魔法の正しい使いかたなんて、学院に入学してから習うことなんですもの。嫌というほどたっぷりと教え込まれるわ」


「でも……」


「今日の試験で試されるのは技術じゃないの。あなたが持っている『器』の大きさと、魔力の純度だけよ」


 それでも不安げに俯く少女の肩に、彼女は優しく手を置いた。


「だから心配しなくても、ありのままでいればいいのよ」


 フランチェスカは歩きながら、少々の、けれど確かな助言を付け加えた。


「いい? 深呼吸をして、自分の中にある温かい塊を見つけなさい。それを無理に操ろうとせず、ただ指先から外の世界へそっと逃がしてあげる……そんなイメージを持つだけでいいわ」


「指先から、にがす……」


「そう。今のあなたに難しい理屈は必要ない。ただ、あなたの内側にあるものを信じることよ」


 俺はと言えば、結局アヤメの見送りには行かなかった。

 どうしても照れくささが勝ってしまったのもあるが、それ以上に、俺のような日陰を歩く男が学院の門前に立つことが、これから光の中へ進もうとする彼女の門出を汚すような気がしたからだ。

 俺はフランチェスカの屋敷に残り、誰もいない応接間でじっとしていた。

 明日からは昨日決めたボロアパートへ移るが、今日だけはここで彼女の帰りを待つつもりだ。

 広すぎる部屋で、窓から見える学院の時計塔を、落ち着かない気持ちでただじっと見つめ続けることしかできなかった。

 一方、学院の巨大な石造りの門の前でフランチェスカと別れたアヤメは、意を決して一人で試験会場の建物へと足を踏み入れた。

 案内された待機用の大部屋には、すでに三十人ほどの男女が詰めかけていた。

 重厚な静寂と、独特の緊張感が支配するその空間にアヤメが入った瞬間。

 室内の視線が一斉に、矢のように彼女へと注がれた。

 そこにいたのは、十五歳前後の少年少女から、中には三十歳近そうな、すでに各地で実績を積んできたであろう大人まで、実に多様な受験者たちだった。

 誰もがこれまで相応の研鑽を積み、自信と自負をその瞳に宿している。

 その中にあって、十歳のアヤメの存在はあまりにも異質であり、異様ですらあった。

 ミントグリーンの真新しい衣装を纏った、誰よりも小さく、幼い少女。


「……おい、あんな子供が本当に受験者なのか?」


「何かの間違いじゃないか。親とはぐれた迷子にしか見えないが……」


 周囲から隠そうともせず漏れ聞こえる囁き声と、突き刺さるような好奇と不信の視線。

 アヤメは思わず足がすくみ、震える小さな手でセットアップの裾をぎゅっと握りしめた。

 いつも守ってくれていた俺が側にいないという心細さと、圧倒的なまでの場違いな空気感。

 心臓の鼓動が、自分でも驚くほど大きく、速く、耳の奥までうるさいほどに響き渡っていた。



「アヤメ・ショーブ。前へ」


 静寂が支配する待機室に、感情の読み取れない無機質な呼び出しの声が響き渡った。

 その瞬間、アヤメはびくりと小さな肩を揺らし、無意識に両手の指を絡ませていた。

 周囲に座る、年上の受験生たちからの冷ややかな品定めするような視線が、鋭い矢となって彼女の背中に突き刺さる。

 彼女は震えそうになる膝を必死に抑え、深呼吸を一つすると、一人で重厚な石造りの扉の先へと足を踏み入れた。

 扉が背後で重々しく閉まると、そこは外の張り詰めた緊張感が嘘のように静まり返った、広大で殺風景な白い部屋だった。

 窓一つなく、壁も床も天井も、ただただ無機質で清潔な白一色に塗りつぶされている。

 色彩のないその空間は、どこか現実離れした奇妙な圧迫感をアヤメに抱かせた。

 部屋の中央には、腰ほどの高さがある円筒形の滑らかな石台が、ポツンと一つだけ置かれていた。

 その上には、一辺が三十センチほどの、混じりけのない透明な水晶で作られたピラミッドが鎮座している。

 光源はどこにも見当たらないというのに、部屋全体が不思議な淡い光に満たされ、水晶の角が鋭い煌めきを放っていた。

 アヤメがどうすればいいか分からず、心細さに立ち尽くしていると、天井のどこからともなく、低く落ち着いたトーンの声が降ってきた。


「そのピラミッドに、手をかざしなさい。あなたの内側にあるものを、そこに注ぐイメージで」


 アヤメは乾いた喉を鳴らして唾を飲み込み、道すがらフランチェスカに言われた「指先から温かいものをそっと逃がしてあげるイメージ」を必死に脳裏に描いた。

 震える指先を、冷ややかな水晶の頂点に向かって、数ミリずつ慎重に伸ばしていく。

 手がピラミッドの数センチ上まで近づき、互いの境界が曖昧になった、その時だった。

 カッ、と視界が真っ白に染まるほどの、強烈な閃光が水晶の内部から爆発するように弾けた。

 部屋全体の白さを塗りつぶすほどの凄まじい輝きに、アヤメは思わず声を漏らして顔を背けた。

 だが、その光は瞬きするほどの間に収まり、ピラミッドは再び何事もなかったかのように、静かな透明の姿へと戻っていた。

 それは、彼女の体内に深く眠る、本人さえ自覚していない膨大な魔力が、水晶という精密な測定器に触れた瞬間の過剰な反応だった。


(……いまの、なに……? わたし、なにかいけないことをしたのかな……)


 呆然と立ち尽くすアヤメに、先ほどの声がさらなる試練を告げる。その声は、心なしか先ほどよりも僅かに緊張を含んでいるように聞こえた。


「では、次は……そのピラミッドを、浮かせてみなさい」


 アヤメは驚きのあまり、弾かれたように目を見開いた。

 物を浮かすなんて、これまでの人生で一度もやったことがない。

 そもそも、魔法の使いかたなどフランチェスカからの断片的な助言以外に何も教わっていない自分に、そんな不可能なことができるはずがないのだ。


「……でき、ない……です……。やりかたが、わかりません……」


 小さな震える声でこぼしたが、声の主は沈黙を保ったままだった。

 ただ、その濃密な沈黙そのものが「それでもやれ」と、逃げ場のない命令を突きつけていた。

 アヤメは逃げ出したい気持ちを堪え、まぶたを閉じた。

 こんな時、いつも隣にはクライドがいた。

 隣の国からの慣れない旅の道中、不安で押しつぶされそうになるたびに、アヤメは前を歩く彼の広く、頼もしい背中をじっと見つめて勇気をもらっていたのだ。


(大丈夫……クライドおじさんと一緒の時みたいに、しっかりしなきゃ)


 アヤメは心の中でクライドを想い、あの旅路で感じていたひたむきな信頼と、無事を祈るような真っ直ぐな想いを、指先へと集中させた。

 「浮いて」と命じるのではなく、彼の背中に守られている時の温かな安心感を、ピラミッドの底に柔らかな風として送り込むような感覚で。


「……あ」


 ピラミッドの底辺が、石台の表面からわずかに、本当にわずかに離れた。

 数ミリ、あるいは数センチ。

 ずっしりと重たいはずの水晶の塊は、アヤメの意識の波と繋がったかのように、ゆらゆらと不安定に空中に漂い始めた。

 アヤメは息を止め、必死にその壊れ物のような不思議な感覚を、指先を通して繋ぎ止めようとした。

 数秒の後、水晶は重力に従ってカタンと静かな音を立て、元の場所へと戻った。

 ほんの一瞬の出来事だったが、魔法の基礎すら学んでいない十歳の少女が、独力で「浮遊」を成功させたという事実は、魔導の歴史に数えるほどしか例のない、驚嘆に値する出来事だった。


「……試験の第一段階は、これで終了です。一度控え室に戻り、次の指示があるまで待機しなさい」


 声は先ほどよりも明らかに震え、隠しきれない驚きと興奮を孕んでいた。

 アヤメは自分の胸に手を当て、服の上からでもわかるほど激しく打つ鼓動を確かめる。

 魔法なんて知らないはずなのに、指先にはまだ、ピラミッドを空中に支えていたあの熱く不思議な感触が、いつまでも消えずに残っていた。



 アヤメが案内されたのは、闘技場と呼ばれる円形の巨大な空間だった。

 すり鉢状になった客席の最前列には、数人の試験官たちが厳しい表情で並び、手元の書類にせわしなくペンを走らせている。

 その冷徹な眼差しが、会場の中央に立つ小さな少女へと注がれた。

 二人の手には、試験用の魔法の杖が貸与されていた。

 それは装飾のない無機質な木棒だったが、魔力を流せば強大な術を発動できる代物だ。


「第二段階は、魔導の実践。受験生同士による一対一の模擬戦を行う」


 朗々としたアナウンスが広大な空間に反響する。


「なお、魔法の行使方法に制限はない。どのような術を、どのように組み合わせて使おうと、それは個人の自由とする」


 この自由こそが、術者の発想力と魔力の根源を試す王立魔法学院の伝統だった。

 アヤメの対面に立ったのは、三十歳前後と思われる神経質そうな男だった。

 彼は、自分よりも二回り以上も小さなアヤメを視界に入れると、あからさまに不快感を露わにした。


「……おい、正気か? 控え室の迷い子が紛れ込んだわけじゃないんだろうな」


 男は整えられた前髪を苛立たしげに弄りながら、鼻で笑った。

 彼はわざとらしくため息をつき、手にした魔法の杖で地面を苛ついたように叩く。

 その眼差しには、同じ試験会場に立っていることさえ自分への侮辱であると言いたげな、濃厚な軽蔑が混じっていた。


「学問の最高府ともあろう場所が、ままごと遊びの赤子を私の対戦相手に選ぶとは。時間と魔力の無駄だ」


 男は薄笑いを浮かべながら、見下すようにアヤメを値踏みした。


「さっさと泣きながら親の元へ帰りなさい。それとも、魔法がどんなものかも分からず、杖をただの棒切れだとでも思っているのか?」


「……っ」


「いいかい、お嬢ちゃん。ここは子供の遊び場じゃない。私のような、人生を賭けて魔導を研鑽してきた者が競う場所なんだ」


 アヤメが緊張で震えているのを見て、彼はさらに冷酷な笑みを深めた。


「君のような素人に、私の指先一つ触れることすら叶わないと教えてあげよう」


「……始め!」


 合図と同時に、男が淀みのない動作で杖を振った。


烈風の弾丸(エア・バレット)!」


 放たれた不可視の衝撃が、逃げ遅れたアヤメの肩を鋭く掠めた。


「っ、……いた……っ!」


 アヤメはその場にうずくまり、激しい違和感に目を見開いた。

 その痛みは、転んで擦りむいた時のような肉体的な痛みとは全く異質のものだった。

 防護結界に守られているため、肌に傷一つついてはいない。

 だが、衝撃が体に触れた瞬間、神経を直接逆なでされるような嫌な感覚が全身を駆け抜けたのだ。

 魔力そのものが意識の内側を直接叩くような、魔導戦特有の鈍く、重い痛みがアヤメを襲う。

 男は「自由」というルールを存分に利用し、容赦なく追い打ちをかけた。


氷の散弾(アイス・ショット)!」


 続けざまに放たれた無数の氷の塊が、アヤメの足元や脇腹を次々と叩く。


「あうっ、……きゃ、……っ!」


 アヤメは防戦一方だった。

 必死に貸与された杖を振り回すが、正しい使い道を知らない彼女の動作はあまりに無力だった。

 男の魔法がかすめるたびに、あの嫌な痛みが体の芯を突き抜け、アヤメの平衡感覚を奪っていく。

 視界が火花の散るような衝撃でゆがみ、喉の奥が苦い感覚で満たされた。


「どうした、やはりただの迷子か! その程度の魔力でよくもこの場に立てたものだ!」


 男の嘲笑とともに、今度は燃え盛る火球がアヤメに迫る。

 熱風がミントグリーンの服を揺らし、アヤメは髪を乱しながら地面を転がった。

 膝を擦りむき、土埃にまみれ、それでも彼女は必死に杖を胸に抱きしめた。

 もう限界だった。

 呼吸は途切れ、肉体的な疲労よりも、精神を削り取る魔力の衝撃に心が折れそうになる。


(どうしよう……怖いよ……おじさん、助けて……)


 恐怖で震え、涙がこぼれそうになったその時。

 極限状態の彼女の意識に、先ほどの試験で感じたあの指先の熱い感触が、ふと鮮やかに蘇ってきた。


「いい、アヤメちゃん。自分の中にある温かいものを、外へ逃がしてあげるイメージよ」


 フランチェスカの言葉が、霧が晴れるように脳裏で再生される。

 アヤメは逃げるのをやめ、膝をついたまま、震えるまぶたを閉じて深く息を吸い込んだ。

 自分の中にある、あふれんばかりの膨大な魔力の奔流。

 それを、借りた杖の芯を通し、一点に集約させていく感覚。

 クライドおじさんと一緒にいた時の……あの、どんな時も守ってもらっていた時の絶対的な安心感と強さを、そのまま形にするように。


(おじさんと一緒にいた時の……あの温かさを……!)


 杖が、アヤメの猛烈な意志に呼応して、パチパチと青白い火花を散らし始めた。


「往生際が悪いな、これで終わりだ!」


 男がとどめを刺そうと、ひときわ巨大な雷撃を放とうとした、まさにその瞬間だった。


「……えいっ!」


 アヤメは魔法の正しい使い方も呪文も何も知らなかったが、ただ本能に身を任せて杖を正面に突き出した。

 そこから眩い純白の閃光が放たれた。

 それは男の放った魔法を正面から跡形もなく飲み込み、圧倒的な質量と熱量を持って彼を押し返した。


「な、なんだこの出力は……!? ぎゃあああ!」


 神経質そうな男は、自分の放った魔法の残滓ごと闘技場の端まで吹き飛ばされ、強固な防護結界に叩きつけられてそのまま気を失った。

 静寂が闘技場を包み込む。

 試験官たちは全員が総立ちになり、信じられないものを見る目で、杖を構え続ける十歳の少女を注視していた。

 魔法を学問的な理論ではなく感覚で理解し始めた天才が、ついにその片鱗を世界に現した瞬間だった。

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