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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第25話 新しい生活

「アヤメちゃんの入学試験だけど、二日後よ。忘れないでちょうだいね」


 フランチェスカが事もなげに告げたその言葉を聞いた瞬間、俺はあまりの衝撃に、座っていた椅子の背もたれに深く体重を預けたまま固まってしまった。

 隣の国からアヤメを連れて、ようやくこの王都へ辿り着いた。

 数々の困難を乗り越え、彼女の屋敷の大きな扉を潜り、ようやく一息つこうと椅子に腰を下ろしたのは、つい先ほどのことだ。

 体にはまだ長旅の汚れがこびりつき、泥のような疲れも癒えぬ間に突きつけられたあまりにも早すぎる通告に、俺は自分の耳を疑うしかなかった。

 混乱する頭でこれまでの道のりを振り返り、ある一つの事実に思い至る。

 逆算すれば、フランチェスカは俺たちが旅立つ前から、旅の日程を正確に把握していたのだ。

 そして、すべてがこの試験当日に間に合うように、計算ずくで俺にアヤメを連れて旅をさせていたことになる。


「……あんた、そこまで計算して俺を動かしてたのか。最初からこうなる予定だったってわけかよ」


「あら、効率が良い方がお互いのためでしょう? 予定は未定と言うけれど、結果的にこうして間に合ったのだから。アヤメちゃんも、長旅によく耐えてくれたわ。ねえ、そうでしょう?」


 不敵に、けれどどこまでも優雅に微笑むフランチェスカを前に、俺は驚きを通り越してただ呆れるしかなかった。

 この女の掌の上で踊らされていたのかと思うと、暗殺者としての矜持が少しばかり疼く。

 アヤメがこれから挑もうとしているのは、国中のエリートや名家の子弟が集う王立魔法学院だ。

 そこは、単に家柄が良いだけでは決して入ることは叶わない。

「特別な魔法の才能」を持つ者だけが入学を許される、この国で最も険しき門なのだ。

 本来、そこは相応の年齢に達し、しかるべき教育を修めた者だけが選別される厳格な場所だ。

 わずか十歳というアヤメの年齢での挑戦は、学院の長い歴史を紐解いても類を見ないほど若年であり、本来なら入学を検討されることすら異例中の異例なのだという。


「さて、そうと決まれば準備を整えなきゃね。あまり時間がないわ。おいで、アヤメちゃん」


 フランチェスカが、まるで実の姉のように優しくアヤメの手を引こうとする。

 到着してようやく腰を下ろしたばかりの俺は、その光景を眩しすぎるものを見るような目で見届けながら、静かに、誰にも気づかれないように椅子を引いて一歩、後ろへ下がった。


「アヤメ。俺の役目はここまでだ。これからはフランチェスカの言うことをよく聞いて、立派な魔法使いになるんだぞ」


 突き放すような俺の言葉に、アヤメがびくりと小さな肩を揺らした。

 俺はしがないF級暗殺者だ。

 日の当たらない路地裏を歩き、汚れ仕事を引き受けてはその日暮らしの銭を稼ぐ、根無し草の男に過ぎない。

 そんな男が側にいれば、輝かしい未来を歩もうとする彼女にとって、いつか必ず拭い去れない足枷になる。

 王立の学校という、家柄や名声が重んじられる場所ならなおさらだ。

 だが、アヤメは俺の予想に反して、その場に釘付けになったように立ち尽した。


「……っ、……やだ……行かないで……」


 それは、風が吹けば消えてしまいそうなほど、細く切ない声だった。

 アヤメの大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まり、やがて大粒の雫となってぼろぼろと溢れ出していく。

 彼女は俺の服の裾を、指が白くなるほど強い力でぎゅっと握りしめ、俯いたまま小さく、けれど必死に首を振る。

 言葉にならない拒絶の意志が、その細い指先を通して、痛いほど俺の心臓に伝わってきた。

 正直に言えば、俺だって離れたくない。

 この旅の間、彼女を守り抜くことだけが俺のすべてだった。

 だが、俺には暗殺という人殺しの技術以外に、これといって誇れる能がない。

 まともな職に就ける保証もなく、ましてや王立学院の莫大な学費なんて代物を、日銭を稼ぐのが精一杯の暗殺者が工面できるはずもなかったのだ。

 いつまでもフランチェスカの好意に甘え、彼女に頼り切るのも気が引ける。

 これは俺の勝手な意地なのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせ、アヤメの手を優しく、けれど断固として解こうとした時。

 見かねた様子のフランチェスカが、大きなため息を吐きながら口を開いた。


「相変わらず、あなたは心配性というか……言葉を選ばずに言えば、救いようのない世間知らずね」


「……何だと? 俺は現実的な話をしてい……」


「いいから、アヤメちゃんの魔力素質を見てから言いなさいな。あの学院の連中が、これほどの逸材を金銭ごときという些細な理由で手放すと思うかしら?」


 フランチェスカは一度言葉を切ると、楽しげに目を細めた。


「おそらく試験さえ終われば、彼らの方から頭を下げてくるわよ。『特待生として、学費は全額免除にするから入学してくれ』ってね。彼女の才能を考えれば、それは当然の権利なの。ねえ、アヤメちゃん?」


 フランチェスカは俺の顔を覗き込み、意地悪く、けれどその奥に慈しむような光を宿して笑った。


「つまりね、あなたが勝手に背負い込んでいる『責任』なんて、最初からアヤメちゃんの類まれなる才能が解決してしまっているのよ」


「…………」


「だから、そんな情けない顔をして、この子を泣かせるのはおやめなさいな。見ていてこっちまで切なくなるわ」


 涙で顔を濡らしたアヤメが、捨てられた仔猫のような、すがるような眼差しでじっと俺を見上げてくる。

 俺は降参だとばかりに、深く天を仰いだ。

 どうやら、この底知れない力を持った天才少女と、食えない富豪の女の手のひらの上から逃げ出すには、俺の力不足のようだ。自由になれる日は、まだ当分先になりそうだった。


「……分かったよ。悪かった。試験が終わるまでは、ここにいる。約束だ」


 俺が折れると、アヤメは声を上げずに、ただ何度も、何度も力強く頷いた。

 そして、椅子に座る俺の汚れた旅装の腰のあたりに、顔を埋めるようにして強くしがみついてきた。



 明くる朝、俺はフランチェスカの屋敷の重厚な玄関をあとにし、一人で王都の喧騒へと繰り出した。

 アヤメを彼女に預け、いつまでもこの屋敷のふかふかのベッドに沈んでいるわけにはいかない。

 長くいた冒険者パーティーを離れ、単独の暗殺者として歩み始めてからまだ日は浅い。

 だが、だからこそ誰の指図も受けず、自分の力だけで生活の基盤を固めなければならないという焦燥感があった。

 誰かの施しを受け続けることは、己の生存本能を鈍らせ、刃を錆びつかせるような居心地の悪さを感じさせるものだった。


「まずは、自分たちの根城を決めないとな……」


 独り言をこぼしながら、俺は王立魔法学院の周辺を重点的に歩き回った。

 アヤメが試験を突破して通うことになれば、当然その近くに拠点を構えるのが最も効率的だ。

 だが、このあたりは将来有望な学生向けの小綺麗な下宿や、身分の高い貴族たちが住まう高級住宅街ばかりが並んでいる。

 俺のような、素性の知れない男が顔を隠して借りられるような物件は、そう簡単には見当たらなかった。

 数時間、足が棒になるまで歩き詰め、ようやく見つけたのは、華やかな大通りから数本裏に入った入り組んだ路地裏にある、今にも崩れそうな木造のアパートだった。

 外壁は煤け、階段を一段上がるたびに、まるで悲鳴のような不穏な軋み声を上げる。

 だが、三階の窓からは、学院の象徴である巨大な時計塔の先端が辛うじて見えた。


「……ここなら、暗殺の報酬で貯めた金でも手が届くか」


 大家だという、耳の遠い老婆を呼び出し、交渉を始める。

 手持ちの金とこれからの生活の見通しを立てると、大家は差し出した金貨の輝きに満足げに頷いた。


「いいよ、明日から好きにお使い。鍵は開けっぱなしにしておくから、勝手に入りな」


 拍子抜けするほど簡単に、明日からの住処が決まった。

 これで、フランチェスカにこれ以上の借りを作らずに済む。

 俺は肺の奥に溜まった重苦しい空気を、長く吐き出した。

 一方その頃、アヤメはフランチェスカに連れられ、王立魔法学院での手続きを終えて王都の目抜き通りを歩いていた。

 フランチェスカが向かったのは、大通りから一本入った場所にある、古びているが手入れの行き届いた、落ち着いた佇まいの仕立て屋だった。


「さあ、アヤメちゃん。あなたの新しい出発にふさわしい一着を選びましょうね」


 これまでアヤメが着ていたのは、丸襟の可愛らしい真っ白なブラウスに、膝丈のチェック柄のジャンパースカートだった。

 それもかつてフランチェスカが彼女に与えたもので、それ以外の持ち合わせといえば、一着きりのボロい服しかなかったのだ。

 しかし、そのお気に入りの一着も、隣の国からの長旅のせいで白かったブラウスは薄汚れ、スカートの裾には泥が跳ねていた。

 店内に足を踏み入れると、使い込まれた裁断台と、壁一面に並んだ上質な生地の香りが二人を包み込む。

 アヤメは慣れない店の空気に少し緊張し、フランチェスカの影に隠れるようにして立っていた。


「あら、そんなに緊張しなくて大丈夫よ」


 フランチェスカは屈み込んでアヤメと視線を合わせると、いたずらっぽく微笑んだ。

 彼女は店主と親しげに、けれど軽やかな口調で言葉を交わしながら、次々と生地のロールを広げさせていく。


「あまり華美すぎるのは彼女に似合わないわね……。そう、もっとこう、彼女の純粋さを引き立てるような……」


 フランチェスカの手が、棚に置かれた一反の生地で止まった。

 それは若葉のように鮮やかで瑞々しい、ミントグリーンの上質な布地だった。


「これよ。アヤメちゃんの美しい青い髪には、この色が一番映えるわ」


 フランチェスカはアヤメを鏡の前に立たせると、手際よく布を体に当てて見せた。

 鏡の中に映る自分を見たアヤメが、驚いたように目を丸くする。

 汚れの目立つ古い服の代わりに選ばれたのは、動きやすくも上品なミントグリーンのセットアップだった。


「どうかしら? 魔法を操る時に、裾が邪魔にならないような仕立てにしてもらうわね」


 アヤメは自分の肩に当てられた綺麗な色の布をそっと指先でなぞり、それから嬉そうに小さく頷いた。

 フランチェスカはそれを見て満足げに頷くと、さらに歩きやすい靴や、小さな魔石をあしらった髪飾りまで、アヤメの好みを尊重しながらさらりと見繕っていった。

 その日の夜、俺たちは再びフランチェスカの屋敷で合流し、最後の食卓を囲んだ。

 新しく仕立てられた服に身を包んだアヤメは、青い髪と緑の衣装が相まって、どこか神秘的な輝きを放っていた。

 だが、俺が明日から別のボロアパートで暮らすことを聞くと、不安そうに俺の袖を掴んだ。


「……明日、絶対頑張るから」


「ああ。お前なら大丈夫だ。しっかりやってこい」


 俺はアヤメの頭を、照れ隠しに無造作に撫でた。

 今夜が過ぎれば、ついに試験当日。

 アヤメの中に眠る、歴史を塗り替えるほどの「規格外の魔力」が、この高慢な王都で一体何を引き起こすのか。

 それが救いとなるか、あるいは破滅の引き金となるのか――その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。

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