第19話 狩り
ムステラ王国の街道は、乾いた砂埃と微かな草の匂いに包まれていた。
王都へと続くこの一本道は、日頃から商人の馬車や旅人が絶え間なく行き交う大動脈だが、今の俺たちにとっては、ただただ目的もなく続く長い苦行のように感じられた。
俺の数歩後ろを、アヤメが必死な足取りでついてくる。
彼女の小さな瞳は俺の背中だけを凝視しており、そこには不安と信頼が混ざり合ったような複雑な光が宿っていた。
一言も発さぬまま歩く彼女に対し、俺もまた、どんな言葉をかけるべきか分からずにいた。
闇に生き、死を運ぶことしか知らなかった俺にとって、この幼い少女との距離感は、どんな暗殺の任務よりも難解な問いだった。
ふと、街道沿いに生い茂る林の奥から、空気を切り裂くような異質な風の鳴る音が届いた。
――殺気。
長年、音もなく忍び寄り、一瞬で人の命を奪うことで研ぎ澄まされてきた俺の過敏な神経が、脳裏に鋭い警報を鳴らす。
俺は歩みを止めることすらせず、無造作に、かつ電光石火の速さで右手を横に振った。
バチンッ、という乾いた音と共に、木漏れ日を切り裂いてアヤメを狙った一本の矢を、掌で鋭く叩き落とす。
俺の反射速度をもってすれば、その程度は羽虫を追い払うのと同義だった。
軌道を強引に逸らされた矢は、アヤメの喉元に届く遥か手前で力なく地面へと転がり、砂埃を上げた。
「……え?」
何が起きたのか瞬時には理解できず、アヤメがその場に足を止める。
彼女の顔には困惑の色が広がっていた。
俺は彼女を背に庇うようにわずかに位置を変え、矢が放たれた林の縁を射抜くような鋭い視線で睨みつけた。
だが、茂みをかき分けて姿を現したのは、暗殺者の刺客でも、空腹に飢えた魔物でもなかった。
「はははっ! 今の見たか? あんな風に手で叩き落とすなんて、まるで曲芸じゃないか! 見事なもんだ!」
下卑た濁った笑い声を上げながら、林から悠然と姿を現したのは、金糸の刺繍がふんだんに施された贅沢な服を纏った若い男だった。
その傲慢な立ち居振る舞いからして、この辺りを領地とする貴族の放蕩息子か何かに違いない。
その傍らには、いかにも卑屈そうな笑みを顔に貼り付けた従者が、主人の予備の矢を抱えて控えていた。
「……何の真似だ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。
男は俺の怒りなど露知らず、ヘラヘラと笑いながら手に持った豪奢な装飾弓を弄んでいる。
「何って、単なる狩りだよ。鹿か兎でも出ないかと思ってな。まあ、お前たちがいたのは計算外だったが、なかなかいい余興になった。おい、今のをもう一回やってみせろよ。次は二本同時に射ってやるからさ。それとも、あのガキを的にした方がやる気が出るか?」
男の瞳には、俺たちを自分と同じ血の通った人間として見る色は微塵もなかった。
道端に転がる石ころを無造作に蹴飛ばすような、無邪気で、それゆえに救いようのない残酷な特権意識がそこにはあった。
俺の指先が、無意識に微かに震える。
証拠を残さず、音もなくこの二人の息の根を止めるなど、俺にとっては赤子の手をひねるより造作もない。
後腐れなく闇に葬り、死体すら残さぬ自信はある。
だが、背後で俺の服の裾を、細い指でぎゅっと握りしめるアヤメの震えが、ダイレクトに伝わってきた。
これ以上、この少女の清らかな視界の中で、無益な血を流し、死を見せる必要はない。
「……行こう、アヤメ。相手にする価値もない」
俺は男をゴミでも見るような一瞥で切り捨てると、アヤメの肩を促して再び王都へと歩き出した。
「おい、待ちやがれ! 無視するなよ! どこの馬の骨とも知れぬ者が、この私に背を向けるというのか!」
背後で男が顔を真っ赤にして喚き散らしているが、もはやどうでもよかった。
だが、もし次の一矢が放たれたなら――その時は、アヤメが瞬きをする一瞬の間に、この街道を永遠の静寂と、冷え切った血で満たす覚悟だけはできていた。
矢を持った男たちは、最後までこちらの反応を嘲笑うような、不快な高笑いを辺り一面に撒き散らしながら、森の奥深くへと消えていった。
静寂を取り戻した街道に、再び俺とアヤメの乾いた足音だけが、虚しく響き始める。
俺たちはしばらくの間、川の流れに沿って続く、ゆるやかな起伏の道を無言で歩き続けた。
前方の道端に、大きな背負い袋を傍らに置き、途方に暮れた様子で立ち尽くしている一人の老人の姿が見えた。
中身が詰まったその袋は、老人の細い体にはあまりにも不釣り合いな大きさだった。
休憩のために一度地面に下ろしたのだろうが、いざ出発しようとしても、老いた体ではそれを再び持ち上げることができず、弱り果てているようだった。
それを見たアヤメが、俺の顔色を伺うこともなく、迷いのない足取りで駆け寄っていった。
彼女は老人の側にそっと寄ると、細い腕と小さな体を目一杯に使って、重い荷物の底を懸命に支え上げる。
老人は驚いたように顔を上げたが、アヤメの無垢な手助けと純粋な好意に触れ、ようやくその重荷を背負い直すことができた。
老人は深い皺を刻んだ顔をいっぱいにほころばせ、震える声で何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうよ、優しいお嬢ちゃん。おかげで本当に助かったわい。あんたのような子が、この国の宝じゃよ」
老人は心からの感謝を言葉にし、足元を確かめるようにして、ゆっくりと俺たちの歩いてきた方向へ去っていった。
アヤメはその小さくなっていく背中を、穏やかな眼差しで見送った後、少し照れくさそうに俺の隣へと戻ってきた。
俺は何も言わず、ただ再び歩を進めることで、彼女を先へと促した。
それから一時間ほど歩いただろうか。
陽光はわずかに傾き、街道に沿う川は川幅が狭まり、ごうごうと低い音を立てて流れる速い場所へと差し掛かった。
そこで俺の視界に、周囲の美しい風景には到底そぐわない、異質な「塊」が飛び込んできた。
激しい川の流れに呑まれ、不規則に回転しながら流されてくるのは、つい先ほど別れたばかりの、あの老人の遺体だった。
「……っ!」
アヤメが小さく息を呑み、血の気が引いた顔で固まる。
俺は咄嗟に川縁まで駆け下りたが、ごうごうと唸りを上げる強い水勢が老人の体を無慈悲に押し流していく。
手を伸ばそうにも、遺体は荒々しい奔流に翻弄され、俺の指先が届くより早く下流へと連れ去られてしまった。
遺体とともに、中身が飛び出した老人の荷物の一部も、水面を跳ねるように虚しく流れていく。
アヤメが懸命に支え、老人が大事そうに背負い直したあの荷物が、今はただのゴミのように濁流に揉まれていた。
引き揚げることすら叶わなかったが、水面を通り過ぎていく老人の背中には、はっきりとその「証拠」が刻まれたままだった。
深々と突き刺さった、三枚の羽根がわざと不揃いに削られた、鮮やかな朱色の矢。
それは、先ほど街道で出会ったあの貴族の男が、遊び半分に弓に番えていたものと、寸分違わぬ同一の品だった。
アヤメの喉がヒュッと鳴り、声にならない震えが彼女の全身を支配していく。
その時、川上の林の向こうから、複数の馬が激しく地面を叩く蹄の音が聞こえてきた。
俺がアヤメを連れて物陰に身を潜めると、あの貴族の男たちが、何かに怯えるように、あるいは興奮を分かち合うように馬を急かし、先を急いで逃げ去っていくのが見えた。
俺の中で、点と線が完全に繋がった。
あの男たちは、最初から獲物の種類などどうでもよく、ただ動く標的を射抜く快感だけを求めていたのだ。
正面から俺たちに挑む度胸もなかった卑怯者どもは、自分たちに背を向けて歩き出した無防備な老人を、背後から狙撃して「狩り」を完遂させたに違いない。
俺にこれ以上の確証は必要なかった。
この世界で誰が奴を許そうと、俺が奴を「標的」と定めた事実に変わりはない。
俺はショックで立ち尽くすアヤメの肩を抱き寄せ、その無慈悲な光景から遠ざけるようにして、重い足取りで街道沿いにある近くの村へと向かった。
寂れた村の広場に辿り着くと、俺は道ゆく村人に、あの特徴的な服を着た男について、感情を押し殺して尋ねた。
一人の男は、その特徴を聞いただけで顔を歪め、忌々しそうに地面へ唾を吐き捨てた。
「ああ、またあの野郎か。この辺りを治めるダウランド伯爵家の四男坊、エドワードだ。親の権力を自分の実力だと勘違いしている、救いようのない馬鹿野郎だよ」
側にいた別の男が、声を潜めて付け加える。
「あいつがこの辺りに現れる時は、ろくなことがねえ。機嫌が悪ければ平民を馬車で跳ね飛ばし、機嫌が良ければ良いで、今度は村中を巻き込んで身勝手な騒ぎを起こしては、めちゃくちゃに荒らしていくんだ」
さらに、村人たちの間ではエドワードの家での立ち位置についても噂が広まっていた。
「聞いた話じゃ、あの四男坊は実の親からも疎まれて、半ば見捨てられているらしい。王都の屋敷には居場所がなくて、こうして地方の別邸に追いやられては、鬱憤を晴らすように暴れ回ってるんだとよ。全くとんでもない厄介払いだぜ」
村人たちはエドワードの傍若無人な振る舞いに憤ってはいたが、彼が「人間狩り」という狂気にまで手を染めていることまでは知らないようだった。
これまでも家畜を射るような悪戯はあったかもしれないが、実際に人を射抜いたのは今回が初めてだったのかもしれない。
逃げ去る時のあの慌てようは、一線を越えてしまったことへの、彼らなりの恐怖の裏返しだった可能性もある。
だが、理由が何であれ、奪われた命が戻ることはない。
俺の眼には、あの老人の背に突き刺さっていた、不揃いな朱色の矢羽根がはっきりと焼き付いている。
アヤメがその細い腕で、老人の再出発を助けたあの荷物が、濁流に消えていく光景も。
村人たちの言葉から、奴が繰り返してきた理不尽な悪行の数々と、周囲に渦巻く黒く深い怨嗟が、ありありと浮かび上がってくる。
エドワードという男は、特権という名の鎧を纏い、他者の痛みを想像することすら忘れた、空虚な怪物に過ぎない。
アヤメは俺の服の裾を、白くなるほど強く握りしめ、溢れ出そうになる涙を必死に堪えて震えていた。
その小さな手の震えが、俺の厚い革の服を通り抜けて、直接心臓を揺さぶる。
俺の胸の奥で、暗殺者としての冷徹な思考回路が、静かに、しかし暴力的なまでの熱を帯びて再起動していく。
この感情を怒りと呼ぶのか、それとも単なる義務感なのかは分からない。
ただ、誰もその罪を知らぬというのなら、俺のやり方で始末をつけるだけだ。
闇の中で息を潜め、喉笛を断つ。
それが俺にできる唯一の、最も確実な「解決」だ。
「……待っていろ。すぐに終わらせてやる」
俺は誰に届くともない低い声で呟き、不気味に暮れなずむ空を、冷え切った瞳で見上げた。
太陽が完全に沈み、闇が訪れる頃には、死神の指先が奴の襟元に届いているだろう。
村人から聞き出した、エドワードが滞在しているという別邸へと、俺は静かに足を向けた。
宿を出る際、俺はアヤメに対して特別な指示も、決別のような重い言葉も一切かけなかった。ただ、寝る前に少しばかり夜風に当たってくるとでも言うように、何の気負いもない、ごく自然な足取りで部屋の出口へと向かった。
アヤメは、俺がこれから何をしに行くのかを、その幼い感性で薄々わかっているようだった。彼女は「どこへ行くのか」とも「いつ戻るのか」とも聞かず、ただその大きな瞳で、俺の背中を射抜くようにじっと見つめていた。
そこには年相応の恐怖などは微塵もなく、むしろ、俺という男が背負っている「血塗られた本質」をすべて受け入れたかのような、静かで深い覚悟が宿っていた。俺もまた、彼女の澄んだ視線から逃げることなく、一度だけ小さく頷いて、夜の帳へと溶け込んでいった。
月明かりに照らされた街道を抜け、高台にそびえ立つ別邸へと近づく。その豪奢な建物は、つつましく生きる周囲の村の風景から傲慢に浮き上がっており、周囲には不自然なほどの静寂を纏わせていた。
別邸の警備は、拍子抜けするほどに杜撰なものだった。主であるエドワードの評判があまりに悪いためか、雇われている兵たちも士気が低く、持ち場を離れて酒の匂いを漂わせている。闇の中で生き、死を商売にしてきた俺にとって、この程度の屋敷の内部へ音もなく潜入することなど、呼吸を続けるよりも容易なことだった。
高い石壁を指先ひとつの力で軽々と跳躍し、二階のテラスから影のように滑り込む。足音を完全に消し、厚い絨毯の上を滑るようにして、邸宅の奥へと進んでいく。やがて、重厚な扉の向こうから、神経を逆撫でするような下卑た笑い声と、安酒を煽る音が漏れ聞こえてきた。
「……しかし、若様。やはり昼間に街道でしでかした老人の件、少しばかりマズかったのではありませんか」
聞き覚えのある、あの卑屈な従者の声が、震えを帯びて響いた。俺は扉のわずかな隙間に意識のすべてを集中させ、室内の様子を探る。
「何を怯えている。たかが平民の、先のない爺が一人死んだだけだ。家畜を的にして射るのと、何ら変わりはないだろう」
エドワードの声が返ってきた。昼間に街道で見せたあの過剰なまでの傲慢さは影を潜め、今は一線を越えてしまったことへの苛立ちを隠そうともせず、不機嫌そうに酒を注ぎ足している。
「ですが、万が一にでも、あの特徴的な矢羽根を見られでもしたら……」
「馬鹿め。同じ形状の矢が落ちていたからといって、それが直ちに私の犯罪である証拠になどなるものか。そもそも、証拠となる死体はあの急流に流されたのだ。誰にも、何も証明できんよ」
エドワードは鼻で笑い、革張りの椅子に深くその背を預けた。
「万が一、何かの間違いで罪に問われるような面倒な事態になっても、実家の親父に泣きつけば済む話だ」
奴は杯をあおり、不敵な笑みを浮かべる。
「あの親父は私の存在を疎んじてはいるが、伯爵家の名誉に傷がつくことだけは病的に嫌うからな」
「左様でございますか……」
「ああ。金で役人を揉み消すなり、目立つ証人を消すなり、あいつならいくらでもやりようはあるさ」
特権という名の、あまりにも厚顔無恥で醜悪な盾。彼らにとって、理不尽に奪われた老人の命も、アヤメが流した悲痛な涙も、その盾を揺らすことすら叶わない無力な小石に過ぎないらしい。
俺は懐から、使い古した金属の感触を確かめながら、愛用の先割れスプーンを取り出した。
暗殺者としての俺の矜持が込められたこの得物があれば、今の俺には十分すぎる。
俺は扉を蹴り開けるような野蛮な真似はせず、音もなく、まるですでにそこに存在していたかのような自然さで部屋の中心へ踏み込んだ。
「だ、誰だっ!」
ようやく俺の存在に気づいた従者が、悲鳴を上げながら腰の剣に手をかけようとする。だが、その動作が完遂されることは、永遠にない。
俺は一瞬で影のように距離を詰め、従者の喉仏の直下に、先割れスプーンの鋭い先端を迷いなく突き立てた。先端が柔らかな肉を貫通し、気管を無慈悲に破壊する。「ガハッ……」という短い湿った音と共に、従者は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「ひ、ひっ……お、お前は、昼間のあの男か!」
エドワードが顔を真っ白に変え、椅子から転げ落ちるようにして床を這った。彼は必死に喉を鳴らし、扉の外にいるはずの衛兵を呼ぼうと大きく口を開いた。
「助け――」
その声が夜の静寂を破るより早く、俺の指先から放たれたスプーンが、奴の開いた口内へと吸い込まれ、喉の奥深くへと突き刺さった。金属が容赦なく肉を裂き、脊髄のすぐ手前で止まる。
エドワードは喉をかきむしり、声にならない絶望を瞳に浮かべながら、床をのたうち回った。やがて、その手足から力が抜け、部屋には沈黙だけが戻ってきた。
俺は返り血を浴びることなく、スプーンの柄に残ったわずかな汚れを拭い去り、開いた窓際へ歩み寄った。証拠も、法も、そして実家の権力も。闇の中で死神に喉を貫かれるその瞬間には、何の一文の価値も持たない。
不気味に、そして平穏に静まり返った夜の帳の中、俺はアヤメが待つ宿屋へと、再び何事もなかったかのような足取りで、影を引いて戻っていった。




