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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第18話 誘拐犯

 巨大な鉄の門が重々しい地響きのような音を立てて開き、国境を隔てる境界線は、朝を待ちわびた旅人や商人たちの列で一気に膨れ上がった。

 俺とアヤメもその雑踏に紛れ、鉄の門の先にある通路へと一歩ずつ歩を進めていた。

 しかし、門の直前で誰かが兵士に詰め寄る声と、引き裂かれるような女の泣き叫ぶ声が響き渡った。

 異様な空気に足を止めた俺たちの視界に、人だかりの中心で取り乱す一組の男女が飛び込んできた。


「頼む、誰か娘を捜してくれ! マリーがいなくなったんだ! さっきまで、すぐ隣にいたんだ!」


 悲痛な叫び声を上げ、国境警備の兵士にしがみついているのは、昨日この町に入った際、アヤメがハンカチを届けてやったあの幸せそうな夫婦だった。

 父親は必死の形相で兵士の肩を掴んで揺さぶり、母親は崩れ落ちるように膝をついて、周囲の冷淡な視線も構わずに娘の名を呼び続けている。


「おい、離せ。通行の邪魔だ。迷子を捜すのは俺たちの仕事じゃない。他を当たれ」


 若い兵士は、心底面倒そうに父親の手を乱暴に振り払った。


「仕事じゃないだと? 誘拐されたかもしれないんだぞ! 門を閉めて不審な奴をすべて調べてくれ! お願いだ!」


「勝手なことを言うな。俺たちにそんな権限はないし、一人の子供のために国境を止めるわけにはいかない。列を乱すな、通行の邪魔だ」


 兵士は困り果てたというより、一刻も早くこの場を収めたいという事務的な体裁で、冷淡な拒絶を繰り返している。

 そのあまりに無機質なやり取りに、アヤメが小さな体を小刻みに震わせ、俺の服の裾を指が白くなるほどの力でぎゅっと握りしめた。


「ねえ……マリーちゃん、どうしたの? いなくなっちゃったの……?」


 不安げに、今にも泣き出しそうな瞳で見上げてくるアヤメ。

 彼女の脳裏には、昨日見たあの眩しいほどに温かな家族の笑顔が焼き付いているのだろう。

 俺は黙って彼女を自分の方へ引き寄せ、周囲からの視線を遮るように抱きかかえたが、頭の中では暗殺者としての冷徹な思考が、恐ろしいほどの速度で回転を始めていた。


(……やはり、誘拐か)


 昨日からこの町に漂っていた、あの獲物をねぶるような粘りつく視線。

 そして先ほど、裏路地でアヤメを躊躇なく攫おうとした男の、迷いのない鮮やかな手際。

 これらは決して単発の、突発的な犯行などではない。

 この宿場町の影に潜み、組織的に「狩り」を行っている連中がいる。

 そして、あの無垢な少女マリーもまた、その毒牙にかかってしまったのだ。


(あの男を、死なせる前にもっとよく調べておくべきだったな……)


 廃屋の埃っぽい床に転がしてきた、あの男の物言わぬ死体を思い返し、わずかな悔恨が胸をかすめる。

 生かして吐かせていれば、もっと早く全容が見えたはずだ。

 だがその時、記憶の底に沈んでいた一つの視覚情報が、鮮明な色彩を伴って蘇ってきた。

 男の外套、その右肩のあたりに付着していた、鮮やかな黄色い粉。

 匂いもなく、一見すればどこにでもあるただの汚れに過ぎない。

 だが、あの鮮烈な発色と、繊維の奥まで入り込んだような独特の付着の仕方が、今の俺の直感に激しく警鐘を鳴らしている。

 あれは何の粉だったか。

 この宿場町を歩いている時、あるいは昨夜の散策の最中、どこかで同じ色の何かを見た記憶はないか。

 市場の荷車か、工場の煙か、それとも特定の建物の壁か……。

 俺は門へ向かう歩みを止め、記憶の糸を必死に手繰り寄せながら、宿場町の風景を一つずつ脳内で再構築し始めた。

 マリーが連れ去られた先を示す唯一の導標が、その「黄色」の中にあるはずだと確信しながら、俺は立ち並ぶ店や建物の影へと、鋭い視線を巡らせた。

 俺は、先ほど廃屋で始末した男の姿を、記憶の底から引きずり出した。

 あの誘拐犯の外套の肩口に付着していた、鮮烈な黄色い粉。

 一見すれば何の変哲もない汚れに見えるが、あの独特の粒子感と、目に刺さるような発色。

 俺はどこで、あれと同じ色のものを見たのか。

「ねえ、あっちの露店、お花も売ってるよ。すごく綺麗」

 不意に、市場を歩いていた時のアヤメの無邪気な声が脳裏に蘇った。

 そうだ。彼女が期待に目を輝かせ、指差していたあの露店だ。

 あそこに並んでいた、大輪の黄色い花。


(……花粉か)


 匂いこそなかったが、あれほど鮮やかな色彩を放つのは、あの花特有の粘り気のある花粉に違いない。

 俺はアヤメの手を強く引き、困惑して立ち止まる人混みを、激しく逆走し始めた。


「……マリーちゃんを捜しに行くの? 何か分かったの?」


 俺の急な動きに驚きながらも、アヤメは必死に食らいついてくる。その瞳には、友だちを助けたいという強い意志が宿っていた。

「ああ、確かめたいことがあるんだ」

 俺たちは、色とりどりの花が咲き乱れる市場の露店へと戻ってきた。

 店主の老婆は、不機嫌そうに花瓶の水を替えていた。


「婆さん、ちょっと聞きたい。さっき、この黄色い花を倒していった男がいなかったか」


 俺の唐突な問いに、老婆は忌々しそうに顔を歪め、節くれ立った指で路地の奥を指差した。


「ああ、いたよ。路地の奥から男が一人、急いだ様子で飛び出してきたんだ。足元を見ていなかったのか、自慢の鉢をひっくり返してね、売り物を台無しにしていきやがったよ」


「路地の奥から……出てきたのか」


「そうだよ。謝りもしないで、どこかへ消えちまった。あんな行き止まりのはずの場所から、どこを通ってきたんだか」


 老婆が指差した先は、先ほど俺がアヤメを誘い込んだ裏路地よりも、さらに深く、入り組んだ場所だった。

 陽の光さえ拒絶するような暗い隙間が、まるで獲物を待つ怪物の口のように開いている。

 俺の中で、点と線が一つに繋がった。

 俺が殺したあの男は、マリーを連れ去った犯人の仲間だ。

 男は路地の奥から花をなぎ倒して飛び出し、マリーを運び出すための「準備」を終えて、次の標的であるアヤメを仕留めに現れたのだ。

 肩についたあの黄色い花粉は、マリーが囚われている場所から出てきたという、動かぬ証拠だった。


「アヤメ、俺のそばを離れるな。これから少し、物騒なところへ行く。いいな」


「うん……。マリーちゃん、あそこにいるんだね。助けに行こう」


「ああ。お前を狙った奴らの仲間も、そこに集まっているはずだ」


 俺は懐の中にある銀色――先割れスプーンの冷たい感触を、指先で確かめた。

 暗い路地の奥からは、カビ臭い湿った風と共に、微かに鉄の錆びたような、あるいは血が乾いたような匂いが漂ってくる。

 俺は完全に気配を殺し、アヤメを背後に庇うようにしながら、迷宮のような路地の暗闇へと足を踏み入れた。

 国境を越える前の、本当の「片付け物」が、この先で待っている。

 路地のどん詰まり。

 湿り気を含んだ古い煉瓦の壁が、重々しく立ちはだかる行き止まり。

 その一角に、周囲の風景に溶け込むようにして、巧妙に細工された扉が隠されていた。

 一見すればただの壁にしか見えないが、わずかな隙間の不自然さと石の摩耗具合が、俺の暗殺者としての勘に違和感を訴えかけていた。

 俺が壁の継ぎ目にそっと指をかけ、内部の仕掛けを微かに動かしながら力を込めて押し込む。

 精巧に作られた厚い木製の扉が、一切の軋み音を立てることなく内側へと滑るように開いた。

 暗く淀んだ空気が奥から流れ出し、アヤメが俺の服の裾をぎゅっと握りしめる。

 俺が彼女を外に留めようと視線を向けると、アヤメは青ざめた顔をしながらも、譲れないものを宿した瞳で俺を強く見つめ返した。


「……マリーちゃん、あの中にいるんだよね。私も行く。一緒に行かせて。一人で待ってるの、嫌だよ」


 震える声ではあったが、その決断は固かった。

 凄惨な光景を見せたくはないが、この暗がりに彼女を一人残すリスクも無視できない。


「ここで待っていろ。……いや、やはりダメだ。俺から離れるな」


 俺は迷いを断ち切り、彼女の手を強く握り直すと、扉の先へと続く隙間同然の通路を突き進んだ。

 やがて通路の突き当たりに、窓のほとんどが木の板で塞がれた古い石造りの建物が現れた。

 壁越しに耳を澄ませると、中から男たちの低く濁った笑い声と、下卑た会話が漏れ聞こえてくる。


「おい、次の迎えの馬車はいつ到着する予定だ」


「あと一刻もすれば、この裏手に回ってくるはずだ。このガキどもを国境の外へ運んじまえば、当分は酒と博打に溺れて暮らせるだけの大金が手に入るぞ」


「昨日攫ってきたあのマリーとかいう上玉、ありゃあいい値がつきそうだな。客も喜ぶぜ」


 男たちの下劣な欲望が剥き出しになった会話に混じって、部屋の奥からは子供たちが押し殺したようにすすり泣く声が微かに響いていた。

 俺はアヤメを建物の入り口の影にそっと座らせ、人差し指を唇に当てて、音を立てないよう厳格に命じた。


「……いいか、ここで耳を塞いでいろ。俺が呼ぶまで、決して中を覗こうとするな。いいな?」


 俺はアヤメの耳を塞がせると、肺の空気を一滴残らず絞り出すようにして、己の気配をこの世から抹消した。

 一歩、踏み込む。

 古い石造りの床に積もった埃さえ舞わせぬ、死神の歩法だ。

 部屋の中央では、三人の誘拐犯が下卑た笑いを浮かべながら、奪った金貨をテーブルにぶちまけていた。

 その背後、錆びついた檻の中では、マリーを含めた子供たちが、絶望の淵で声も出せずに震えている。

 俺はまず、入り口に最も近く、壁に背を預けて酒をあおっていた男の死角に滑り込んだ。

 男が杯を口元へ運ぼうとした刹那、俺の右手が懐から銀色の閃光を引き抜く。


「な……」


 男が異変に気づき、喉の奥で音を鳴らそうとした時には、先割れスプーンの鋭利な先端がその喉仏の直下、急所中の急所を深々と貫いていた。

 俺は男の体が崩れ落ちる衝撃音を殺すため、左手でその頭部を支えながら、音もなく床へと横たえた。


「おい、どうした? 飲みすぎか?」


 テーブルで金貨を数えていた残りの二人が、不審げに顔を上げた。

 だが、彼らが視認できたのは、相棒の影から音もなく立ち上がる、血に濡れた銀色の細い「何か」だけだった。

 俺はテーブルを蹴って跳躍した。

 驚愕に目を見開く二人目の男が腰の剣に手をかけるより速く、逆手に持ち替えたスプーンが空気を裂く。

 その先端は、男の右目の奥を貫き、脳幹へと達した。

 男は断末魔を上げる暇さえなく、脳からの信号を断たれて糸の切れた人形のように突っ伏した。

 最後の一人が、椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。


「き、貴様ぁ!」


 腰から引き抜かれた短剣が俺の胸を狙って突き出されるが、その動きはあまりに鈍く、俺の目には止まっているも同然だった。

 俺は半身をかわすと同時に、男が突き出した右腕を左手で絡め取り、その勢いを利用して肘の関節を逆方向に叩き折る。


「ぎ……っ!」


 男が激痛に叫びを上げようとした瞬間、俺はスプーンを構えた右腕を迷いなく突き出した。

 狙いは、男の鎖骨の隙間。

 そこから肺を貫き、心臓へと至る最短ルートを抉り抜く。

 引き抜く際、スプーンの先割れした鋭利な刃が男の生命線を無残に断ち切り、煤けた壁に鮮やかな赤が飛び散った。

 男は喉を鳴らし、肺から漏れる最期の空気を吐き出しながら、ゆっくりと床に崩れ落ちた。

 周囲には再び、重苦しい沈黙が訪れる。

 俺は三人の男を物言わぬただの残骸へと変貌させると、血に染まったスプーンを男の外套で静かに、けれど念入りに拭った。

 檻の中で怯える子供たちに、俺は努めて感情を排した声で告げた。


「……さあ、もう終わりだ。外へ出ろ。君たちの家族が待っている。走れ」


 自由を悟った子供たちが一目散に駆け出していく。

 その最後尾にいたマリーが、入り口で待機していたアヤメと鉢合わせた。


「マリーちゃん!」


「あ……昨日の……! 助けてくれたの?」


 マリーは泥と埃で汚れたドレスのまま、アヤメの両手をぎゅっと握りしめた。

 その瞳には、恐怖から解放された純粋な歓喜と、目の前の「知っている顔」への全幅の信頼が宿っていた。

 だが、アヤメはその温かな手を見つめ、それから血の匂いが充満する建物の奥と、血を拭う俺の冷徹な姿を交互に見つめた。


「よかった、無事で。……でも、もう行かなきゃ」


 アヤメはマリーの手を、自ら静かに、けれど明確な一線を引くようにして離した。

 マリーの向こう側には、自分を愛し、必死に捜してくれている両親と、陽光の降り注ぐ平穏な日常が待っている。

 対してアヤメが今立っているのは、返り血と殺意、それと死と隣り合わせの、決して表には出られない泥濘の世界だ。


「さようなら、マリーちゃん。……お父さんたちが、門のところであなたを捜しているよ。早く行って」


「えっ、でも……」


「いいから! 行って!」


 アヤメの声はひどく大人びていて、それでいて泣き出しそうなほど寂しげに響いた。

 マリーは戸惑いながらも、アヤメの目に宿る異様なまでの決意に圧されるようにして、何度も振り返りながら、光の射す出口へと走り去っていった。


「……終わったか。行こう、アヤメ。先を急ぐぞ」


 俺はアヤメの小さな手を引き寄せ、再び歩き出した。

 自ら手を離し、住む世界を分かち、愛した友を「光」の中へ送り返した少女の手は、昨日よりも少しだけ冷たく、けれど折れそうなほど強く俺の指を握り返していた。

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