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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第17話 国境の町

 無限に続くかに思えた石畳の道ももうすぐ終わりにさしかかる。

 俺たちは国境の検問所を間近に控えた宿場町へと足を踏み入れた。

 市場の喧騒と旅人たちの熱気が混じり合うその町は、境界線特有の浮き足立ったような活気に満ちあふれていた。つい先ほどまで俺たちがいた、静寂と死の匂いが漂う森の境界とは、まるで別世界のようだった。


「……あ」


 隣を歩いていたアヤメが、不意に俺の手を離した。反射的に周囲を警戒した俺の視界を、不意に吹き抜けた強い風がさらっていく。

 風に乗って舞ったのは、一枚の繊細な刺繍が入った白いハンカチだった。それはまるで意思を持つ蝶のようにひらひらと舞い上がり、行き交う人々の隙間を縫うようにして、路地の奥へと駆けていく。


「待って! 待ってよ!」


 アヤメが夢中でその後を追いかけた。

 普段、自分の感情を押し殺して俺の後ろを歩く彼女が、見知らぬ誰かの持ち物を守ろうとして、必死に小さな足を動かしている。

 その無垢な背中を、俺は少し離れた位置から、人混みに潜む危険がないか目を光らせつつ見守った。アヤメは路地の角で身を屈め、汚れを被る直前の白い布を、間一髪でその小さな掌に収めた。


「よかった、捕まえた……。汚れてないかな」


「あ、ありがとうございます! それ、お気に入りのだったんです。追いかけてくれたの?」


 背後から弾むような、鈴を転がすような声が響いた。

 振り返ったのは、アヤメとちょうど同じ年頃の少女だった。汚れ一つない柔らかな生地の服を纏い、大切に育てられてきたことを物語るような、曇りのない瞳をしている。

 アヤメが少し照れくさそうに「うん、風に飛ばされてたから」とハンカチを差し出すと、少女は満面の笑みを浮かべてそれを受け取った。


「マリー、勝手に駆け出してはダメじゃないか。心配したよ」


 人混みを割って、身なりの良い夫婦が駆け寄ってきた。

 父親は上質な仕立ての上着を羽織り、母親は慈しむような眼差しで娘の肩を抱き寄せる。


「お父さん、見て! この子が拾ってくれたの」


「まあ、そうなの。お嬢さん、ありがとう。本当に助かったわ。優しいのね」


 母親は腰を屈めてアヤメと目線を合わせ、穏やかに微笑んだ。

 父親も隣で頷き、「ありがとう。おかげで娘の笑顔が守られたよ」と、アヤメに対して親しげな、そして敬意のこもった言葉をかけた。

 アヤメは突然の温かな接触に少し戸惑った様子を見せたが、それでもどこか嬉しそうに、「……よかったです」と小さな頷きを返した。

 少女が両親の手を左右から引き、「ねえ、あっちのお店も見たいな! 行きましょ、お父様、お母様!」と楽しげに声を弾ませながら、再び雑踏の中へと消えていく。

 俺はその幸せそうな後ろ姿を何事かを確かめるようにじっと見送っているアヤメの隣で、静かに感慨に浸っていた。

 互いを慈しみ合い、落とし物一つで笑い合える、当たり前のような平穏。

 それは、道中で自らの野心と欲望のために妻を手にかけ、目撃者を消そうと獣のように襲いかかってきたあの男の姿とは、あまりにかけ離れていた。

 同じ「家族」という形をしていながら、内側にあるものはこれほどまでに違うものなのか。血に飢えた狂気と、陽だまりのような愛情。その落差が、俺の胸に冷ややかな違和感を残した。

 その夜、俺たちは町外れにある、旅慣れた者だけが使う古びた宿に部屋を取った。

 窓の外には国境近くの宿場町らしい、荒っぽくもどこか物悲しい夜景が広がっている。

 アヤメはベッドの端に座り、細い足をぶらつかせながら、ぼんやりと自分の手のひらを見つめていた。


「……ねえ。あの子、ニコニコしてたね。お父さんとお母さんも、すっごく優しかった」


「ああ、そうだったな」


「あんなふうに、みんなで手をつないで歩くのって、どんな感じなのかな」


 ぽつりと溢れたアヤメの幼い言葉に、俺は明確な答えを持たなかった。

 俺の懐には、血を拭い去ったとはいえ、依然として冷たく硬い銀色のスプーンが収まっている。

 この静寂も安らぎも、明日の検問を越えるまでの、砂上の楼閣のような仮初めのものだ。


「さあな。俺にはわからない。……さっさと寝ろ。明日は朝が早いぞ」


「うん。おやすみなさい」


 俺は短く告げると、部屋を照らしていた唯一のランプの火を吹き消した。

 暗闇が部屋を支配する中、アヤメが布団に潜り込む衣擦れの音と、やがて聞こえてきた規則正しい呼吸音だけが、今日という血生臭くも奇妙な一日が終わったことを告げていた。



 門が開くまでには、まだしばらくの時間があった。

 石畳の通りを歩きながら、俺は周囲の空気を鋭く読み取っていた。

 朝の宿場町は、夜の静寂を脱ぎ捨て、境界の町特有の熱気と焦燥を孕んで動き出している。

 市場の軒先には、朝露に濡れた瑞々しい野菜や、遠い国から運ばれてきたらしい香辛料の入った麻袋が所狭しと並んでいた。

 どこからか流れてくる焼きたてのパンの香ばしい匂いが、冷えた朝の空気をわずかに和らげている。

 昨夜、宿の暗がりで漏らした静かな言葉を、アヤメはまだ胸の奥で大切に反芻しているようだった。

 時折、通りを横切る仲睦まじそうな家族連れを見かけては、彼女の視線が吸い寄せられるようにその背中を追う。


「お腹、空いたか? 門を越える前に、何か少しでも腹に入れておくか」


 俺がぶっきらぼうに言葉を投げると、アヤメは自分の腹をさすりながら、恥ずかしそうに頷いた。


「う、ん。……あそこのパン、すごくいい匂いがするね」


「そうだな。じゃあ、まずはあっちの店へ――」


 言いかけた俺の皮膚が、不快なピリつきを絶え間なく感知し続けていた。

 暗殺者として修羅場を幾度も潜り抜けてきた長年の経験が、雑踏の喧騒の中に溶け込もうとしている、微かな「異物」を正確に捉えている。


「ねえ、あっちの露店、お花も売ってるよ。すごく綺麗。パンを買ったら、ちょっとだけ近くで見てもいい?」


 アヤメが期待に目を輝かせて指差した先には、色とりどりの鮮やかな大輪の華が並んでいた。

 だが、その華やかな露店の背後の路地は、陽の光が届かず、粘りつくような重い闇が深々と口を開けている。


「……いや。あっちの路地は暗い。こっちの広い道を行くぞ。俺のそばを離れるな。一歩でも遅れるんじゃないぞ」


 俺は彼女の細い手首をしっかりと掴み、人混みを縫うようにして歩調を速めた。

 俺たちの背後を、一定の距離を保ちながら執拗についてくる視線がある。

 それは獲物の価値を冷徹に、順当に品定めする、胸の悪くなるような気配だった。


(狙いは俺ではなく、やはりアヤメか……)


 おそらくは人身売買を目的とした誘拐犯か、さもなくばたちの悪い攫い屋だろう。

 このまま大通りでやり合うのは、余計な注目を浴びすぎて得策ではない。

 俺はわざと足を進め、建物の影が複雑に重なり合う、湿り気のある寂れた裏路地へと彼女を誘い込んだ。

 獲物を狙うつもりでいる獣に、あえて絶好の隙を見せてやる。


「……あ!」


 刹那、背後の深い暗がりから黒い影が猛然と飛び出した。

 男の動きは、この界隈の端くれにしては十分に速かった。

 俺がわざとらしく狼狽えて振り返るよりも早く、彼はアヤメの小さな口を荒っぽく塞ぎ、その細い体を小脇に抱え込んだ。

 そのまま、逃げ場のない路地裏に佇む打ち捨てられた廃屋の中へと転がり込む。

 埃と腐りかけた木材の匂いが重苦しく充満する、薄暗い廃屋の奥。


「騒ぐな。……いい値で売れそうだ。大人しくしてれば、命だけは助けてやる。悪いようにはしねえよ」


 男の低く濁った声が、カビ臭い密閉された空間に冷たく響く。

 俺は逃げ道を塞ぐように足音を完全に消し、男の正面へと音もなく立ちはだかった。

 埃っぽい空気の中に、男の脂ぎった独特の体臭と、懐に隠し持った錆びた鉄の匂いが混じり合う。


「待て。その子をどこへ連れて行くつもりだ。……穏便に済ませたいなら、今すぐその汚い手を離せ」


「邪魔だ。死ね」


 男は感情を欠いた声で短く吐き捨てると、懐から鈍く光る短剣を抜き放ち、迷いのない刺突を繰り出してくる。

 だが、死線を幾度も越え、血の海を渡ってきた俺の目には、その突きは止まっている標的を狙うのと変わらないほど、酷く鈍重に映った。

 俺は最小限の身体操作で短剣の軌道を紙一重で逸らす。

 それと同時に、懐から一本の、鈍い輝きを放つ銀色の得物を取り出した。


「なっ……スプーンだと? ふざけやがって、なめるな!」


 男が驚愕に目を見開いた瞬間、すでに勝負の決着はついていた。

 俺は男の懐の奥深くまで、心臓の鼓動一つ分で一気に踏み込み、逆手に持った先割れスプーンの鋭利な先端を、彼の喉仏の真下にある唯一の隙間へと迷いなく叩き込んだ。


「が……っ、あ……」


 鈍い衝撃音が無人の廃屋に響き渡り、スプーンの先端は男の気管を易々と貫通した。

 一気に引き抜く際、計算された角度で逆立った先端が組織を無残に抉り取り、鮮血が煤けた廃屋の壁を汚した。

 男は短剣を落とし、自分の喉を掻き毟るように押さえながら膝から崩れ落ちた。

 瞳から急速に生命の光が失われていき、やがて彼は、床の上でただの物言わぬ肉塊へと成り果てた。

 俺は自分の服に一滴の汚れもつかないよう立ち回り、得物に付着した血を男の外套の端で丁寧に拭い取った。

 その際、男の肩口に奇妙な黄色い粉が付着しているのが目に留まった。

 俺は一瞬その粉を見つめたが、今は深く追求している暇はないと判断し、思考の隅に追いやった。

 再び懐にスプーンを収め、俺は隅で震えていたアヤメにゆっくりと歩み寄り、その肩にそっと掌を置いた。


「もう大丈夫だ。怖かったな」


「……う、ん。ごめんなさい、私が勝手にあっちこっち見てて……」


「お前のせいじゃない。奴らは初めから、お前を狙っていたんだ。……行こう。ちょうど門が開く時間だ」


 アヤメは青ざめた顔で、縋るように俺の服の裾をぎゅっと握りしめた。

 足元にはもう二度と動かなくなった男が転がっているが、彼女はそれを決して見まいとするように、俺の腕に深く顔を寄せ、強く目を閉じた。


「ねえ、……もう行こう? 早く、お日様が当たるところへ行きたい。ここじゃないところへ」


「ああ、そうだな。すぐに出よう」


「守ってくれて、ありがとう。……一緒に行こうね、ずっと」


 国境を越えた先に、彼女が憧れたあの温かな日常が待っているのか。

 その残酷な問いの答えを知る者は、まだ世界のどこにもいない。

 俺は彼女の冷えた小さな手をしっかりと引き、静まり返った死の気配が残る廃屋を後にした。

 光の射す表通りへと戻ると、国境を隔てる巨大な石造りの門が、重々しく、そして力強い音を立てて開き始めていた。

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