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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第16話 山道

 昨夜の喧騒が嘘のように、宿の朝は白々とした静寂に包まれていた。

 板張りの床から伝わる冷気が、一睡もできなかった俺の体力をじわじわと削っていく。

 隣ではアヤメが、疲れ果てた顔でまだ薄い毛布にしがみついていた。

 彼女の小さな肩が時折ピクリと跳ねるのは、昨夜の怒鳴り声や、床を蹴るドスンという衝撃音がまだ耳の奥にこびりついているせいだろう。

 階下の食堂へ下りると、そこには昨日の嵐のような家族連れの姿はすでになかった。


「……もう、出たんですか」


 俺が控えめに声をかけると、宿のあるじはひどくやつれた顔で力なく頷いた。

 煤けたカウンターを、昨日から使い古されているであろう雑巾で力なく拭いている。


「ええ、夜明け前に嵐みたいに出ていきましたよ。……あいつらが壊した備品の修理代については、知らん顔でしたがね。二階の部屋の扉も、蹴り跡で塗装が剥げていた。全く、災難ですよ」


 主は割り切れない表情で、深い溜息をついた。


「ただ、飲み食いした分に関しては、決められた額をきっちり置いていったんですよ。食事代だけは、えらく律儀に払いよる。まあ、あんな連中でも、最低限のルールは守るつもりだったんですかねえ」


 主は「文句を言ったところで、何をされるかわかったもんじゃない」とでも言うように、怯えの混じった諦め顔で力なく肩をすくめた。

 関わり合いになるのを恐れ、最初から泣き寝入りを決め込んでいるのだろう。

 主はやり場のない溜息を飲み込むように再び手元の雑巾に目を落とし、機械的に手を動かし始めた。

 運ばれてきた朝食は、質素な麦粥と、湿気たように固いパン。

 昨夜の地獄のような騒ぎに比べれば、この静けさこそが何よりの馳走だった。

 だが、アヤメはスプーンを握ったまま、一口も粥を運ぼうとはしなかった。

 そこへ、重々しい金属音が板張りの床を乱暴に鳴らした。

 宿の扉が勢いよく開き、数人の男たちが踏み込んできた。

 使い込まれた革鎧の擦れる音、腰に下げた長剣の鞘がぶつかる音。

 胸元に刻まれたのは、この領地を治める騎士団の紋章だ。

 俺は咄嗟に視線を落とし、気配を消した。

 俺の本当の職業は、影に潜み、音もなく息の根を止める暗殺者だ。

 光の下で正義を掲げる騎士団など、この世で最も関わりたくない人種である。


「宿の主、少し話を伺いたい。この近辺で、最近盗賊の活動が活発化している」


 先頭の男が低い声で切り出した。主が怯えたように手を止める。


「数日前にも、ここから半日ほどの村が一つ、根こそぎ略奪に遭った。金目のものだけでなく、食料や衣類まで奪い尽くしていく卑劣な連中だ」

 騎士は鋭い目で食堂を見渡した。


「連中に加担し、手引きした者が潜んでいる可能性がある。見慣れぬ旅人はいなかったか」


 主が昨夜の家族連れのことを話し始めたのを背中で聞きながら、俺は確信に近い疑念を抱いていた。

 食事代だけはきっちり払うというあの妙な律儀さは、まるで自分たちは正当な客だという、浅ましいアリバイ作りのようにも思える。

 平和な村一つが消えた直後に、どこからか湧いて出たあぶく銭を、一刻も早く、正当な対価として使い切りたがっているような――。

 思考に没頭しかけたその時、不意に背後に鋭い視線を感じた。


「おい、そこの貴様。面を上げろ」


 騎士が威圧的な一歩を踏み出した。

 その目は、俺の古びた旅装束と、隣で震えるアヤメを値踏みするように舐め回す。


「妙な時間に朝食か。この宿の惨状といい、昨夜の騒ぎといい……貴様、あの盗賊どもの仲間、あるいは手引きした鼠ではないのか? こうした旅人に紛れて、連中の仲間が潜んでいることは珍しくないんでな」


 場の空気が一気に凍りついた。

 宿の主が真っ青な顔で後ずさり、騎士たちは剣の柄に手をかける。

 ここで騒ぎを大きくすれば、国境越えに支障が出る。

 俺は数秒の間、思考を巡らせた。

 無理に突破するか、あるいは言葉で切り抜けるか。

 だが、余計な疑いは今ここで、確実に晴らしておくのが賢明だ。

 俺は懐に手を入れ、指先に触れた一通の封書を確かめると、それを静かに取り出した。

 封蝋には、見慣れないが重厚な紋章が刻印されている。


「……これを確認してほしい」


 騎士が不審げに書状をひったくり、封を切ることなくその表面を凝視した。

 裏返して封蝋の紋章を確かめ、表に記された流麗な筆致の署名に目を留める。

 数秒後、その男の眉間に深い皺が寄った。


「フランチェスカ・フレスコバルディ……? どこかで聞いた名だな」


 男は記憶を探るように視線を泳がせた。

 後ろに控えていた別の騎士が、その署名を盗み見て、囁くように声をかける。


「隊長、確か以前、中央の通達で回ってきた特別な身分の方の名では……? 詳細は秘匿されていましたが、その紋章のぬしには便宜を図れと……」


「ああ、そうだ、それだ。……失礼した。まさか、あのお方の知己とは」


 男は中身を改めるまでもなく、書状を俺に突き返した。

 フランチェスカ。俺とアヤメに、隣国の王都へ向かうよう言った女だ。

 彼女の正体も、真の身分も、俺は何も知らない。

 だが、辺境の騎士が表面の名と紋章だけで引き下がるほどの特別な名が、ここでは法よりも有効な盾になることだけは確かだった。


「ふん。まあいい。もし何か不審な集団を見かけたら、すぐに報告しろ。この辺りは今、何が起きてもおかしくない」


 騎士たちはそれ以上の追及を諦め、少しばかりばつが悪そうに宿を出ていった。

 騎士たちが去った後、俺は早々に支度を整えた。

 あの家族がただの粗野な成金だったのか、あるいは――。

 確証はない。だが、あの一家が振りまいていた、あの異様な高揚感。

 それは、凄惨な現場を見てきた者だけが嗅ぎ取れる、破滅的な享楽の匂いだった。

 俺は席を立つと、カウンターの隅にそっと硬貨を置いた。

 宿代と食事代に、壊された扉の修理代をいくらか足した、少しばかり多めの額だ。


「……釣りはいらない。世話になった」


 俺は、まだ呆然としている宿の主に短くそう告げた。

 主が戸惑いながらも、少しだけ表情を和らげるのを横目に、アヤメの手を引く。


「行こう、アヤメ。急ぐぞ」


「うん……」


 背後の宿を振り返ることなく、俺たちは国境へと続く、湿った森の道へと足を踏み出した。



 昨夜の宿から続く、湿った森の道。

 木漏れ日が地面に不気味な斑模様を描く中、俺たちはしばらく進み、二股に分かれた道に行き当たった。

 片方の道には、古びた木材を粗末に組んだだけの柵が置かれ、「通行止め」と記された布が湿った風に力なく揺れている。

 だが、その柵は中央から無残にへし折られ、泥のついた草むらへと投げ飛ばされていた。

 ぬかるんだ地面には、重い馬車が強引に通り抜けたことを示す、深く新しい轍が刻まれている。

 あの傲慢な家族連れが、警告など目に入らぬとばかりに柵をなぎ倒し、突き進んだのは明白だった。


「……おじさん、こっちはダメなんだよね?」


 アヤメが不安げに、折れた柵と暗い森の奥を見つめる。


「ああ。地盤が緩んでいるか、落石でもあったんだろう。俺たちは正しい道を行くぞ」


 俺は轍のない、もう一方の山道を選んだ。

 道は馬車がようやく一台通れるかというほどの幅しかない。

 切り立った斜面を縫うように続くその道は、一歩踏み外せば谷底へと真っ逆さまだ。

 勾配こそ急ではあるが、足場自体はしっかりしており、歩くのに支障はない。

 俺はアヤメの手を引き、一歩ずつ確実に高度を稼いだ。

 数刻ほど歩き続けると、道は緩やかな下り坂となり、先ほどの通行止めだった道と合流した。

 そこは周囲を高い木々に囲まれた、少し開けた場所だったが、辺りには淀んだ空気が漂っている。

 俺は不意に、鼻をつく獣特有の生臭い臭いと、混濁した叫び声を察知した。

 咄嗟にアヤメを抱え込み、道脇にある巨大な岩の影に身を潜める。


「……静かにしてろ。声を出すなよ」


 耳元で短く囁き、俺は岩の隙間から前方の様子をうかがった。

 視線の先には、あの家族の馬車が立ち往生していた。

 馬車の車輪は、粘り気のある黒い泥に深くまみれ、車軸まで汚れが厚くこびりついている。

 その汚れ具合を見て、俺は己の判断が正しかったことを確信した。

 通行止めの道は、予想以上に地盤が緩んで荒れ果てていたのだ。

 遠回りをしたはずの俺たちが彼らに追いついたのは、彼らがその悪路で車輪を取られ、体力を消耗させていたからに他ならない。

 悪路に阻まれ、休息を取るために馬車から出ていたらしい家族を、数匹の魔獣がじりじりと取り囲んでいた。

 昨夜、宿の廊下をわざと強く踏み鳴らして走り回り、アヤメを怯えさせていたあの子供が、今は恐怖に顔を完全に引き攣らせ、情けない悲鳴を上げている。


「助けなきゃ……おじさん、あの子が……」


 アヤメが震える声で漏らし、俺の服の裾を強く掴む。

 だが、俺は彼女の細い肩を強く押さえ、冷徹に首を振った。

 俺の最優先事項は、何があろうとアヤメを守り抜き、隣国の王都まで彼女を無事に送り届けることだ。

 ここで複数の魔獣を相手に立ち回れば、混乱の中で彼女を確実に危険にさらすことになる。

 プロの暗殺者としての冷たい計算が、俺の足を岩陰に縫い付けた。

 その時、一匹の魔獣が、逃げ惑う子供の襟首を巨大な顎で無造作に捉えた。


「いやだ、助けてぇっ! パパ! ママ!」


 短い悲鳴を残し、魔獣は子供を獲物として吊り下げたまま、一切の躊躇なく深い森の奥へと去っていく。


「待って! ニック、ニックを助けて!」


 母親が半狂乱になって絶叫しながら、連れ去られた息子の名を呼んで追いかけようとした。

 父親も、装飾ばかりの剣を震える手で抜き、一歩踏み出す。

 だが、残った魔獣たちが低い唸り声を上げ、夫婦へ向けてじりじりと距離を詰めた。

 その圧倒的な殺意を向けられた瞬間、親としての情動は、自らの死の恐怖によって無残に塗りつぶされた。


「……クソっ、もうダメだ! 逃げるぞ、追うな!」


 父親が叫び、腰を抜かしていた妻の腕を強引に掴んで立たせる。

 二人は一度だけ息子が連れ去られた森を振り返ったが、即座に救出を諦めた。

 彼らは馬車に転がり込むように飛び乗ると、狂ったように馬へ鞭を当て、子供一人を置き去りにしてその場を逃げ出した。

 残された魔獣たちも、逃げ去る馬車を追うことはしなかった。

 一頭、また一頭と、鼻を鳴らしながら連れ去られたニックの後を追うように、薄暗い森の奥へと消えていく。

 後に残されたのは、不気味に静まり返った広場と、踏み荒らされた休憩の跡だけだった。


「……行こう。もう、あいつらはいない。俺たちの道を行くんだ」


 アヤメは青ざめた顔で、何も言わずに頷いた。

 自業自得という言葉では片付けられない、粘りつくような嫌な後味だけが口の中に残った。

 俺たちは、いつ別の魔獣が戻ってくるか、あるいは新たな群れが現れるか分からないこの場所を、極限の警戒を保ちながら離れた。

 周囲の木々が揺れる音、わずかな鳥の羽ばたきにさえ神経を研ぎ澄ませ、俺たちは国境へと続く静寂な山道を再び歩き始めた。



 さらに道を進むと、前方で再びあの馬車が立ち往生していた。

 無理に悪路を走らせた報いだろう。

 車輪の軸が完全に折れ、車体は無残に傾いている。

 その傍らで、夫婦が醜い罵り合いを繰り広げていた。


「チッ、どうすんだよこれ! ニックがあんな化け物にさらわれちまって……。今頃、痛い思いして食われてんだろうよ! 馬車までブッ壊れるし、ほんと、縁起悪いったらありゃしない!」


 妻が狂ったように喚き散らし、夫の胸ぐらを掴んで揺さぶる。

 彼女なりの心配のようだが、その言葉にはどこか投げやりな、どす黒い響きが混じっていた。

 だが、男は苛立ちを隠そうともせず、彼女をさらに激しく突き飛ばした。


「るせえ! あんな役立たずのガキのことなんか、もういいんだよ。子供なんてまた作ればいいだろうが!」


 男は吐き捨てるように叫び、泥にまみれた荷物を乱暴にまとめ始めた。


「それより早くムステラ王国へ逃げ込む算段を立てるんだ。この金さえ持っていきゃ、あっちじゃ誰にも文句は言わせねえ。広い屋敷を構えて、毎日上等な酒と肉を食らってよ……。いかに優雅に暮らすかってことだけ考えりゃいいんだよ!」


 俺は耳を疑った。

 わが子が魔獣にさらわれてから、まだ半刻も経っていない。

 それなのに、彼らの口から出るのは、泥にまみれた保身と強欲にまみれた言葉だけだった。

 俺たちは目的地こそ同じだが、関わる価値もないと判断し、アヤメの手を引いて無言で通り過ぎようとした。


「離せよ! てめえがいなけりゃ、もっと身軽にトンズラできてたんだよ!」


 背後で男の怒号が響いた。

 振り返ると、夫婦の争いはすでに修羅場と化していた。


「何よ、あたしのせいだっての!? あんたが勝手に通行止めの道なんか選んだからでしょ!」


 妻が逆上して男の顔を爪で引っ掻くと、男の頬に赤い筋が走った。


「この……アマが!」


 男の目が完全に据わった。

 彼は腰の飾り剣を乱暴に引き抜くと、逆上のままに腕を振るった。


「あ……っ」


 鋭い金属音が空気を裂き、鈍い衝撃音が続く。

 男は体重を乗せて、食ってかかる妻の胸元を迷いなく突き刺していた。

 女は信じられないものを見るかのように目を見開き、夫の肩に手をかけたまま、数度口をパクパクと動かした。

 やがてその瞳から光が消え、糸が切れた人形のように泥の上に崩れ落ちた。

 俺は咄嗟にアヤメを自分の方へ引き寄せた。

 彼女は俺の背に顔を埋めていたため、その凄惨な光景を直接目にすることはなかった。

 返り血を浴びた男が、そこで初めて俺たちの存在に気づき、弾かれたように顔を上げた。

 血走った目が、目撃者である俺と、俺の背に隠れたアヤメを捉える。


「待てよ……! お前ら、見てやがったな!」


 男は常軌を逸した形相で叫び、血に染まった剣を握り直した。


「目撃者は消さなきゃならねえ。お前らを生かしておいちゃ、俺がムステラで優雅に暮らせなくなるんだよ……! 死ね! 死んで黙ってろ!」


 男が獣のような叫びを上げ、俺に向かって突進してくる。

 俺はアヤメを背後に押しやり、無造作に懐から得物を取り出した。

 それは一本の、鈍く光る銀色の先割れスプーンだった。

 逆上した素人が振り回す剣など、俺の目には止まっている標的を突くのと変わらない。

 俺は最小限の動きで男の刺突をかわすと、すれ違いざま、その先端を男の首の骨の隙間に深く叩き込み、一気に引き抜いた。


「が、はっ……」


 男は剣を落とし、喉を押さえながらその場に崩れ落ちた。

 地面に座り込んだまま、男は血を吐き出し、見開いた目で虚空を睨みつける。

 泥にまみれたその手から力が抜け、やがて彼は、座った姿勢のまま動かなくなった。

 周囲には再び、重苦しい沈黙が訪れた。

 夫婦の亡骸を冷たい風が撫で、彼らが執着した馬車の荷物が虚しく泥の中に散らばっている。

 俺は先割れスプーンに付着した血を男の衣服で静かに拭い、再び懐へと収めた。


「行こう、アヤメ。先を急ぐぞ」


 俺は彼女の手を取り、血の匂いが漂う場所から遠ざかるように歩き出した。

 国境の検問所は、もう目と鼻の先にある。

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