第15話 迷惑家族
木漏れ日が網目状に地面を彩る湿り気を帯びた深い森。
俺とアヤメは、隣国の王都であるニヴァリスを目指し、延々と続く街道を歩き続けていた。
目的地まではまだかなりの距離があり、連日の徒歩移動で足には鉛のような疲労が溜まっている。
周囲には鳥のさえずりと、自分たちの踏みしめる乾いた土の音だけが静かに響いていた。
「あ、見て! おじさん、あそこに実がなってるよ!」
沈んでいた重苦しい空気を切り裂くように、隣を歩くアヤメが弾んだ声を上げた。
彼女が指差した先には、街道から少し外れた場所に、歳月を感じさせる一本の古樹が立っていた。
その枝先には、まるで職人がルビーを磨き上げたような、鮮烈な赤色に熟した「緋小梅」の実がたわわに実っている。
長旅でパサついた干し肉や堅パンばかりに飽き果てていた俺たちにとって、その瑞々しく酸味の効いた果実は、何よりの宝物に見えた。
「本当だ。ちょうど喉も渇いていたし、少し休憩にするか」
「やったぁ! 私、取ってくるね!」
アヤメは疲れも忘れたような軽やかな足取りで、草をかき分け樹へと駆け寄った。
彼女が小さな手を精一杯伸ばし、一番低い枝にたわわに実った果実に指をかけようとした、まさにその時だった。
背後から激しい蹄の音と、油の切れた車輪が悲鳴のように軋む不快な音が迫ってきた。
現れたのは、あちこちに継ぎ接ぎの補修跡が目立ち、手入れの行き届かない大型の馬車だ。
馬車は俺たちのすぐ脇で強引に急停車し、鼻を突くような砂埃を激しく巻き上げた。
「おい、そこをどけよ! その実はボクが先に見つけたんだ。汚い手で触るなよな!」
馬車の窓から身を乗り出し、顔を真っ赤にして喚き散らしたのは、ふてぶてしい顔をしたガキだった。
その後ろからは、胸元をだらしなくはだけ、安っぽい金の首飾りをジャラジャラとこれ見よがしにぶら下げた、いかにも柄の悪い両親が顔を出した。
父親の方は、安物の魔獣の皮を不格好に繋ぎ合わせた派手な配色の外套を羽織り、指が曲がらなそうなほど太い指輪をいくつもはめている。
成金にすらなりきれない、たちの悪い流れ者の家族といった風体だ。
「……先にこの子が見つけたんだ。数個分けてもらうくらい、いいだろう?」
俺が感情を抑えた声で静かに諭すが、チンピラ風の父親は鼻で笑い、腰に下げた使い古しの太い鞭を抜いて、威嚇するように地面へ叩きつけた。
「あぁん? すっこんでろよ、流れ者が。うちの坊ちゃんが自分のもんだっつってんだ。この木に実ってるもんは、全部俺ら一家のもんだよ。卑しい手で触んじゃねえ!」
男は下品な罵声を浴びせながら家族を急かし、自分たちで力任せに実を毟り取り始めた。
熟しきっていない実まで枝ごと無造作にへし折り、足元の草花を踏みつぶしながら強引に掻き集めるその様は、収穫というよりは略奪そのものだ。
アヤメが今まさに手に取ろうとしていた実は、男たちの乱暴な手によって引き剥がされ、ガキが勝ち誇ったように抱えるカゴの中へと次々に放り込まれていく。
「……おじさん……」
アヤメが悔しそうに小さな拳を震わせ、助けを求めるように俺の袖を強く引いた。
彼女の大きな瞳には隠しきれない怒りと悲しみの色が浮かんでいたが、俺は彼女の細い肩をそっと掌で制した。
こんな手合いを相手に、後味の悪い不毛な争いにかかわるのはあまりに馬鹿らしい。
旅の途中でこれ以上、余計な時間を食うことだけは避けたかった。
「……行こう、アヤメ。先を急ぐんだ」
「でも、あんなの……あまりに勝手だよ! 横取りじゃない!」
「いいんだよ。あんなに欲張って一度に食べたら、きっと腹を壊す。俺たちには、王都でもっと甘くて旨いもんが待ってるさ」
俺は納得のいかない表情のアヤメの背中を優しく押し、ゆっくりと街道へ戻るべく歩き出した。
すると、実をすべて奪い尽くしたあの家族が、再び馬車に乗り込み、けたたましく鞭を鳴らした。
「どけどけ! 歩きの貧乏人は隅を歩けよな!」
馬車は俺たちのすぐ横を、わざと泥を跳ね飛ばすような勢いで追い抜いていった。
窓からはあのガキが顔を出し、「ベーッだ! ノロマな貧乏人め、ざまあ見ろ!」と下品な笑い声を響かせ、あっという間にニヴァリスの方向へと消えていった。
しばらく無言で歩き続け、あの騒がしい馬車の影が完全に見えなくなる頃、ようやくアヤメの足取りも落ち着きを取り戻した。
「……おじさん、あんなに急いでどこへ行くんだろうね」
「さあな。だが、あの御し方じゃ馬が持たない。急がば回れ、という言葉を教えてやりたいくらいだ」
「ふふ、本当だね。私たちは私たちのペースで行こう」
アヤメが少しだけ表情を和らげたのも束の間、街道の脇には、先ほど追い抜いていった家族が窓から無造作に投げ捨てたらしいゴミが、点々と落ちていた。
「おじさん、見て……。あんなところに食べ残しが」
アヤメが顔をしかめて指差した先には、噛み散らかされた緋小梅の核や、中身の残った汚らしい袋が放り出されていた。
せっかくの美しい森の景色が、あの家族が通り過ぎたというだけで、酷く汚らしく塗り替えられている。
アヤメは落ちているゴミを見つけるたびに、せめて通り道の邪魔にならないようにと、足で器用に道の脇へと寄せていった。
だが、あまりの多さに途中で諦めたように、ふう、と深く、小さく息を吐いた。
「……あの人たち、どこへ行くんだろうね。せっかくの綺麗な道が台無しだよ」
「さあな。どこへ行くにしても、あんな調子じゃあ、行く先々でろくなことにならないだろうさ。俺たちは気にせず、自分たちの旅を続けよう」
道は徐々に険しさを増し、やがて馬車一台が通るのがやっとというほど狭い山道へと差し掛かった。
切り立った崖と急斜面に挟まれたその難所で、案の定というか、見覚えのある補修跡だらけの馬車が立ち往生していた。
「なんだ、またあいつらか」
見れば、後輪の一つが深い溝に脱輪し、泥濘に埋まって空回りしている。
馬は疲れ果てて鼻を鳴らし、御者台に座る父親は、狂ったように鞭を振るって馬を無理やり急かしていた。
「動け! この役立たずが! 日が暮れる前にこの峠を抜けるんだよ、間に合わなくなるだろうが!」
馬車の陰からは、あのガキが泣きべそをかきながら「おなかすいた! 喉が渇いた! 早くしてよ!」とわがままに騒いでいる声が聞こえる。
放っておいて横を通り抜けることもできたが、この狭い道で馬車が塞がっていては、俺たちの歩みも大幅に遅れてしまう。
「……アヤメ、少し待ってろ」
俺は溜息をつき、動けなくなっている馬車の後部へと回った。
「おい、あんた。馬を休ませろ。後ろから押してやる」
「あぁん? またお前らか! 余計なお世話だ、貧乏人が俺様の馬車に触るんじゃねえ!」
父親は相変わらずの罵声を浴びせながらも、必死な形相で手綱を握り直し、馬車が動き出すのを待った。
俺はそんな言葉を無視し、泥にまみれた車輪の付け根にしっかりと肩を入れた。
一気に力を込める。
重い車体がミシリと不気味な音を立て、泥の吸着から強引に引き剥がされる重厚な感触が肩に伝わってきた。
俺が渾身の力で押し上げると同時に、馬が最後の一踏ん張りを見せ、馬車は勢いよく溝から抜け出した。
「……ふぅ。これで動けるはずだ」
泥を払いながら立ち上がった俺に対し、返ってきたのは、感謝の欠片もない言葉だった。
「ケッ! 最初からこうすりゃ良かったんだ。ノロマがモタモタしやがって、おかげで大事な服が泥で汚れたじゃねえか!」
父親は地面に汚らしく唾を吐き捨てると、礼の一言もなく馬を叩き、馬車を急発進させた。
窓からはあのガキが再び顔を出し、「ベーッだ! 泥だらけのバカおじさん! のろま! バイバイ!」と指を差してゲラゲラと笑っている。
馬車は再び砂埃を巻き上げ、俺たちの横を猛スピードで去って行った。
「……信じられない。おじさんがあんなに一生懸命助けてあげたのに!」
アヤメが今度こそ本気で憤り、顔を真っ赤にして叫んだ。その小さな手は固く握りしめられている。
俺は汚れた手を旅の布で無造作に拭い、肩をすくめて小さく笑った。
「いいんだよ、アヤメ。あんな連中の機嫌を取るために助けたわけじゃない。あの道が空かなきゃ、俺たちも進めないからな。自分たちのためにやったことだ。さあ、行こうか」
俺たちは再び、静かになった山道を歩き始めた。
背後で山陰に沈む夕日が、遠くの空を血のような赤色に染め始めていた。
山道を抜けた先にある小さな村に辿り着いた頃、空は燃えるような残光を完全に失い、重苦しい濃い群青色に包まれていた。
俺とアヤメは、泥にまみれた重い足取りで、村に一軒しかない古びた宿屋の戸を叩いた。
ギィィ……と建付けの悪い扉を開け、薄暗い土間の受付に足を踏み入れる。
奥の狭い食堂からは、鼻を突く安酒の匂いと共に、鼓膜を突き刺すような下品な笑い声が絶え間なく響いてきた。
「おい、もっと酒を持ってこい! 祝いだ、祝いだ!」
「やだぁ、あなたったら。あんな上等な赤い実もタダで手に入ったし、今日は最高ね!」
やはり、あの馬車の家族だった。
彼らは俺たちの入室に気づく様子もなく、食堂の数少ないテーブルを占領して傍若無人に振る舞っている。
村の宿には不釣り合いなほど大量の料理を並べ、食い散らかした残骸を床にまでぶちまけていた。
周囲のテーブルに座る数少ない他の客たちは、あからさまに不快そうな表情を浮かべていた。
ある老夫婦は、自分たちの足元にまで飛んでくる食べカスを避けるように身を縮め、黙々と食事を済ませて逃げるように席を立っていった。
別の角に座る行商人風の男も、苦虫を噛み潰したような顔で、耳を塞ぎながら自分の料理を急いで口に運んでいる。
誰もがその異常な騒がしさに迷惑していたが、関わり合いになるのを恐れて、ただ静かに耐え忍んでいるようだった。
アヤメが俺の陰に隠れるようにして、眉をひそめる。
俺が主人に宿泊の記帳を頼もうとした、まさにその時だった。
「ゲッ! 見ろよパパ、さっきのノロマな貧乏人だぞ!」
口いっぱいに肉を頬張っていたガキが、ようやくこちらに気づいて汚い指を差した。
父親が酒の入った杯を片手に、椅子をガタンと激しく鳴らして立ち上がる。
「あぁん? どこの馬の骨かと思えば。おいおい、泥だらけで中に入るんじゃねえよ。俺たちと同じ空気を吸うってのか。外の厩舎がお似合いだぜ!」
ガキも父親の真似をして、勝ち誇ったような顔で囃し立てる。
「やーい、貧乏おじさん! 汚いからお外で寝てろよ!」
周囲の客たちは一瞬こちらを見たが、すぐにまた「関わらないでおこう」という風に視線を落とした。
俺は深いため息をつき、困り果てた顔で立っている宿の主人に向き直った。
「……主人、悪いが近くに別の宿はないか。あいにく、ここは少し騒がしすぎるようだ」
主人は申し訳なさそうに眉を下げ、声を潜めて首を振った。
「旦那、お気持ちは分かりますが……。この村に宿はうち一軒きりなんです。次の村までは山道をあと三刻は歩かなきゃなりませんぜ。この時間じゃ魔獣も出ますし、ここでお休みになるのが賢明です」
夜の山道をアヤメを連れて進むのは、現実的ではない。
俺はアヤメの顔を見た。彼女はひどく疲弊しており、今にも立ったまま眠ってしまいそうだった。
「……分かった。一番端の、なるべく離れた部屋を頼む」
夕食を簡単に済ませ、逃げるように二階の板張りの部屋へ入ったが、本当の地獄はそこからだった。
建付けも壁も薄い宿屋だ。一階の食堂で酔い潰れて騒ぎ続ける家族の馬鹿笑いや怒鳴り声が、床板を通して筒抜けだった。
ドスン、ドスンと床を蹴る音。ガシャンと皿の割れる音。
そして、あのガキが廊下をドタバタと走り回り、俺たちの部屋の前を通るたびに、わざと床を強く踏み鳴らしたり、隣の空き部屋の扉を思い切り蹴飛ばしたりしていく。
「ぎゃははは! 逃げろ逃げろー!」
誰に向けてでもない叫び声と、制御の利かない騒音が古い建物の木枠を激しく震わせる。
直接こちらに言葉を投げてくるわけではないが、その無遠慮な騒ぎ方は、明らかに宿全体の安眠を妨害していた。
アヤメは耳を塞ぎ、薄い毛布にくるまって震えていた。
「おじさん……うるさくて……眠れないよ……」
「我慢しろ、アヤメ。明日にはここを出る。国境はもうすぐだ」
結局、あの家族の乱痴気騒ぎは夜半を過ぎても収まることはなかった。
彼らが階段を駆け上がっては喚き散らし、自分たちの所有物でもない備品を乱暴に扱う音が、一晩中宿の中に響き渡る。
俺は暗闇の中で、じっと天井を見つめ、静かに怒りを押し殺しながら、ただアヤメの背中を見守り続けた。
夜風が建付けの悪い窓を叩く音に混じって、下劣な笑い声がいつまでも湿った空気を不気味に震わせていた。




