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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第14話 鉱山

 山道を抜けた先、夜の深い闇の中に禍々しく浮かび上がったのは、不当な採掘によって無残にその山肌を抉り取られ、剥き出しになった鉱山の管理棟だった。

 松明の炎が赤黒く揺らめき、周囲には掘り起こされた硬質の岩石が不気味な小山をなしている。

 夜通し稼働し続ける重機の軋む音は、まるで山そのものが絶望に震えて上げる悲鳴のように、夜の静寂を執拗にかき乱し続けていた。

 俺は湿った夜風に身を委ね、気配を完全に断って石造りの外壁を音もなく這い上がった。

 狙うは最上階、殺伐とした採掘現場にはおよそ不釣り合いなほど、贅を尽くした豪華な装飾に彩られた執務室だ。

 窓の鍵を音もなく外し、滑り込むように室内へ足を踏み入れる。

 そこには、村からさらってきたであろう若い娘を無理やり膝に抱き寄せ、怯える彼女の首筋に鼻を寄せては卑猥な笑みを浮かべ、高価な酒を喉に流し込む管理責任者の男がいた。

 その濁った瞳には、虐げられる者への慈悲など欠片も存在せず、ただ自己の欲望を満たす悦楽だけがギラついている。


「……誰だ、貴様!? 見張りの連中はどうした、答えろ!」


 男が驚愕に顔を上げ、膝の上の娘を無造作に床へ突き飛ばして酒瓶を落とした瞬間、俺はすでに死の圏内へとその間合いを詰めていた。

 床に投げ出された娘は、腰を強打した痛みと突如現れた侵入者への恐怖で、声も出せずにガタガタと震えている。

 懐から音もなく引き抜いたのは、窓から差し込む月の光を浴びて銀色に鈍く、不吉なまでの輝きを放つ先割れスプーンだ。


「安心しろ。お前の喚き声は、外の重機の音にかき消されて誰にも届かない。……この鉄屑がお前の喉を裂く音もな」


 男は慌てて机の脇に立てかけてあった細身の護身剣を掴もうとしたが、その指が柄に触れるよりも早く、俺の右手が閃いた。

 銀光が空を奔り、先割れスプーンの鋭利な先端が、男の右手の甲を深く貫き、机の木材ごと縫い止める。


「ぎ、あがぁっ……!?」


 悲鳴が上がる寸前、俺は左手で男の顔面を鷲掴みにし、強引にその声を喉の奥へと押し戻した。

 男の目が恐怖で見開かれ、脂ぎった顔から冷や汗が噴き出す。


「静かにしろと言ったはずだ。……お前が川に流した泥の分だけ、苦しんで死ね」


 俺は縫い止めたスプーンを冷酷に引き抜き、のたうち回る男の喉元を、狙い違わず深く突いた。

 食事の席では滑稽な道具に過ぎないその代物が、俺の手中に収まれば、いかなる名工が鍛え上げた名剣をも凌駕する、無慈悲な死神の暗器へと変貌を遂げる。

 肉を断ち切り、気管を抉る確かな感触。

 男は必死に空気を求め、水から上げられた魚のように口をパクつかせるが、その喉からはただ血泡が漏れるばかりだ。

 容赦のない二度、三度の刺突。

 頸動脈を無残に断たれた男は、言葉にならない喘ぎを漏らしながら、絶望と後悔に染まった瞳で俺を見上げ、やがて重い物音を立てて冷たい床に沈んでいった。

 俺は動かなくなった男から視線を外し、部屋の隅で縮こまっている娘を見た。

 彼女は血の海に沈む男と、返り血ひとつ浴びていない俺を交互に見て、過呼吸気味に肩を揺らしている。


「……外の見張りは眠らせてある。今のうちに村へ帰れ。誰にも見られずにな」


 俺が低く告げると、娘は弾かれたように立ち上がり、一度だけ深く頭を下げると、夜の闇に紛れるように部屋から逃げ去っていった。

 彼女の足音が消えるのを見届けてから、俺は男の死体のそばに膝をついた。

 死後硬直が始まる前に、男の震える指から滑り落ちた一枚の書状を拾い上げる。

 そこに刻印されていたのは、やはり、この近辺一帯を支配する強欲な領主の紋章だった。

 羊皮紙に記された命令系統は、この鉱山が単なる一私人の犯罪ではなく、地方領主による組織的な搾取の現場であることを克明に示していた。

「ふん……やはりな。こいつも、あの領主に飼い慣らされた番犬の一匹に過ぎないことは分かっていたさ。川の汚れも、若者の叫びも届かないわけだ」

 確信は変わらなかった。この鉱山から上がる、血と泥にまみれた不浄な利益。そのすべては、予定通りこの地の領主の底なしの懐へと注ぎ込まれていた。

 この書状一枚に、何人もの村人の涙と、汚された山河の無念が詰まっている。

 現場の責任者一人を仕留めたところで、想定していた通り、元凶である腐った根を断ち切らぬ限り、この惨劇は何度でも繰り返されるだろう。

 次の番犬が送り込まれ、再び川は濁り、若者たちは絶望に沈む。


「……予定通りと言うべきか。本当の静かな夜を取り戻すには、まずこの地の腐りきった根っこを、根こそぎ引き抜かなきゃならない」


 俺はスプーンに付着した不浄な汚れを、男が愛用していたであろう高級な絨毯の端で静かに拭い取った。

 絨毯に吸い込まれていく赤い染みを冷ややかに見つめ、銀の輝きを取り戻した武器を再び懐に収める。

 俺は背後の闇へと溶け込み、再び窓の外、深い夜の帳が支配する山道へとその身を投じた。

 冷たい夜風が頬を叩くが、俺の心にあるのは、次なる獲物への冷徹な殺意だけだった。


 翌朝、目を覚ましたアヤメは、窓の外を流れる川が昨日よりも心なしか輝きを取り戻していることに気づき、弾んだ声を上げた。


「おじさん、見て! 川が、昨日の夜よりもずっと綺麗になってるよ! お魚さんも喜んでるみたい!」


 キラキラとした瞳で川面を見つめるその無邪気な笑顔に、俺は小さく頷くだけに留めた。

 昨夜、あの暗い鉱山の管理棟で誰の血が流されたのか、そして銀のスプーンが何を貫いたのか、彼女が知る必要はない。

 俺たちは旅の荷物をまとめ、この一帯を支配する領主の膝元、その巨大な宮殿がそびえ立つ中心街へと向かった。

 だが、街の中央広場に差し掛かった瞬間、俺たちの目に飛び込んできたのは、静まり返った通りで執り行われる、冷酷な「法」の執行だった。


「――以上の不備により、本件は領主代行令に基づき、即刻の家財没収を宣告する。取り立てに際しての不服申し立ては、一切受理しない」


 紋章入りの見事な官服に身を包んだ役人たちが、無表情に羊皮紙を読み上げている。

 その足元には、長年住み慣れた家から放り出された老婆が、震える手で役人の裾に縋り付いていた。


「お待ちください、お役人様……。川が濁り、畑を失ったのは私どものせいではございません。どうか、孫の薬代だけでも……」


 役人は老婆の懇願を、事務的な冷徹さで一蹴した。


「公共の利益を損なったのはお前たちの管理不行き届きだ。法は平等である。……おい、次の『不適切家屋』へ向かうぞ」


 役人たちの背後では、彼らの命令を受けた私兵たちが、粛々と家の中に土足で踏み込んでいく。

 暴力的な怒声はない。ただ、書類上の手続きとして、淡々と民の生活が破壊されていく。

 町の人々は皆、家の中に閉じこもり、窓の隙間から怯えた目で見守ることしかできない。


「へっ、この土地じゃ男爵様の法がすべてなんだよ。手続きは完璧だ。文句があるなら遠い王都の裁判所まで訴えに行くか? ……受理されるまでに、その命が保てばの話だがな」


 別の役人が、整えられた髭を撫でながら、法律という盾の陰で下卑た笑みを漏らした。

 爵位こそ低いが、中央の監視が届かないのをいいことに、独自の法を敷いてこの地の絶対的な王として君臨する男爵。

 その番犬どもの、官僚的な皮を被った横暴は、街の隅々にまで逃げ場のない毒として染み渡っていた。

 アヤメが俺の服の裾を、指が白くなるほど強く握りしめる。


「おじさん……あんなの、おかしいよ。法って、人を助けるためのものじゃないの……?」


「……いいや。あいつらにとって法は、自分たちの欲望を正当化するための道具に過ぎない」


 俺の胸の中に、冷たい、しかし確実な殺意が静かに灯った。


「アヤメ、ニヴァリスへ向かう前に、少しだけ寄り道をしよう。この街には、あまりに不格好な『食べ残し』が散らかっていてね。放っておくと、せっかくの朝食が不味くなる」


 俺たちは街道を進み、領主の宮殿へとさらに近づいた。

 沿道に並ぶ民草の家々は屋根が朽ち果て、壁はひび割れて荒廃しきっている。

 というのに、街の中央にはその貧しさを嘲笑うかのように、巨大で豪華な宮殿がそびえ立っていた。

 天を突くような白亜の塔や金色の装飾。

 その虚飾のすべては、あの鉱山で流された毒と、整った書類の裏で奪い取られた民の涙によって築き上げられた魔窟そのものだった。

 その夜。俺は宿屋の一室で、長旅の疲れから深い眠りに落ちようとしているアヤメの傍らにいた。


「おじさん、またどこかへ行くの……? 置いていかないでね……」


 まどろみの中で、不安を打ち消すように俺の服の裾を強く掴む彼女の小さな指先。

 俺はその手を優しく解き、彼女の耳元で、嵐の前の静けさのような安らかな声で囁いた。


「大丈夫だ。少し、忘れ物を取りに行くだけだ。次に目が覚める頃には、この街も少しは静かになっているはずさ」


 アヤメの呼吸が一定になり、安らかな寝息を立て始めたのを確認すると、俺は夜の静寂に同化し、音もなく宿の裏窓から抜け出した。

 目指すは、冷たい月光を浴びて青白く浮かび上がる領主の宮殿。

 門で見張りに立つ男たちは、領民から奪い取った高価な酒と肉で肥え太り、闇の中から音もなく忍び寄る死神の気配に、微塵も気づく様子はない。

 俺は影から影へと渡り、装飾過多な石造りの外壁を垂直に登り詰めると、最上階に位置する領主の寝室へと、一筋の不吉な風のように滑り込んだ。

 室内には、むせ返るような香油の匂いが鼻をつくほど充満している。

 天蓋付きの豪奢なベッドには、自らが汚した川の末路や民の苦しみなど知る由もない、醜悪な肥満体の領主が、傲慢な寝息を立てて横たわっていた。

 俺は懐から、あの先割れスプーンを静かに、しかし確かな殺意を込めて取り出した。

 鉱山の責任者を屠った後、再び冷徹な銀の輝きを取り戻したそれは、今夜、身分不相応な夢に溺れる男を処刑するための唯一無二の道具となる。


「……お前の贅沢な夢も、ここで終わりだ。爵位も、お前が作った法も関係ない。噂通り、お前は少しばかり肥えすぎた。……その脂ぎった喉元、俺が綺麗に『掬い取って』やる」


 俺が冷酷に呟いた瞬間、領主が本能的な死の恐怖に駆られたのか、薄らと目を開けた。

 だが、助けを求める悲鳴を喉から絞り出すよりも早く、俺の右手の中で銀光が爆発した。

 スプーンの鋭利な先端が、領主の喉笛を深々と貫き、一瞬でその声を封じ込める。


「が、あ……っ、ごふっ……!」


 鮮血がシーツを汚し、のたうち回る領主の胸元を、俺はさらに無慈悲に抉り抜いた。

 本来、命を繋ぐための食事の道具が、今は命を断ち切るための最短距離を、最も効率的に奔る。

 やがて、豪華なシルクのベッドがどす黒い噴水のような鮮血に染まり、領主の絶望に満ちた瞳から、光が完全に失われた。

 俺は静かにスプーンの汚れを拭うと、死体の傍らに、あの鉱山で見つけた不正の証拠となる書状を投げ捨てた。

 いずれこの地の腐敗は白日の下に晒され、圧政に苦しんだ民に、今度こそ自由な新しい風が吹くだろう。

 宿に戻ると、アヤメはまだ安らかな寝息を立てていた。

 俺は彼女の枕元で、月明かりを頼りに、静かに銀のスプーンを磨き直す。


「さあ、明日こそニヴァリスへ向おう、アヤメ。本当の夜明けは、もうすぐそこまで来ている」

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