第13話 旅立ち
「……隣国、ムステラ王国の王都『ニヴァリス』。そこへ行きなさい」
フランチェスカが静かに、だが拒絶を許さぬ響きで告げたその名に、俺は思わず耳を疑った。
「王都……ニヴァリスだと?」
よりによって、あそこを指定されるとは。
俺は無意識に懐の奥底へと手を伸ばす。
指先に触れたのは、冷たくて、場違いなほど滑らかな金属の感触――。
あの、忌々しくも奇妙な先割れスプーンだ。
あそこは、俺をこんな奇妙な運命に放り込んだ元凶の地。
あろうことか、あの街の冒険者ギルドで、俺はこのスプーンを「伝説の武器」として手渡されたのだ。
何より、そこには俺がかつて所属し、なんとも言えない気まずい空気のまま決別した冒険者パーティーの連中がいる。
正直、二度と顔を合わせるのも億劫だと思い、あの日以来、意図的に王都から距離を置いて遠ざかってきたというのに。
「あそこなら、この街よりもずっとまともな教育が受けられるはずよ」
フランチェスカは、すべてを自分の手の内で転がしているかのように不敵な笑みを浮かべた。
「アヤメちゃん、ニヴァリスには大陸でも有数の歴史ある教育機関があるわ。あなたをそこへ通わせたいの」
その眼差しは、アヤメという少女の未来を、チェスの駒を並べるように冷徹に、それでいて彼女なりの「正解」へと導こうとしているようだった。
「読み書きや、世界の広さを学ぶには一番の場所だわ。あなたの才能を、こんな吹き溜まりのような場所で腐らせるわけにはいかないもの。……あなたは、もっと高い場所へ行くべきなのよ」
フランチェスカのただならぬ決意に、アヤメが不安そうに俺の袖を掴んだ。
小さな手の震えが、服越しに伝わってくる。
「アヤメ、どうする? あそこは……まあ、賑やかだけが取り柄のような場所だが、お前の将来を考えれば悪い話じゃない」
アヤメは俺を見上げ、その瞳に迷いと、それ以上の信頼を宿して頷いた。
「おじさんが行くなら、私も行く。その……綺麗な景色、見てみたい。お勉強も、頑張るから」
「話は決まりね。……でも、道中は気をつけて」
フランチェスカは窓の外、淀んだ空気の向こうを一瞥した。
「今、この街と王都を結ぶ街道は、盗賊の活発化で馬車の定期便が完全に止まっているわ。商人たちも足踏みしている状態よ」
「あなたたちは、自分たちの足で、あの険しい峠を越えていかなければならない。誰の助けも期待できない、過酷な旅になるわよ」
馬車が使えない。それは、数週間に及ぶ強行軍を意味していた。
しかも、アヤメという幼い同行者を守りながらの旅だ。
「歩きか。……まったく、あんたの持ってくる話は骨が折れるな」
「その代わり、道中もこの子にとっては生きた学びになるはずよ。……これを」
彼女は、どこか遠い目をして微笑むと、慈しむような柔らかな手つきで小さな布袋を俺に託した。
中には数日分の堅焼きパンとドライフルーツ、それにこの界隈では見かけない純度の高い銀貨が数枚、静かに音を立てて詰まっていた。
「……恩に着る。これだけあれば、しばらくは困らないだろう」
俺は短く答え、アヤメの小さな手を握り直した。
「行くぞ、アヤメ。ここがお前の居場所じゃないなら、俺たちが新しい場所を見つけるだけだ。まずは、あの高い壁の向こうへな」
「うん、おじさん!」
俺たちはフランチェスカの屋敷を後にした。
澱んだ空気の漂う通りへと踏み出し、重苦しい静寂に包まれた街の外へと続く道へ向かって一歩ずつ歩き出す。
ふと気配を感じて振り返ると、今しがた出てきた屋敷の二階、その窓の内側に、彼女の手下である猿のような風貌の男が影となって佇んでいた。
男はじっとこちらを見送っているようだったが、室内の暗がりと逆光のせいで、その顔にどんな表情を浮かべているのかまでは読み取れなかった。
ただ、得体の知れない視線だけが、俺たちの背中にねっとりと張り付いていた。
手元にあるのは、一通の紹介状と、あの街で「武器」として受け取ってしまった先割れスプーン。
これから始まる長い旅が、アヤメにとっての希望の光となるのか。
それともかつての仲間との気まずい再会、あるいはそれ以上の混沌に繋がるのか。
それはまだ、誰にも分からなかった。
乾いた赤土の大地が、どこまでも果てしなく続き、地平線の向こうへと消えていく。
吹き抜ける風は湿り気を一切含まず、ただ乾いた砂塵を巻き上げては、俺たちの喉を容赦なく焼いた。
俺とアヤメは数日間、遮るもののない荒野を歩き続けた。
昼間は脳を炙るような強烈な陽光に晒され、夜になれば一転して骨まで凍てつくような夜露に耐えなければならなかった。
ようやく辿り着いたのは、深い谷間の底にへばりつくようにして佇む、「錆び土の村」だった。
「おじさん……あっち、村かな? なんだか、とっても暗いよ。お家がいっぱいあるのに、明かりがついてないね」
アヤメが不安そうに俺の服を引く。
「ああ、そうだな。だが、今夜の宿を見つけなきゃならない。行くぞ」
村の入り口では、かつては村を見守っていたであろう巨木たちが、どれも無残に立ち枯れていた。
葉の一枚もなく、天を呪う亡者の指のように痩せ細った枝が、灰色の空を掻き毟っている。
村の中に足を踏み入れても、生活の匂いは微塵もしなかった。
通りがかる村人たちは、一様に重く肩を落とし、濁った瞳でただ自分の足元だけを見つめていた。
「……おじさん、あのお花、元気がないね。お水、足りないのかな。お腹すいてるのかも」
アヤメが立ち止まり、道端のひび割れた土の隙間から顔を出した、小さな野花を指差した。
本来なら色鮮やかに咲き誇るはずの花弁は、どす黒く変色して縮れ、命の灯火が消えゆくのを待つばかりとなっていた。
「水だけじゃない。この土地そのものが、悲鳴を上げてるみたいだ」
俺は何も答えられず、ただ彼女の小さな手を強く握り直すことしかできなかった。
俺たちは村の端、傾いた看板が風に鳴る古びた宿屋に転がり込んだ。
宿屋を切り盛りしているのは、腰が深く曲がり、顔じゅうに深い皺を刻んだ老婆一人だった。
老婆は俺たちが差し出した数枚の煤けた硬貨を震える手で受け取ると、申し訳なさそうに夕食を運んできた。
それは驚くほど透き通った、味の薄いスープだった。
「せっかくのお客さんだけど、うまいもんは何もありゃしないよ。許しておくれな。この村の土は、もう死んじまったんだ」
老婆は力なく笑い、煤けた窓の向こう側に広がる広大な畑を指差した。
「あの山を見てごらん。あそこにそびえる鉱山を掘っている連中が、掘り出した岩から出る毒を、そのまま川に流しやがるんだ。川の水は腐り、その水を吸った土も死んだ。作物も育たず、家畜も死に絶えた。村の連中は皆、いつか訪れる最期を待つばかりの亡霊さ」
「ねえ、おばあさん。えらい人に『やめて』って言えばいいんじゃないの? 『困るよ』ってお話ししたら、わかってくれるよ?」
アヤメが、震える声で素朴な疑問を口にした。
「もちろん、何度も行ったさ。だが、あそこにいるのは情け知らずの荒くれ者ばかりだ。あいつらの責任者に掛け合おうとした若い衆もいたがね……」
老婆はふっと目を伏せた。
「『俺たちの邪魔をするなら、村ごと消してやってもいいんだぞ』。そう笑いながら、鉄パイプや鞭で殴り飛ばされるのがオチだよ。あいつらにとって、俺たちの命なんてのは、道端に転がる石ころほどの価値もありゃしないんだよ」
その残酷な言葉を裏付けるように、深夜、静まり返った村の広場から鋭い悲鳴と、獣のような野卑な笑い声が響き渡った。
俺が窓の隙間から外の様子を伺うと、松明の赤黒い明かりに照らされた広場で、鉱山の作業員たちが一人の村の若者を地面に組み伏せていた。
「おい、もっと大きな声で謝れよ! 俺たちの仕事のおかげで、この村に僅かばかりの金が落ちてるんだ。毒だなんだと、贅沢抜かすんじゃねえぞ、この薄汚いゴミ屑が!」
「やめろ……頼む、もう母さんも病気で……川を汚すのだけでも……」
若者の必死の訴えに、リーダー格の男は泥に汚れた厚手の革靴を振り下ろした。
「うるせえ! 川なんてのは流れるゴミ捨て場だろうが!」
周囲を取り囲む男たちはそれを見て、酒瓶を片手に腹を抱えて笑い転げていた。
暗闇の中で響く肉を打つ音と、絶望に満ちた呻き。
アヤメが恐怖に震えながら、俺の服の裾を千切れるほど強く握りしめる。
「おじさん……あの人、ひどいことされてる。あんなに殴られたら、死んじゃうよ……。お願い、助けてあげて……」
その小さな指先は、恐怖で氷のように冷たくなっていた。
俺は彼女の頭をそっと撫で、彼女にだけ聞こえる声で告げた。
「大丈夫だ。……全部、俺が引き受ける」
俺は、今回の旅の目的地でもあるあの王都で、あろうことか「武器」として受け取ってしまった奇妙な代物を、懐から静かに取り出した。
月の光を反射し、銀色に鈍く、不吉な輝きを放つ先割れスプーン。
「アヤメ、少しの間だけ目を閉じて寝ていろ。目が覚める頃には、静かな夜に戻っているはずだから」
「……うん。気をつけてね、おじさん」
俺は夜の静寂に同化し、気配を完全に消した。
死神の如き足取りで宿の裏窓から滑り出すと、俺は深い闇が支配する山道へと、一人溶け込んでいった。




