20.『欲情』
群青色の空の下。日課を終え、風に乗って聞こえてくる歌声を頼りに、少年は歩みを進める。
「おはようございます」
「あら。おはようございます」
心を落ち着かせるピアノやハープの音色等しく、〈歌姫〉の声は人を惹き付ける魅力がある。カムイにとっては、音を奏でるために作られた楽器よりも、彼女の声の方が好感が持てた。
叶うなら毎日聞きたいのだが、留守が多くなるとアリスに怒られるので、たまにこうして歌を聞きに来ている。
「今日も聞きに来てくださったのですか?」
「はい。先輩の歌は心を穏やかにしてくれるので」
「むぅ。ふたりの時は、ヴィーとお呼びくださいとお願いしたのに……まだ一度も呼ばれていません」
年頃の乙女よろしく、歌姫は頬を膨らませて不満をぶつける。
カムイは新鮮な感覚に見舞われる。初めは頬を膨らませるどころか、微笑みを崩さなかったのだ。
日に日に当初の印象からかけ離れていく現実を、少年は学園生活の醍醐味である、変化する関係性として楽しんでいた。
「すみません。愛称で呼ぶのになれていなくて……」
入学前の日常を思い出しながら少年は苦笑する。
「では、わたしで慣れてください。お友だちに求められた時にしっかりと応えられるように」
地獄の日々を抜け出そうと必死だった頃なら、お人好しや偽善者風情と斬り捨てていただろう。
泥水の中でも花を咲かせる睡蓮のように、生きるために、守るために必死だったカムイの、羽を休める場所になるのかもしれない。
――そう。本当の意味で戦場に咲く一輪の花が、どれほどの存在なのかを。〈歌姫〉と呼ばれる彼女が何故、序列4位なのかを、この時のカムイはまだ知らなかった。
「分かりました。お言葉に甘えますよ、ヴィー。前言撤回と言われても聞きませんから」
「はいっ。胸をお貸しします」
花開くかの如く、嬉しそうに笑顔が咲いた。
「そろそろ時間です。また、お話ししましょう」
「喜んで」
会釈を交わし、ふたりは別々の通路を歩いていった。
◆◆◆
良い気分で寮へと戻り、部屋の扉を開けた彼は衝撃の光景を目の当たりにする。
「なっ――」
「戻ったかカムイ。……何じゃ、呆けた顔で固まりよって」
朝一番のお風呂に入り、たった今出てきたのだろう。頭にタオルを乗せて、湯気を立ち上らせた白い肌を余すことなく晒したアリスが出迎えた。
少年は視線を逸らす。仄かな赤みを帯びた顔は、正面を向いたままでだ。
「迂闊だった」
「ほお? もしやそなた、わらわの可憐な肢体に欲情しておるな?」
「欲情言うな!」
「初めてではないであろう。無垢なところは変わらんの、悪くはないが」
悪戯っぽく笑みを浮かべて、アリスは生まれたままの姿でカムイに抱きつく。
制服が濡れる上に、色々な危機の原因を引き剥がしたいがアリスは何も着ていない。行動に移すには、直接肌に触れなければならないのだ。――これなら新入生全員を同時に相手した方が楽だぞ、と少年は心の中で嘆く。
――コンコンコン。
扉をノックした音がふたりの耳に届く。
「――っ!?」
「カムイ、起きてるかー? 朝飯を食べに行こうぜー」
何と言う偶然か。成す術を失っていたカムイに、希望の光が差し込んだ。
「バンか。すぐ行くから少しだけ待っててくれ」
「おう」
深呼吸をして早くなった鼓動を鎮める。自分に抱きつく相棒の頭にぽんと手を置き、濡れた髪を優しく撫でながら少年は告げる。
「時間切れだ。俺の油断とは言え、朝に仕掛けるべきではなかったな」
「宣戦布告じゃな。良かろう、覚悟しておれ」
ようやく解放されたカムイの全身を疲労が襲った。肉体と精神の両方を疲れさせた原因の方は見れず、床に視線を落としてため息をついたのだった。




