➅ 千羽目
夢の中は崩壊せず続いていた。
キラキラとないだ水面。そこを流れる鶴達。私の命の一つであるのに、その鶴はすぐに私の元から離れていく。簡単に、それが当然のように。そんなことあっていいのか。良いに違いないと思考は肯定する。
教室に流れる時間は感じられず、ただ彼女の声だけが響く。
「年間死ぬ人は…」
そんなもの私が覚えているはずない。彼女の知識は私の知識に由来する。彼女は私なのだ。私が思ったことを吐き、私がしてほしいことをする。以前ガンについて言っていたが、がん治療がどれほど恐ろしいものであるか、老衰がどれだけ苦痛であるのか、今死ぬかそういう年老いて病気で死ぬか、どちらの方が苦痛か、私は知らない。私が知らなければ、吉だって知らない。当然吉の口をついて出て来るこの言葉の数々は非現実的な知識になる。
それでは、今この夢の中でいる彼女は一体何のために現れたのか。
「もう出てこないと思っていた」
彼女を見ないと思っていた。だって、もう私はどうしたいか分からないもの。彼女は私が死に対する時に現れていた。見えていた。でも、今はそうじゃない。どの選択肢も先が見えないのだ。彼女はそんな中で現れた。
「何でいるの?」
あれだけ恋い焦がれた相手なのに、既に自身の幻影だと知っていたから悲しくなる。彼女を視えてしまう私の未熟さに、友達がいない孤独さに、孤独を埋めようとして吉を作ろうとすることに、自身の心を痛めてしまう。
彼女は思ったよりも私にそっくりだった。黒い髪の毛。白い柔肌。それを美しいと、理想だと言ってしまった私自身に嫌気がさす。あの日はどうかしていたんだ。私はそれほどまでに『生』と『死』の境目で立ち往生していたと言うことだ。
「約束、覚えている?」
何度同じ質問をするのだろう。飽き飽きしてきた。
「覚えているって……」
「もう一度約束しない?」
吉は寝る前に折った鶴を机に置いた。ぽつりと置かれたその鶴は他の鶴が居ないからか寂しげだった。夕日の赤が視界を遮る。吉の顔がよく見えなくなってきた。赤く赤く染まる教室の中。私は瞬きし、それでもその赤は取れないので、手をかざした。目を細めて、目の前の吉を見やる。
「私は約束したよね。千羽折れれば一緒に死のうって。でもさ、私は千鶴で、もう死んでいるわけで、こうしていることすらおかしいんだ。私は風化した記憶の断片でしかないからね。千鶴が後悔して後悔して作った偶像。それに縋っても変わらない」
「何度も縋っても出てこなかった」
「それは、別の何かが重かったから。だから、考えた。別の何かでこうして辛いのなら、その辛い何かを取り除けるかって。今死ぬか後で死ぬか。その違いしかない『死』なら、賭けてみなよ。この鶴の数ほどある記憶や感情を。千鶴の周囲の全てを」
瞬きを繰り返すと、目の前に記憶が流れてきた。それらは全て鶴に込めていった記憶達だった。映画のワンシーンが目の前に映し出される。映像ではなく場面として。四角い場面は、素早く映し出され、私が理解すると同時に消えていった。すると次には違う場面が映し出される。吉はそれを従えているかのように場面の前に居た。
吉がにっこりと私に笑いかける。
「私はこの中のほんの一部」
それでも、私はこの吉らしき自分が大事だったのは変わりなかった。いなかったら、おそらくこんなに悩まない。ここ数日間で起こったことも、自問自答も、彼女と言う存在なしでなしえなかった。足元の鶴にかけられた願いの塊が彼女だった。
「約束してよ」
目の前の吉と思しき自分は小指を差し出してくる。
「この鶴全部賭けよう。死ぬんなら、千鶴がこの鶴全部捨てること。全て賭けること。生きる意味なんて、死ぬ意味なんて、本当の所これが全てでしょ?」
一緒に自殺しない?
ねぇ、しようよ。死のう?一緒に。
変わらない契約だ。
こくんと頷く。
元よりそのつもりだった。
「全て賭けたつもりだった。世界も全て憎んだつもりだった。一思いに首を絞めて目の前の全てを消すつもりだった。邪魔だって言われたかった。平坦な日常に不意打ちを与えるはずだった」
じゃあ、生きなよ。
彼女は言うだろう。
それだけなら、この差し出された小指にも易々と答えてあげられたはずだった。
「生きる意味が見つからない。死ぬ意味もない。その全て放棄してまで賭けるの? 契約して、これ以上何もないのに。それなのに、私は生きなきゃならなくて、どうすれば答えがでるかも…」
「答えや意味なんて出ているんだよ」
彼女は、木村吉野が、私の理想像が、私の答えの形が遮った。
「とっくの昔にね」
知っているはずだ。彼女が何を言うのかも、それなのに彼女に言わせているのは、彼女に会いたくて夢に出てしまっているのは、そんな答えに納得がいかないからだ。受け入れなければならない現実があって、それから既に逃れられないまでに答えが出ているからだ。
これまで思っていたことを彼女は否定する。それが私の本音だから。納得させるための私の中身だから。だから、この吉はただの私の弱さと厳しさなのだ。誰にも言えない孤独の証なのだ。後押しをするのはいつだって、『自分』しかいない。私は、人は孤独なのだ。
吉がちゃぷっと水面から片足を上げる。次の瞬間、流れて来た鶴目がけて足を踏み込む。
「待って」
吉の小指をたてた手を、両手で握った。
おはよう。
薄目を開けると夢から覚めていた。
明日が見つかった気がした。私は此処に居る。此処に存在し、律儀にも命を消費している。死んだように息をしている。ただただ生きている事実がある。
どれだけいろんな表現をあげようが変わらない。変わっていない。変えようとしていない。どうせ変わらない。納得しない。
私の生きる意味を、両手で受け取ってしまった。
込み上げてくる涙が頬を痛めた。
自室に鶴はまだ散乱している。それは適当に放り投げたものでしかなかったのに、踏みつけたことがなかった。知らないうちに大切なものになっていたのかもしれない。恨み辛みしか願っていなかったはずなのに。嘘みたいに大切なものになっていた。
息を吐いた。
惰性で今日の用意をして、外に出る。
今日も変わらず平均的で平凡な顔立ちで背もそこらの男子と変わらない身長をしている目片君が居る。彼はここ数日朝に出張っている。
息を吐く。
朝のけだるい空気は感じていない。まだ健やかな空気を吸える。それなのに、今日な感覚がない。明日になっているのに、今日でもなく、今日はない。どこに今があるのだろうか。いつもと変わらない空気を感じていたんだ心が蝕んでいく。今は『無』だ。
納得しない答えに居座り続けている。受け取れるはずない。あんな約束。私は全部なくしたはずなのに。私は、私がわがままでやっていたことが意味と記憶になって、周囲が感情を呼び起こした。呼び起こしてもあるのは、痛みだけだ。何で、こんなものに振り回されているのだ。
「そう言えば、忘れてた。渡すものがあるんだ」
目片君がポケットから小さな手紙を見せてくる。
「昇降口で拾ったんだ。お前宛に佐々木友恵からだと思う」
「いらない」
早歩きで目片君を越して学校へ向かう。後ろから目片君がついて来る。一緒の学校だからしかたないのにいらいらした。どうしてこんなものが今の意味になるんだか分からなかった。これが答えなのが受け入れられなかった。
おい、と後ろか目片君がついてくる。こんな朝の風景に、焦りと悲しみと悔しさが滲んで躊躇わせる。ここから逃げてはいけない。私の中の吉が告げている。
そんなこと知らない。私は私だ。
「放っといて」
今日は学校へ行く気が起きない。もやもやといらいらと、もうなんだか分からない感情がごったがえしていた。夢で何で吉があんなにはっきりした主張をしていたのか分からない。分かっていないよ。まだいきたいよ。こんな日常、壊したいよ。
さよなら
駆けだした。
後ろからついてくる目片君も、朝に歩いて登校するこの日常も全て置き去りにして、走った。走って、走って、走って、車が来ているのに、気づかないほどに。
ブーーーーーーーーーーーーーー
クラクションが鳴る。でも、私の目の前で車は止まった。私には怪我一つない。横断歩道は赤色の信号。運転していた人は慌てて飛び出て来た。
でもね、大丈夫なんだ私。何も怪我してない。ケガ、ない。ないない。
「山岡、大丈夫か?」
目片君はまだついてくる。
うるさいっ!
また逃げた。今度は橋に向かって。運転手も置き去りにして。
日差しが出てきて、肌を焦がす。熱い鉄板の上で必死に駆けているようだった。一方で日常はぬるま湯のような現実が続いている。このぬるま湯はじわじわと私の喉を締め付ける。息を吐くことも吸うことも出来ない。させてくれない。誰もこの感情を理解してくれず、身近の『死』は呆れるほどに痛みがない。心が壊れないし、感情は近ければ近い程、感じてしまう。遠くの『死』は?『生』は?それに憐れんでどうなるの? 私は遠くの『生』や『死』を身近に感じて、身近な痛みを表現してはいけないの?
そんな現在を受け入れられない。納得できない。
橋の手すりにしがみつく。
あの日みたいに行くんだ。
「いかせて」
小さく呟く。
それなのに、感情が言うことをきかない。
さよなら、何度もつぶやくのに手すりから向こうへ手を伸ばせない。
「お願い」
うなった。
「何で」
悔しくて涙が流れた。
「ああああ」
手すりから手が滑る落ちて、その場に崩れてしまった。
「お願い。お願い。お願い」
もう決まっていたんだろう。知っていたんだろう。昨夜の夢が如実に言っていた。
私のこれまでの記憶は、感情は、確かに生きる意味の一つなんだって。
これが重みの正体。いけない理由と死なない理由。私が消えることでこの重みが消える。あの千羽鶴にかかった呪いは、本当は真逆だった。死の呪いじゃない。生の呪いだ。私は死を渇望すると同時に生きたかったんだ。誰かの中で、重みと共に。近くにある『生』と『死』をよりよく理解するために。そうすれば、吉は消えない。そうすれば、私は私であれる。
そうだよ、吉。私とっくに答えが出てた。
納得だってしてたよ。
「私、生きなきゃならないんだって」
この日常が正解なんだ。日常の中の記憶が最後の千羽目に込めている願いだった。
目片君が追い付いて来る。やっとのお出ましの千羽目の呪いの一部は私の状態を見て、少し微笑んだように見えた。私が死ねないことを知って安心したのかもしれない。何も言わずに座り込んだ私に手を差し出してくれた。そして、友恵からの手紙を渡される。
また一羽これで多くなる。
たった数行『ありがとう』しか書かれていないのに。これが日常。ありきたりな悲痛な叫びの中で見出した温かい千羽目。
そっとその千羽目を抱きしめて、私は目片君を見据えた。たった数行を伝えるためにここまで来た。頬を涙で濡らし、千羽鶴を折った。辛いこと、悲しいこと、結局孤独であること、変わらないこと、あの鶴には込めた。いろいろなことがあった。でも、今は生を得るために最後の一羽を折ろう。
「目片君」
喜びと悲しみを添えて。
「私、あなたのことが…」
ーー千羽目
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