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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
番外編
91/91

8. 伯爵の謀反(終)




「どうか、リンド侯爵さまにお取次ぎを!」

 黎明のころ、王宮の門番は、ロナン・デュシュマンの悲痛な叫び声で眠気を覚まされることとなった。

 小部屋に押し込まれて数時間、ようやく広間に通されたのは、昼前になっていた。そして、さらに数十分。

「いったい何の騒ぎだ」

 一分の隙なく整えられた麗姿の中に、ほんのわずか寝不足の不機嫌さをちりばめながら、リンド侯爵セルジュ・ダルフォンスが入ってきた。

「王宮裁判で、ラヴァレ伯爵が国外追放の処分になったというのは、本当ですか」

「求刑だけだ。まだ陛下のご裁定は下されておらぬ」

「どうか、ご翻意をお願いいたします。伯爵が何の罪を犯されたというのでしょうか」

「何の罪だと?」

 声に、いっそう険しさが混じる。「やつの罪は明白だ。公道を不法に占拠し、市場の活動を妨害し、王都の治安を乱した罪。国民に王への反逆をそそのかし、自分みずからが王位に着こうとした罪」

「ちがいます」

 ロナンは即座に否定した。

「エドゥアールは……いえ、ラヴァレ伯爵は、わたしたちに武装を解除するよう、懇々と説き伏せられたのです。もし武力の衝突が起きれば、双方の溝は深まり、話し合って歩み寄ることなど不可能になってしまう。それこそ夜も寝ないで駆けまわり、指導者たちを片っ端から説得して」

 目に涙をため、必死の形相で訴える。

「武力による革命で頭が凝り固まっている急進派たちは、伯爵のおっしゃることを最初は取り合いませんでした。かえって何度も、命の危険にさらされました。それでもあきらめずに、場末の酒場で安酒を飲みながら……自由市場で汗水たらして小麦袋を運びながら……毎日、ひとりひとりに根気よく語りかけられたのです」

 セルジュは顔をそむけた。「もうよい。出ていけ」

「王宮の奥深くに鎮座している人のことばなら、彼らの心には届かなかったでしょう。けれど、伯爵は地位を捨てて、一番貧しい人々といっしょに苦楽をともにしてくださいました。だから、われわれは武装を解くことに同意したのです。あのロワン外苑の演説会の日、わたしたちの誰か武器を持っていましたか? ひとりでも、兵に発砲しましたか? ……伯爵がいなければ、きっと双方ともにたくさんの血が流れたでしょう。伯爵は、このクラインを救ったのです!」

「わからぬのか。出ていけと言っている」

 そのことばを合図に、近衛兵が若者の両わきをかかえた。

「待ってください。もう一度、王宮裁判のやりなおしを……伯爵の無罪をお願いいたします」

「外に放り出せ」

 大広間の扉が重々しい音を立てて閉まり、うつろな静寂が戻ってきた。

 セルジュは、振り向いた。「どこかで、耳をそば立てておられるのでしょう、陛下」

 大理石の花鉢の陰から、フレデリク三世が素知らぬ顔で現われた。

「この広間に彼を通したのは、余に聞いてくれということなのだろう?」

「気配を消すことに長けた王というのも困りものです」

「リンド候。今の話をどう聞いた」

「いかにも、あの男らしいと」

 いやいやながらに、セルジュは答える。「為政者であるおのれの立場をわきまえず、目先のことに囚われる。だから、貴族と平民のあいだをどっちつかずで迷ったあげく、どちらにも属することができないのです」

「だが、彼のおかげで、武力衝突という最悪の結果は回避できたではないか」

「一時的なことです。この国に共和政という毒をまき散らした以上、いずれ平和は破たんする」

「どうしても、伯のことが赦せぬか」

「無論」

 セルジュは隠しそこねた葛藤に唇をゆがめた。「たとえ無罪放免になったとしても、もう貴族社会で生きていくことはできますまい。あの男は自分で自分の首を斬り落としたのです」

「それほどまでに、国じゅうの貴族の憎悪を集めたか」

 フレデリクは嘆息して、天井を仰いだ。「そうか。だからなのだな」

「え?」

「あの子は、自分が謀反の張本人として捕まることで、その先への追及を止めさせた。おのれひとりが罰せられるという結末で、騒動に幕を引こうとしたのだ」

「だとしても――」

 後のことばが続かずに、セルジュは生唾を飲みこんだ。

「だとしても、やつがクラインにいる限り、この国が革命へ突き進むという恐怖が残ります。危うい火種は国外に追い出さねばなりません」

 フレデリク国王は、後ろで手を組み、ゆっくりと広間を横切った。

「余は裁判でどう宣告すべきか」

「何も変わりません。陪審の意見をお含みおきくだされば」

 王宮裁判は貴族を裁く法廷だけに、当然、陪審団も貴族だけで構成されている。しかも、セルジュを筆頭に、反共和主義を標榜する者がそろっている。エドゥアールにとって、有罪の判決はすでに出たも同然なのだ。

 フレデリクは、セルジュに向かって悲しげに目を細めた。

「もし無罪を言い渡せば、余は、甥のために法を曲げる愚かな王と後世に呼ばれるであろうか」

「……断じてなりません。この国をさらなる混乱に陥れるおつもりですか」

 低くうめくように言うと、セルジュは悄然と背中を見せて歩き出した。「この国の未来のために、何があろうとも、わたしは意見を変えたりはしません」



 近づいてくる蝋燭が、牢獄の壁にゆるやかに広がる光の模様を作り出す。

 扉のかんぬきをはずす音が響き、花の香りが空気を震わせた。

「さぞ殺風景でしょうから、目が楽しめるものをと思って、持ってきましたわ」

 ミルドレッドが小さな花束を両手に抱えて、入ってきた。「看守にさんざん調べられて、だいぶ抜かれてしまいましたけれど」

「久しぶりだな」

 エドゥアールは木の寝台の縁に座ったまま、ほほえんだ。「悪いな。もう何週間も風呂に入ってないから、臭くて、抱きしめてあげられない」

「そう思って、匂い消しのペパーミントとラベンダーを入れておきましたわ」

 ミルドレッドは、机の上にところせましと広げてある紙を何枚か取りのけて、花束をそっと置いた。

「シモンの作ったアップルパイも持ってきました。看守に調べられて、ぐさぐさに崩れたのが、後で届くと思います」

「二度も牢屋に入る夫を持つと、苦労するな」

「もうすっかり慣れましたわ」

 妻は机の前の椅子を動かし、エドゥアールに膝を突き合わせるように座った。

「回想録を書こうとがんばってるんだけど、数行で行き詰まった。俺の人生、あんまり書くことないや」

 楽しそうに笑っている夫の無精ひげの生えた顔を、妻はいとしげに見つめた。「だいぶ、お痩せになったのね」

「そうか? 毎日食って寝るだけの生活なのにな」

「ジョエルが、父上に会いたいと大泣きしていますわ。子どもは面会の許可が下りなかったので、すぐ外でユベールとソニアといっしょに待っています」

「元気そうだな。親父も王都に来てる?」

「はい」

「そうか」

 エドゥアールは、少しのあいだ口をつぐんだ。

「もう聞いてるかな。裁判のこと」

「ええ。王妃さまが手紙をくださいました。とても心を痛めておられるご様子で」

「おそらく、国外追放という判決が出ると思う」

「ええ」

 ミルドレッドは微笑みながら、うなずいた。「なるべく持って行くものは減らすよう、ジョエルに言い聞かせています。まっくろくまちゃんもダメよと。ユベールたちも、もうとっくに旅装を――」

「そうじゃない」

 エドゥアールは、苦しげに息を吐いた。「きみとジョエルはラヴァレ領に残れ。ユベールたちもだ」

「……えっ」

「ついてくるな。近隣に俺を受け入れてくれる国はないだろう。あてのしれない旅になる」

「いやです」

 ミルドレッドの決然とした声が、牢の石壁に反響した。「何があろうと、わたくしはあなたから離れません。わたくしたちは夫婦でしょう。どのような見知らぬ土地だろうと、あなたが行かれるところ、わたくしは、どこにでもついてまいります」

「求刑は、俺の爵位のはく奪で、ラヴァレ家全体の廃爵ではない。セルジュのせいいっぱいの温情だ。俺がいなくても、親父の死後、爵位はジョエルに受け継がれる」

「ジョエル……に?」

「だから、きみたちは谷に残ってくれ」

 エドゥアールは顔を伏せ、苦笑った。「自分でも矛盾してると思うよ。共和主義の信奉者でいながら、伯爵家の存続を第一に考えるなんて。でも、何百年もかけて俺に受け継がれてきたのは、そういうものなんだ」

 夫がどれほどふたつの壁のあいだで苦しんできたか、痛いほど知っていたミルドレッドはたまらなくなって、床にひざまずき、膝に置かれた夫の両手を握りしめた。

「俺はもう、この国にはいられない。だけど、ジョエルだけは、ずっとあの谷で暮らさせてやりたいんだ。子どもの俺が知りたくても知ることのできなかった、あの美しい春の景色を……風に揺れる麦畑の一面の緑を……冬至祭の蝋燭の暖かさを」

 伯爵の目からひとしずくの涙が伝い落ちた。

「いやです! そんなものより、父親のそばにいることのほうが、何倍ジョエルにとって素晴らしいことか」

「ミルドレッド」

 エドゥアールは、彼女を離さぬとばかりしっかりと抱きしめた。「愛している。きみと離れたくない。だけど、聞き分けてくれ」

「いや……です」

「残って、どうか親父の面倒を見てほしい」

 彼のことばは、もう声にならなかった。「腫物の再発がないとは言え、もう六十に手が届く歳だ。長い病に痛めつけられた身体は、そう長くない。アルマ婆さんも、そうだ。もう俺は死ぬまで、あの人たちに会えない……」

「あなた……」

「なんで俺いつも、こんなハメになっちまうんだろう。あの谷で静かに暮らしたかった。それ以外の望みは何もないのに」

 ラヴァレ伯爵は、妻の胸に顔をうずめ、子どものように声を上げて泣いた。



「侯爵さま」

 従者があたふたと書斎に飛び込んできた。「奥方さまとお嬢さまが――」

 その従者を押しのけるようにして、ヒルデガルト姫がニコルの手を握って入ってきた。

「ちちうえ」

「ニコル」

 走り寄ってきた愛くるしい娘に、眉間にしわを刻んでいたセルジュも、とたんに相好を崩して腕を広げる。

「あなた、どういうこと」

 娘の頭の上から、とげとげしい声が降ってきた。「ラヴァレ伯を、どうして国外追放などにするの」

 娘のやわらかな頬をこころゆくまで堪能しそこねて、セルジュは不機嫌に顔を上げた。

「それがどうした」

「なぜ? 彼はあなたの盟友ではなかったの」

「そう呼んでいたこともあったがな。今はどうでもよい。おまえこそ、どうしたのだ。エドゥアールのことは嫌いではなかったのか」

「もちろん、嫌いよ。今でも大嫌い」

「では、ミルドレッドに命乞いでも頼まれたか」

 高貴な姫の顔はみるみる引きつった。

「いいかげんにしなさい!」

 ヒルデガルトはつかつかと歩み寄り、有無を言わせず、セルジュの顔を両手で挟みこんだ。

「わたくしが伯爵を大嫌いだと言うのは、あの人の裏切りのせいで、それほど傷ついているあなたが我慢できないからよ」

「ヒ、ヒルデ」

「わたくしの夫とあろうものが、なぜ、そんなに落ち込んでいるの。あなたには、わたくしやニコルがついているのに。あなたはそれで満足できないの? 世界じゅうの人間に裏切られたって、わたくしたちがいれば、それで十分ではない?」

「いや」

 セルジュはそっと彼女の指をはずし、なだめるように唇を寄せた。「十分だ。十分すぎて、余りあるほどだ」

「では、なんなの。彼がひとことの相談もなしに行ってしまったから? 友と信じていたのに頼りにされていなかったから?」

「違う!」

 セルジュは、妻の手を振りほどいた。

「やつは、わたしがこうするしかないとわかっているのだ。わかったうえで、国外追放を命じるという損な役回りをわたしに押しつけた! あまりにも身勝手ではないか」

「ならば、意に反して無罪にしてしまえばいいわ」

「そうはいかぬ」

 侯爵は、苦渋に髪をかきむしった。「これでも、『貴族の中の貴族』と呼ばれたアルフォンス家の継承者。この国の体制を揺るがす者を断じて赦すわけにはいかぬ!」

 ヒルデガルトは吐息をついた。

「男って、本当に面倒くさい生き物だわ。行きましょ、ニコル」

 娘の手を引っ張って外で出たヒルデガルトは、中庭にたたずみながら、いたずらっぽく緑の瞳を光らせた。「それに比べれば、女は身軽。女に生まれて幸せよ。ねえ、ニコル」



 裁判の間には、朝から大勢の傍聴人が詰めかけていた。

 主だった公侯爵とその夫人たち、王立軍の将校や高位の文官たち。他にも王宮に伝手を持つ者が先を争って入り、両側の柱廊は立錐の余地もなかった。

 彼らの多くは、貴族制度を破壊し、国の転覆を目論んで謀反を起こした極悪人、ラヴァレ伯爵の末路をひとめ見ようと胸を高鳴らせて来たのである。

 貴賓席にテレーズ王妃と世継ぎのシャルル王子の姿を認めて、人々は驚いた。さらにその隣には、リンド侯爵夫人ヒルデガルト姫と令嬢ニコルまでいるではないか。

 玉座に着いたフレデリク国王は、広間を見渡し、ひそかに息を吐いた。「まるで、父兄参観だな」

 もちろん、ラヴァレ伯爵の親族は入室できない。外で裁判が終わるまで待つしかないのだ。

 今日の主役が部屋に現われたとき、傍聴人たちの興奮は最高潮に達した。両手を縛められ、濃灰色の【罪人の絨毯】の上を進むラヴァレ伯爵に、人々はあわれみと嘲笑の視線を投げつけた。

 近衛兵の手で、被告人がひざまずかされると、裁判長役の司法官が立ち上がった。

「今より、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵の王宮裁判を執り行なう」

 開会宣言のあと、陪審団長であるリンド侯爵セルジュ・ダルフォンスが立ち上がった。用意してきた巻物を広げ、朗々とした声で被告の罪状を読み上げる。

 通りを封鎖して、市場へ運び込まれる農産物を横取りして勝手に販売し、王都を混乱に陥れた罪。

 市民を指揮して、警察隊や軍の任務を妨害し、治安回復を妨げた罪。

 自らが王位に登ろうとする邪な野望のため、民衆をそそのかし、国家の体制を転覆させようと目論んだ罪。

 ひとつひとつの項目が読み上げられるたびに、聴衆からざわめきが漏れる。

 近衛兵が静かに入ってきて、侍従長に何やら耳打ちを始めた。

 さらにセルジュは、被告が数年前から共和主義系の新聞にひそかに出資していたこと、学生たちにリオニア共和国への留学費用まで出していたことを明らかにする資料も提示した。

 エドゥアールは表情を変えることもなく、ただ顔を伏せている。

「よって、陪審団は以下のとおり陛下の御前に進言いたします。

一、被告人の爵位をはく奪すること。二、被告人を永久にクライン国外に追放すること」

 セルジュは巻物を元通りに巻くと、侍従長に託そうとした。だが、侍従長は、ふたたび入ってきた近衛兵と密談を始めたので、自ら壇に登って、裁判長に巻物を渡した。

「裁判長閣下。厳正なるご処断をお願いいたします」

 裁判長はうなずくと、臨席しているフレデリク三世に向きなおった。「陛下。審理を終了してよろしいでしょうか」

「待て。余がじきじきに被告と話したい」

 異例の展開に、傍聴人席がざわめいた。国王は、ひざまずいている罪人にまっすぐな視線を落とし、口を開いた。

「ラヴァレ伯。何か言い分はあるか」

「ありません」

「先ほどの罪状がすべて真実だと認めるのだな」

「はい」

(そうやって、何も言わずに余のもとを去る気か。エレーヌのように)

 フレデリクは口の中でつぶやき、玉座から立ち上がった。

「去年の秋のことだ。連年の不作により、市場に出回る小麦が極端に減り、パンの価格は三倍に跳ね上がった」

 陪審団席、傍聴人席に座るひとりひとりの顔を、ゆっくりと見渡す。

「このことに怒った市民たちは武装し、急進派を中心として、都の主な通りをバリケードで封鎖した。王宮政府は、王都警察隊に武力で民衆を鎮圧することを許可した」

 人々は固唾を飲み、王の口元を見守っている。

「あのままであれば、民の多数が死に、急進派の指導者たちは捕えられ、極刑が言い渡されただろう。だが、ラヴァレ伯爵は彼らの側につき、その日から彼らの指導者として立った」

(王は何を言い出すつもりだ)

 セルジュは、じっとりと汗をかいた拳を握りしめた。

「憎しみの対象は巧妙にすりかえられた。王政を転覆させ、共和政を推し進めた謀反の真の主謀者はラヴァレ伯爵であり、民衆は彼にそそのかされたのだと人々に信じ込ませた。おのれひとりが罪をかぶるために」

「陛下!」

 セルジュは思わず、席を蹴って立ち上がった。

(無罪に持って行くつもりか。そんなことをすれば、貴族たちが黙っていない)

 いらだちのあまり、侍従長を睨みつける。「ギヨーム。さっきから何をしている」

「し、失礼をばいたしました。何でもありません」

 なにやら片隅で部下の侍従たちとごそごそと話しこんでいた侍従長は、あわてて居住まいを正した。

「裁判が滞っている。裁判長。議事を進めよ」

「えー、おほん。それでは次に……」

「発言を求める」

 傍聴人席から朗々たる声が響き、ユルバン・ド・ティボー公爵が杖を手に、ゆっくりと出てきた。

(老公が?)

 その後ろに並んでいるのは、メシエ子爵とファロ男爵。大臣会議に席を連ねる面々だった。

「貴族会において、ラヴァレ伯爵の減刑嘆願に賛同する者を募った。全議員の約三分の一の署名がここにある」

「なんですと」

 思わず、セルジュの口から驚きの声が上がった。エドゥアールも伏せていた顔を上げた。

 ファロ男爵が進み出た。「地方の領地では、ラヴァレ伯爵の呼びかけに従って、ギロンヌクラブの会員たちが率先して武装解除を始めたそうです。それを見た多くの貴族が、伯爵の減刑を望んでいます」

「軍関係者からも、かなり集まりました」

 元軍人のメシエ子爵が、分厚い署名簿を高々と掲げた。「軍と市民の武力衝突を免れることができたのは、伯爵のおかげだと皆言っています」

 公爵は満足げにうなずいた。

「さすがに過半数にはほど遠い。しかしながら決して無視できぬ数だ。のう、フレデリクよ」

 目配せを送るティボー老公の様子を見て、セルジュはかっと頭に血が昇るのを感じた。

(陛下もこの企てを知っていたな)

 平静を装い、陪審席に戻ると、リンド侯爵は冷ややかに宣告した。

「大変なご苦労をされたようだが、そのようなものには何の法的効力もありません」

「候よ、待たれい」

「公爵どの、話は後でうかがおう。裁判長。予定の時間が過ぎている。陛下のご裁断を」

 裁判長は芝居じみたうやうやしさで玉座の前にひざまずき、羊皮紙の巻物を王に手渡す。記してあることばを一目見たフレデリク王は、玉座の腕をぎゅっと力をこめてつかみ、王笏を手にのろのろと立ち上がった。

 合図とともに、席に座っていた者たちは起立する。近衛兵が、ひざまずいている被告の前で槍を交差させた。

「クライン国の元首たる余、フレデリク三世はここに判決をくだす。エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵を騒擾罪および国家反逆罪について有罪と認め――」

「お待ちください」

 鈴のような声が凛と響き渡った。「この裁判に異議を申し立てます」

 リンド侯爵夫人ヒルデガルトが、小悪魔さながらにほほえんでいた。

「ヒルデ」

 今すぐ妻を小脇にかかえて連れ出し、お尻をぶってやりたいとセルジュは思った。「口出しは控えなさい。おまえに発言権はない」

「いいえ、この裁判にはとんでもない欠陥があることを教えてさしあげたかっただけですわ」

「欠陥?」

「ええ、そうです」

 ユルギスの王女は、扇子を持った手をすっとエドゥアールに向けて差し伸べた。「この者を国外追放処分にするとおっしゃいますが、具体的にはどこの国でしょうか」

「具体的な事項は、大臣会議にて――」

「そんな大切なことを、これから決めるとは! 後手にすぎますわ」

 ヒルデガルトは勝ち誇ったように、胸をそらした。「そんなこともあろうかと、わたくし、カルスタンの王太子に打診をしておきました」

「なんだと?」

「アレクセイ王太子は、わが姉ドロテアの夫君。わが母国とも浅からぬ縁がございます。わたくしから事情を説明した書状を送ったところ、さっそくラヴァレ伯爵をわが国に迎えたいという返事が来ましたわ」

 セルジュは、全身の毛穴からどっと汗が噴き出す心地がした。「……なんだと?」

「ぜひ、国王づきの参謀にしたいと。国賓として手厚く迎えるとおっしゃっておられるそうです。ほら、王太子殿下からの書状がここに」

 ひらひらと紙を振るユルギスの姫君を、満座の貴族たちは茫然と見つめている。

 セルジュは妻に向かってまなじりを裂いた。「ヒルデ、おまえはなんということを」

「おわかりでしょう。こんな頭の切れる男を国外追放にするのは、危険な砲弾をただで諸外国にくれてやるようなものです」

 侯爵夫人は、赤みがかった金の巻き髪を燃え立たせるように揺らした。「ラヴァレ谷にでも閉じこめておしまいになったほうが、よほど安全ですわ」

(なぜだ。なぜ、ヒルデまでエドゥアールを助けようとする)

 焦燥に駆られながら、セルジュは手を挙げた。「裁判長。陛下のご裁決の途中だが、失礼して発言の許可を」

「陪審団長リンド侯爵の発言を認める」

「陛下も、ここにいる諸君もご存じのように、王国法補則、通称『恩恵』は、貴族の大幅な特権を認め、差別を助長していると、平民たちの槍玉に上がることの多い法律です。しかし、その恩恵によれば、貴族は平民よりずっと重い罰が科せられる場合もある。すなわち、王と国家に対する大逆罪を犯した貴族の受ける刑は、死刑、あるいは国外追放」

 ざわついていた裁判の間が、しんと静まりかえる。

「国王陛下にとって、このラヴァレ伯爵は妹姫エレーヌさまの遺児。どれほど大切な存在であるか、想像を働かせるまでもありますまい」

 セルジュの声が熱を帯びる。「だからこそ、わたしは赦せない。ラヴァレ伯のなした所業が。もし、自分ならばきっと陛下はお目こぼしをくださるだろうと高をくくっているならば、とんでもないと言ってやりたい。陛下のお心を苦しめた罰は万死に値する」

「セルジュ」

 今までずっと黙していたエドゥアールが、顔を上げて言った。「もういい。わかっている。俺の犯した罪は決して赦されてはならぬものだ。死刑を求刑しなかったことが、おまえのぎりぎりの温情であることも」

 穏やかな、澄みきった声だった。「俺はカルスタンには絶対に行かない。二度とクラインに仇なすことはしないと誓う。――陛下」

 曇りのない水色の瞳が、真正面から同じ色の瞳を捕えた。「どうか。正当な判決をくだしてください。国王の権威は法のもとに服さなければなりません。あなたが法を侵せば、国民はあなたを信用しなくなるでしょう」

 フレデリクはきつく食いしばっていた口元を、ゆがめるように緩めた。「わかった」

 幾度も生唾を飲み込む仕草のあと、宣告の王笏がふたたび伸ばされようとしたとき、

「陛下!」

 近衛隊長が、長い羽根で飾った兜をわきに、小走りに広間に駆け込んだ。

「一大事でございます」

「なにごとだ」

「王宮前広場に、続々と市民が――」

「なんだと!」

 バルコニーへの扉が開け放たれた。

 果たして、近衛隊長の言ったとおりだった。数千、いや数万におよぶ群集が王宮前広場をぎっしりと埋めつくしていた。

 だが、怒号もざわめきもない。共和主義を示す赤い旗もデモのプラカードもない。人々はひとことも言葉を発することなく、ただ静かに立ち、王宮を祈るように見上げていた。

「なんという……」

 バルコニーにつめかけた人々は、広場を見下ろし、畏怖に襲われてうめいた。

 これだけの人間が集まったというのに、なぜこれほど静かなのか。身じろぎひとつない。

「ギョーム」

 セルジュは隣に立つ侍従長を睨みつけた。「きさま、衛兵の報告を握りつぶしたな」

「お赦しくださいませ」

 ギョームは深々と頭を下げた。「お咎めは、いかようにもお受けいたします」

「まさかこの者たちは、判決がくだされることを知って集まったと言うのか」

「それでは、ラヴァレ伯爵を救うために? もし有罪が宣告されようものなら、暴動が起きるぞ!」

 悲鳴混じりにどよめく貴族たちのうしろから、答えがあった。

「暴動は起きません」

 エドゥアールは両腕を近衛兵たちに掴まれながら、確信の微笑をたたえていた。

「彼らと約束しました。言論の力を信じると。もう武器は取らないと。俺がいなくなっても、俺がやったように進んでいってくれると」

 バルコニーは静まりかえる。

「フレデリクよ」

 ティボー公爵が、かつかつと杖を鳴らしながら、国王のかたわらに立った。「どうするつもりだ」

 フレデリクは決意をこめてうなずき、ゆっくりと前に進み出、バルコニーの手すりごしに片手を上げた。

「クライン国民の諸君」

 王の深みのある声は、広場のすみずみにまで反響した。

「余と余の父は長い間、みずからの王としての責務を放り出し、国政を顧みなかった。法をねじまげ、一部の者に都合のよい補則を次々と付け加えた。そのため、この国に貧富の差が広がり、大きなゆがみが生じてしまった。申し訳なく思う」

 仰天する貴族たちに取り囲まれ、国王は頭を垂れた。「赦してほしい」

 数万の民衆たちの中にも、ざわざわと驚きの波が広がっていく。

「知ってのとおり、ラヴァレ伯爵は、余の妹の子だ。わけあって、赤子のころに両親から離れされた伯は、放浪民族を母として育ち、水夫を師と仰ぎ、娼婦たちを姉や妹と呼んで育った」

 フレデリクは振り返り、手招きする。エドゥアールは口を半開きにした驚きの表情で、近衛兵たちに付き添われて、彼のそばに近寄った。

「だから、伯がどれほど飢えた人々の苦しみを自分のものとしていたか、飢えたことのない余には想像もつかぬ。貴族と平民のあいだで、征服民族と被征服民族とのあいだで、絶えず板挟みとなる日々だったろう」

 回りにいた侍従たちや大臣たちは絶句した。国王の目が涙でしとどに濡れている。

「余の偽りない願いは、彼を無罪にすること。だが、王が法を侵してよいという先例を作ってはならぬのだ。王宮裁判の判決はすでにくだされた。王国法補則第二十四条により、余はラヴァレ伯爵の爵位をはく奪し、国外追放処分にすることを、ここに宣言する」

 息をつめていた群集の中から失望のざわめきが広がった。

「だが」

 王はすぐに続けた。「余と国民のあいだで堅く約束しようではないか。余は国民憲法を制定する。貴族と平民とにかかわらず、すべての人民が等しく幸福に生きる権利を持ち、その権利を侵すいかなる法律も無効であると宣言する憲法を。ひとりひとりの国民が祖国のために働き、祖国はひとりひとりの国民のために存在することを宣言する、国民による国民のための憲法を」

「国民憲法だってさ!」

「憲法だ。わたしたちの憲法ができる!」

「国民憲法が制定される日、王国法補則も無効となる。その同じ日に、ラヴァレ伯爵はこの国に戻ってくることができるであろう」

 数万の民衆の中から、まるで大渦のうねりのような歓声が沸き上がり、空に立ち昇った。

 エドゥアールは床にひざまずき、肩をふるわせながら平伏した。「陛下……ありがとうございます」

「リンド侯爵よ」

 フレデリクは涙をぬぐうと、いつもの飄々とした眼差しで首席大臣を見た。「すぐに憲法会議を召集せよ。草案はどれくらいでできるか」

 セルジュは王の意図を察して、ため息をついた。「しばらくは眠れぬ夜が続くことになると存じますが、半年後には」

「まあ、そなたのことだから、三ヶ月でできるな。平民会、貴族会の討議を経て、一年後に発布すると」

「では、ラヴァレ伯は、一年後にはクラインに戻って来れるのですね」

 テレーズ王妃が、そっと夫の手を取った。「あなた。実はわたくしも、母国アルバキアに手紙を書きましたのよ。兄王も、ラヴァレ伯一家を喜んで国賓として迎えると言っております――温暖で雪もなく、とても過ごしやすいところですわ。ミルドレッドもジョエルも、ラヴァレ大伯爵も、アルバキアの冬はきっと気に入るでしょう」

 その言葉に、フレデリクは満足げに目を細めた。「妃よ、礼を言う」

 一方、リンド侯爵も、妻とひそひそ内緒の会話を交わしていた。

「ヒルデ。そのアレクセイ王太子の書状だが」

「ああ、これ。こんなもの、もちろんニセものに決まっているでしょう」

 彼女は書簡を胸に抱きしめた。「本当は、父上からの返事。父上も、ラヴァレ伯を国賓として招きたいと言ってきてるわ。世界じゅうでひっぱりだこね」

「まったく、おまえという女は肝を冷やさせてくれる」

 いとしげに妻の髪にキスを落とすと、セルジュは今まで見ないようにしていた方を向いた。

「エドゥアール」

 その瞳の蒼に、氷の冷たさはもうなかった。

「陛下にはああ答えたが、必ず一年で憲法が成立するという保証はないぞ。貴族はこぞって反対するだろうし、憲法会議には幾多の難関が待ち受けている。ひょっとすると、死ぬまでクラインに戻れぬ可能性もある」

「わかっている」

「きさまがいないあいだ、わたしなりにこの国のあり方を考えてみようと思う。きさまが命を懸けて手にいれようとした未来を、わたしも見たくなった。新しい国民憲法がどのようなものになるか、外国でせいぜい楽しみにしているといい」

「セルジュ」

「いや、きさまのことだから、草案をこっそり手に入れて、あれこれ指図してくるかもしれぬな。盗まれぬよう厳重に管理しないと」

 伯爵は、両手を縛られたまま頭を垂れ、落涙した。

「セルジュ……ありがとう」

 リンド侯爵はその頭を片手でつかみ、自分の胸に引き寄せる。「今度会うときは、二度と放さぬからな。覚悟しておけ」

 フレデリクは、その様子を見て微笑み、晴れやかな声で叫んだ。

「近衛兵、伯の縛縄をほどいてやれ。ミルドレッドとジョエルを、その両手で抱きとめられるようにな」







これで、「伯爵家の秘密・番外編」はいったん終了いたします。ご愛読をありがとうございました。

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