第5章 夫の子供でした。それが何か?
静まり返った会議室に、紙をめくる音だけが響いていた。
テーブルの上には、出生前DNA親子鑑定の結果報告書が置かれていた。結衣と航平の同意のもと、検体を適切に確認して実施された検査の結果だった。
榊原玲奈が、淡々と、しかし明確に告げる。
「鑑定結果は、胎児と高瀬航平さんの父子関係を極めて高い確率で支持しています」
その言葉が告げられた瞬間、部屋は息をのむような静けさに包まれた。
結衣はゆっくりと深く息を吐き出した。
ずっと、ずっと主張し続けてきた。
自分は不倫などしていない。この子は間違いなく航平の子供だ、と。
その主張のうち、少なくとも父子関係については、ようやく客観的な証拠によって裏づけられた。
一方、それを聞いた五人は言葉を失っていた。
航平の父である和弘は、血の気が引いたように顔面蒼白になり、口を半開きにしたまま固まっている。母の晶子は震える手で書類を見つめ、現実を受け入れられない様子で視線をさまよわせていた。
結衣の両親である誠一と恵子も、愕然としていた。
自分たちが娘に対して、どれほど残酷な断罪を下したのか。信頼すべき娘を、どれほど深く傷つけたのか。
その事実が、今になって重くのしかかっていた。
結衣は不倫などしていなかった。
そして、子供の父親が航平ではないという、彼らが断罪の根拠にしていた主張は、完全に崩れ去った。
しかし、当の航平だけは違った。
彼はしばらく呆然と黙り込んでいたが、やがてふっと、安堵したように笑みを浮かべた。
「……そうか。まあ、よかったじゃないか。俺の子だってわかったんだから」
結衣は耳を疑った。
今、この人は何と言ったのだろうか。
「……よかった?」
絞り出すような結衣の声に、航平は当たり前だという顔でうなずいた。
「ああ。これで疑いも晴れたわけだし、もう終わりでいいだろ?」
その言葉に、結衣の中で何かが弾けた。
妻を不倫女と呼び、托卵を企んでいると決めつけ、妊娠を終わらせるよう迫ったこと。
あれほど激しい言葉の暴力を、航平は単なる「誤解」で済ませようとしていた。
「私を何て呼んだか覚えてる?」
結衣の声は低く、怒りで震えていた。
航平が怪訝そうに眉をひそめる。
「え? だから、もうわかっただろ」
「不倫女、托卵女、淫売……全部、あなたが言った言葉だよ」
結衣は一つひとつ、突きつけるように言葉を投げつけた。
航平がたじろぐと、晶子が慌てて息子をたしなめた。
「航平! まずは結衣さんに謝りなさい!」
だが、その姿を見たことで、結衣の怒りは四人の親たちにも向けられた。
結衣は実母である恵子に向かって、静かに、しかし冷ややかに問いかけた。
「お母さんも同じです。お父さんも。あの日、私を汚らわしいと言って指さしたのは誰だった? 娘の話を一度も、一度だって聞いてくれなかったのは誰だったの?」
「結衣……あれは、お母さん、勘違いして……」
恵子が弱々しく声を漏らす。
しかし、結衣はそれ以上聞こうとせず、視線を晶子へと移した。
「お義母さんも。『他人の子を産んで、うちの息子に育てさせようとしている』って、決めつけましたよね」
晶子は口を開きかけたが、何も言えずにうつむいた。
「たとえ検査で私の言っていたことが証明されても、あなたたちが私に浴びせた言葉は、なかったことにはなりません」
結衣はバッグから一枚の書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
離婚届。
妻の署名欄には、すでに結衣の名前がはっきりと書かれていた。
航平は突然の離婚話に激しく動揺し、椅子を鳴らして立ち上がった。
「おい! 冗談だろ? 今のでわかったじゃないか! 俺たちは親になるんだぞ!」
しかし、結衣はもう夫の顔を見ようともしなかった。
「もう、あなたたちとは家族でいたくありません。これからの話は、全部榊原先生を通してください」
結衣はそれだけ言い残し、一度も振り返ることなく話し合いの場を去った。
「結衣! 待てよ、結衣!」
航平が追いかけようとしたが、玲奈がすかさず声をかけた。
「お待ちください。ご本人の意思は明確です。今後の交渉については、私を通してください」
航平は足を止め、玲奈を睨みつけた。
玲奈はその視線を受け流し、淡々と続けた。
「結衣さんは離婚を希望されています。これより、離婚に向けた協議を進めさせていただきます」
玲奈は、去っていく結衣の背中を見送った。
正直に言えば、玲奈自身も、依頼人の言葉に疑念を抱いていた時期があった。
だが、事実を確認し、証拠を得た今、少なくとも子供の父親が航平であることに疑いはなかった。
何より、結衣が夫や両家の親たちから受けた仕打ちは、たとえ父子関係がどうであろうと正当化されるものではない。
依頼人の意思を尊重し、その権利を守る。
玲奈がなすべきことは、最初から変わっていなかった。
残されたのは、呆然と立ち尽くす航平と、後悔に沈む四人の親たちだけだった。
それでも航平は、心のどこかで信じていた。
結衣は今、少し意地になっているだけだ。
時間を置いて、きちんと謝れば、彼女は必ず戻ってきてくれる。
だって、子供は自分の子なのだから。
その傲慢な確信が、どれほど甘いものなのか。
航平は、まだ気づいていなかった。




