第4章 不妊だと、誰が診断したのか
「確認させてください。ご主人は、不妊症だと医師から診断されたわけではないのですね?」
玲奈の問いに、部屋の空気が張り詰めた。
航平は苛立ちをあらわにし、椅子を鳴らして身を乗り出した。
「だから何度も言ってるだろ! 大学のときにおたふく風邪で三日も高熱が出たんだ!」
その言葉に、玲奈はわずかに眉を上げた。
航平が言っているのは、あくまで自身の経験に基づく判断だった。医師から不妊だと診断されたわけではなく、自分自身の思い込みにすぎない。
「……それは、不妊と診断されたという意味にはなりません」
玲奈の声は淡々としていたが、その言葉は爆弾のように部屋に響いた。
驚いたのは、傍らにいた結衣だった。彼女は信じられないという表情で、夫を凝視した。
「え……?」
玲奈は手元のタブレットを操作し、事前に確認していた医学的な資料を示しながら説明を続けた。
「おたふく風邪の合併症として精巣炎を発症し、それが原因で生殖能力に影響が出るケースは確かにあります。しかし、精巣炎を発症したからといって、必ず不妊になるわけではありません。まして、高熱が出たというだけで不妊だと断定することはできません。正確な判断には、専門医による診察や精液検査などが必要です」
そこで玲奈は、改めて航平をまっすぐに見据えた。
「ご主人は、不妊について専門医の診察を受けたり、精液検査を受けたりしたことはあるのですか?」
航平は一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐに不機嫌そうな顔で言い放った。
「ない」
その短い返答に、結衣だけでなく、両家の親たちも表情を変えた。
結衣の心の中で、これまで揺るぎない事実として突きつけられていた夫の不妊が、疑わしいものへと変わっていく。
「……あなた、本当に検査したことがないの?」
義母の震える声に、航平は怒鳴り返した。
「だから、俺は不妊なんだよ!」
そのあまりに筋の通らない主張に、今度は義父の和弘が口を開いた。
「航平……お前、病院できちんと検査したんじゃなかったのか?」
実の父親でさえ、息子が検査を受けていたものと思い込んでいたのだ。
航平は苛立ちを隠せず、吐き捨てるように答えた。
「おたふく風邪の診断は受けたが、不妊の診断なんて受けてない! そんな検査、する必要がないだろ!」
その答えに、義母の晶子が青ざめた。
これまで長年、息子が不妊であると信じて疑わなかった。だからこそ、結衣の妊娠を知ったとき、迷うことなく不倫を疑ったのだ。
しかし、その根拠が息子自身の思い込みにすぎなかった可能性を、今初めて突きつけられた。
結衣の両親も、激しく動揺していた。
彼らは妊娠報告の日に、航平から「自分は不妊だ」と聞かされ、それを疑うことなく娘を罵倒し、汚らわしいものとして切り捨てた。
だが、その根拠がただの「自称」にすぎなかったとしたら。
自分たちは、無実の娘を寄ってたかって責め立てていたことになる。
四人の強固な確信が、音を立てて崩れ始めた。
「……とりあえず、落ち着いて検査結果を待とう」
和弘が、しわがれた声で航平に促した。晶子もそれに合わせるように、弱々しく付け加えた。
「ええ……今からでも、きちんと確認した方がいいわ」
結衣の両親も、それまでの高圧的な態度を急激に軟化させた。
しかし、娘に浴びせた残酷な暴言について、正面から謝罪する勇気はなかった。ただ、気まずそうに視線を泳がせているだけだった。
だが、航平だけは最後まで譲らなかった。
「ふざけるな! 俺は不妊なんだ! だから絶対に俺の子供じゃない! 結衣が不倫したに決まってるだろ!」
あれほど結衣を非難し、追い詰めたのだ。今さら自分が間違っていたと認めることは、彼にとって耐え難い屈辱なのだろう。
玲奈は冷静に状況を判断した。これ以上話し合いを続けても、感情的な言い争いになるだけだ。
「わかりました。では、ご主人が不妊であるという医学的な裏づけは、現時点ではないということで整理します」
玲奈は淡々と続けた。
「双方に同意いただいたDNA鑑定の手配を進めます。結果が出てから、改めて協議しましょう。本日の話し合いはここまでです」
その宣告とともに、張り詰めた時間が終わった。
結衣は立ち上がった。一度も実の両親の顔を見なかった。
義両親に対しても、挨拶一つしなかった。ただ静かに、機械的な足取りで玲奈とともに部屋を出た。
廊下に出たとき、玲奈は結衣の目に涙がたまっていることに気づいた。
しかし、その涙には、これまでとは違う感情が込められているように見えた。
信じてもらえなかった悲しみだけではない。
すべてを諦めた先にある、静かな決別の意思。
結衣は小さく、けれど確かな声で告げた。
「榊原先生。私、もうあの人とは暮らせません。子供が誰の子か証明できても……もう無理です」
玲奈は何も答えず、ただ静かに隣を歩いた。
結衣の無実は、まだ証明されたわけではない。
しかし、これまで結衣の言葉を疑う一方で、夫の主張を十分に疑っていなかったことに、玲奈は気づいていた。
結論を出すのは、鑑定結果を確認してからだ。
それでも、結衣が訴え続けてきた言葉には、これまでとは違う重みが感じられた。
そして二週間後。
鑑定機関から届いた一通の結果報告書が、五人の最後の逃げ道を塞ぐことになる。




