↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不妊の夫に妊娠を報告したら、不倫女と罵られました  作者: 品川太朗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/6

第4章 不妊だと、誰が診断したのか

「確認させてください。ご主人は、不妊症だと医師から診断されたわけではないのですね?」


 玲奈の問いに、部屋の空気が張り詰めた。


 航平は苛立ちをあらわにし、椅子を鳴らして身を乗り出した。


「だから何度も言ってるだろ! 大学のときにおたふく風邪で三日も高熱が出たんだ!」


 その言葉に、玲奈はわずかに眉を上げた。


 航平が言っているのは、あくまで自身の経験に基づく判断だった。医師から不妊だと診断されたわけではなく、自分自身の思い込みにすぎない。


「……それは、不妊と診断されたという意味にはなりません」


 玲奈の声は淡々としていたが、その言葉は爆弾のように部屋に響いた。


 驚いたのは、傍らにいた結衣だった。彼女は信じられないという表情で、夫を凝視した。


「え……?」


 玲奈は手元のタブレットを操作し、事前に確認していた医学的な資料を示しながら説明を続けた。


「おたふく風邪の合併症として精巣炎を発症し、それが原因で生殖能力に影響が出るケースは確かにあります。しかし、精巣炎を発症したからといって、必ず不妊になるわけではありません。まして、高熱が出たというだけで不妊だと断定することはできません。正確な判断には、専門医による診察や精液検査などが必要です」


 そこで玲奈は、改めて航平をまっすぐに見据えた。


「ご主人は、不妊について専門医の診察を受けたり、精液検査を受けたりしたことはあるのですか?」


 航平は一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐに不機嫌そうな顔で言い放った。


「ない」


 その短い返答に、結衣だけでなく、両家の親たちも表情を変えた。


 結衣の心の中で、これまで揺るぎない事実として突きつけられていた夫の不妊が、疑わしいものへと変わっていく。


「……あなた、本当に検査したことがないの?」


 義母の震える声に、航平は怒鳴り返した。


「だから、俺は不妊なんだよ!」


 そのあまりに筋の通らない主張に、今度は義父の和弘が口を開いた。


「航平……お前、病院できちんと検査したんじゃなかったのか?」


 実の父親でさえ、息子が検査を受けていたものと思い込んでいたのだ。


 航平は苛立ちを隠せず、吐き捨てるように答えた。


「おたふく風邪の診断は受けたが、不妊の診断なんて受けてない! そんな検査、する必要がないだろ!」


 その答えに、義母の晶子が青ざめた。


 これまで長年、息子が不妊であると信じて疑わなかった。だからこそ、結衣の妊娠を知ったとき、迷うことなく不倫を疑ったのだ。


 しかし、その根拠が息子自身の思い込みにすぎなかった可能性を、今初めて突きつけられた。


 結衣の両親も、激しく動揺していた。


 彼らは妊娠報告の日に、航平から「自分は不妊だ」と聞かされ、それを疑うことなく娘を罵倒し、汚らわしいものとして切り捨てた。


 だが、その根拠がただの「自称」にすぎなかったとしたら。


 自分たちは、無実の娘を寄ってたかって責め立てていたことになる。


 四人の強固な確信が、音を立てて崩れ始めた。


「……とりあえず、落ち着いて検査結果を待とう」


 和弘が、しわがれた声で航平に促した。晶子もそれに合わせるように、弱々しく付け加えた。


「ええ……今からでも、きちんと確認した方がいいわ」


 結衣の両親も、それまでの高圧的な態度を急激に軟化させた。


 しかし、娘に浴びせた残酷な暴言について、正面から謝罪する勇気はなかった。ただ、気まずそうに視線を泳がせているだけだった。


 だが、航平だけは最後まで譲らなかった。


「ふざけるな! 俺は不妊なんだ! だから絶対に俺の子供じゃない! 結衣が不倫したに決まってるだろ!」


 あれほど結衣を非難し、追い詰めたのだ。今さら自分が間違っていたと認めることは、彼にとって耐え難い屈辱なのだろう。


 玲奈は冷静に状況を判断した。これ以上話し合いを続けても、感情的な言い争いになるだけだ。


「わかりました。では、ご主人が不妊であるという医学的な裏づけは、現時点ではないということで整理します」


 玲奈は淡々と続けた。


「双方に同意いただいたDNA鑑定の手配を進めます。結果が出てから、改めて協議しましょう。本日の話し合いはここまでです」


 その宣告とともに、張り詰めた時間が終わった。


 結衣は立ち上がった。一度も実の両親の顔を見なかった。


 義両親に対しても、挨拶一つしなかった。ただ静かに、機械的な足取りで玲奈とともに部屋を出た。


 廊下に出たとき、玲奈は結衣の目に涙がたまっていることに気づいた。


 しかし、その涙には、これまでとは違う感情が込められているように見えた。


 信じてもらえなかった悲しみだけではない。


 すべてを諦めた先にある、静かな決別の意思。


 結衣は小さく、けれど確かな声で告げた。


「榊原先生。私、もうあの人とは暮らせません。子供が誰の子か証明できても……もう無理です」


 玲奈は何も答えず、ただ静かに隣を歩いた。


 結衣の無実は、まだ証明されたわけではない。


 しかし、これまで結衣の言葉を疑う一方で、夫の主張を十分に疑っていなかったことに、玲奈は気づいていた。


 結論を出すのは、鑑定結果を確認してからだ。


 それでも、結衣が訴え続けてきた言葉には、これまでとは違う重みが感じられた。


 そして二週間後。


 鑑定機関から届いた一通の結果報告書が、五人の最後の逃げ道を塞ぐことになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。