第6章 謝罪では取り戻せないもの
結衣が席を去った後、静まり返った室内に、重苦しい沈黙が流れた。
私は手元の資料を揃え、淡々と口を開く。
「それでは、今後の具体的な手続きについてお話しします。結衣さんは離婚を強く希望されており、復縁の意思はありません」
その言葉に、航平さんが弾かれたように身を乗り出した。
「……正気ですか? 不倫を疑ったのは確かですが、それには理由があった。でも、もう誤解だったと分かったじゃないですか。今からちゃんと謝罪して、夫婦としてやり直せばいい。それでいいはずだ」
「いいはず」という言葉が、いかに独りよがりであるか。私は視線を動かさず、冷静に付け加えた。
「これまでの経緯を踏まえた慰謝料、財産分与、そして出産までの生活費、さらに子供の養育費について、妥当な条件で協議をお願いします」
「ふざけるな!」
航平さんが机を叩いた。その横で、義母の晶子さんが青ざめた顔で私の袖を掴もうとする。
「先生、お願いです。せっかく授かった孫なのですよ。家族みんなで迎えたい。結衣さんにも、私たちの気持ちを伝えてください」
「そうだ」
父の和弘さんも、苦い顔で同意した。
「我々だって、息子が不妊だと思い込まされていた。ある意味では、俺たちだって騙された側なんだよ」
さらに、結衣さんの実父母である誠一さんと恵子さんも、消え入りそうな声で懇願してきた。
「先生……娘に会って謝りたい。その機会だけは、なんとかお願いできませんか」
私は小さく息をついた。彼らに反省の色があることは認める。だが、それは「失ったもの」の大きさを理解していることとは違う。
「謝罪の意思があることは、本人に伝えます。ですが、まず優先すべきは結衣さんの離婚意思と、これから生まれてくるお子さんの生活です」
「それでも納得できない!」
航平さんが声を荒らげる。私は彼を真っ直ぐに見つめ、問いかけた。
「高瀬さん。あなたは何が問題だと思っているのですか」
「……不倫を疑ったことでしょう! でも、それはもう解決した!」
私は静かに、そして明確に告げた。
「高瀬さん。奥様が離婚を望んでいるのは、あなたが不妊だと思っていたからではありません」
「だったら、何が問題なんですか!」
「それほど重大なことを奥様に隠し、妊娠がわかった途端に、医学的な根拠も確認せず、一方的な不貞の断罪と人格攻撃を行ったことです。奥様は、もうあなたを信用できないとおっしゃっています」
航平さんは絶句した。不妊であること自体ではなく、それを隠し、最悪の形で妻を侮辱したという「人間性の欠如」。そこにある絶望を、彼は想像すらしていなかった。
それでも、彼は最後まで復縁に固執した。
後日、私は結衣さんに一度だけ、航平さんの申し出を伝えた。電話口の彼女の返事は、短く、氷のように冷たかった。
『もう戻りません。あの人が私を信じられなかったように、私ももうあの人を信じられないんです』
交渉はその後も長く、泥沼化した。
航平さんは慰謝料や養育費の額に激しく不満を示し、条件を吊り上げれば結衣さんが折れるのではないかという、的外れな期待を抱き続けていた。
だが、結衣さんの心は揺るがなかった。
私は保管していた話し合いの録音や、彼らが送った心ないメッセージを一つひとつ整理し、法的な手続きを淡々と進めた。
出産を挟み、最終的に家庭裁判所での調停を経て、離婚が成立した。
航平さんの収入と、子供の将来に必要な費用を算出し、交渉の末に合意に至った。
親権は結衣さんが単独で持つ。
航平さんは、毎月十三万円の養育費を支払う。進学などの特別な教育費については別途分担し、慰謝料についても分割での支払いが確定した。親子交流については、子供の利益を最優先とし、今後の状況に応じて別途協議することとした。
離婚後、義両親と実父母の方々からも、結衣さんに連絡を取りたいとの要望があった。
しかし、結衣さんの答えは変わらなかった。
「謝罪の言葉を受け取る意思はありません」
その言葉を伝えたとき、四人の親たちは、自分たちが結衣さんとの関係を完全に失ったことを悟ったようだった。
数年が経った。
航平さんは、相変わらず会社で働き続けている。
仕事を失ったわけでも、社会的に破滅したわけでもない。ただ、毎月の養育費と慰謝料の支払いは重く、かつてのような余裕のある生活は消えた。
一度、再婚を考える相手が現れたこともあったという。だが、養育費の支払い残債や、離婚に至った経緯を正直に話せば、相手が引いていくのは当然の結果だった。
気づけば、仕事をして、一人きりの部屋に帰るだけの日々。
航平さんは今でも、自分が根本的に間違っていたとは思っていない。
「……ちゃんと俺の子だったんだから、別れる必要なんかなかったのに」
誰もいない部屋で、彼はそう独りごちる。妻に疑わしい事情があったのだから、疑うのは仕方がなかった。ただ、少し言い過ぎた。それだけのことだった。
そのあまりに浅い後悔が、彼に与えられた唯一の、そして最大の罰だった。
義両親の和弘さんと晶子さんも、孫の顔を見ることはない。
あの日、息子が父親だと証明された瞬間に、彼らが手にするはずだった「孫との未来」は永遠に失われた。晶子さんは今でも、ふとした拍子に子供用品店に立ち寄り、買い物をしようとして、そして絶望して店を出る。
結衣さんの実父母も同様だった。
誠一さんは、娘に送るための謝罪の手紙を何度も書き直し、引き出しに溜めている。恵子さんは、娘の誕生日が来るたびに、反応のない携帯電話をじっと見つめていた。
食事会で、あんなに激しく娘を指さしたあの瞬間。なぜ一度でも、娘の言葉を聞いてやらなかったのか。
後悔しても、時間は決して戻らない。
そんなある日、私のもとに結衣さんから近況を知らせるメッセージが届いた。
添えられていた写真には、小さな子供を連れて、穏やかに微笑む結衣さんの姿があった。
彼女は少しずつ仕事にも復帰しているという。
以前のような贅沢な暮らしではないかもしれない。けれど、写真の中の彼女は、心から満ち足りた笑顔を浮かべていた。
そこには夫も、両家の祖父母も写っていない。
私は写真を眺め、短い返信を送った。
「お元気そうで何よりです」
この仕事の結末は、誰かを破滅させることではない。
依頼人が、自分の意思で人生を選べる状態を取り戻すこと。
結衣さんがいつか再び誰かを心から信じられるようになるのか、それはまだわからない。
けれど、あの日もらえなかった「おめでとう」を、今は自分の子供に何度でも伝えられる。
それだけで十分なはずだった。




