第2章 五人の裁判官と、たった一人の被告人
「お願い、二人だけで話そう。ちゃんと説明させて」
結衣が何度、航平にそう懇願しただろうか。しかし、夫は結衣と目を合わせることさえ拒んだ。彼にとって、結衣はもはや信頼できる配偶者ではなく、裏切りという大罪を犯した「不倫女」だった。
数日後、再び航平の実家に呼び出された結衣を待っていたのは、地獄のような光景だった。
食卓を囲んでいたのは、航平と義父母。さらに、結衣の実の両親までが同席していた。
またしても、五対一の構図だった。
航平は、深い絶望と怒りに満ちた顔で結衣を睨みつけていた。しかし、その内心には歪んだ特権意識があった。
(俺はここまでしてやっている。不倫して家庭を壊した女なのに、まだ離婚という最悪の選択肢を保留してやっているんだ。感謝されてもいいくらいだろう)
彼は自分が正義の側に立っていると確信していた。
「いい加減にしろ」
義父が冷徹な声で言い放った。
「息子がここまで耐えているのは、お前への情があるからだ。今ここで全てを認め、謝罪しろ。そうすれば、まだやり直す道はあるかもしれない」
結衣の実の両親もまた、同調した。
「結衣、お願いだから認めなさい。不倫をしたなら、素直に謝って許しを請うのが筋でしょう。そうじゃないと、この状況はいつまでも終わらないわよ」
母の言葉に、結衣は絶望で視界がにじんだ。実の両親までもが、証拠一つない疑惑を事実として受け入れ、娘に屈服することを強いていた。
「……だから、検査をさせてください!」
結衣は声を震わせながら訴えた。
「赤ちゃんが航平さんの子だって、調べればわかるはずなんです。なのに誰も調べようとしなくて……。DNA鑑定でも何でも受けます! 誰の子か、はっきりさせればいいじゃないですか!」
その言葉に、航平が鼻で笑った。
「今さら検査だと? 笑わせるな。お前の狙いはそれだろう」
「え……?」
「検査を口実に時間を引き延ばし、中絶できない時期まで粘る。そうして、なし崩し的に俺の子供だと認めさせようとしているんだろう。姑息な手段だ」
航平は、自分が検査を拒んでいるという矛盾にまったく気づいていなかった。彼にとって、不妊であることは確定した事実であり、それを証明するための手続きなど不要だった。むしろ、検査の提案そのものが結衣の「策略」に見えていた。
結衣がどれほど泣いて説明しても、五人の耳には届かない。彼らは結衣の言葉を、すべて嘘か言い逃れとして受け取っていた。
ついに、実父が机を叩いた。
「いい加減、言い張るのはやめろ! そんなに身勝手に振る舞うなら、もう実家にも頼るな。お前のことはもう知らん!」
結衣の心の中で、何かが音を立てて切れた。
血のつながった親ですら、自分を信じてくれない。夫も、自分をゴミのように見ている。
この五人を説得することは、もう不可能だった。
結衣は静かに席を立ち、誰の言葉も聞かずに家を出た。
数日後、結衣は都心にある小さな法律事務所のドアを叩いた。
そこにいたのは、鋭い眼差しを持ちながらも、落ち着いた雰囲気をまとった女性弁護士、榊原玲奈だった。
玲奈は結衣から事情を詳しく聞いた。妊娠したこと、夫に不倫女と罵られたこと、両家の親に追い詰められていること。
しかし、玲奈の内心は至って冷静だった。
(正直なところ、半信半疑ね)
弁護士という仕事柄、相談者がすべて真実を話しているとは限らない。もし夫が本当に子供をもうけられない体であるならば、結衣の説明には疑問が残る。結衣が事実を隠し、この状況を切り抜けるための戦略を立てに来ている可能性も想定しなければならない。
ただ、現時点では夫が不妊であるという主張にも、客観的な裏づけがない。
玲奈はまず、結衣が何を望んでいるのか確認することにした。
「確認しますが、最終的にはどうしたいと考えていますか? ご主人との関係を修復したいのか、それとも離婚を望んでいるのか」
結衣は困惑したように視線を落とした。
「わかりません。……ただ、今は私が嘘をついていないって、わかってほしくて……」
(なるほど。まだ本人にも答えが出ていないのね。なら、まずは状況を整理するところから始めましょうか)
玲奈は手元のメモを閉じ、結衣の目をじっと見つめた。
彼女が今、絶望の淵にあり、誰にも信じてもらえない孤独の中にいることは伝わってくる。だが、同情だけで動けば、依頼人を守ることにはならない。
「では、まずは事実関係を確認する必要がありますね。双方の言い分を整理し、客観的な資料を揃えましょう」
結衣は、すがるように問いかけた。
「先生は……先生は、私を信じてくれますか?」
玲奈はわずかに口角を上げ、プロとしての境界線を明確に引いた。
「今ここで、あなたの話がすべて事実だと保証することはできません。でも、あなたの話を聞かずに決めつける人たちから、あなたを守ることはできます」
その言葉は、盲目的な肯定ではなかった。しかし、今の結衣にとって、それはどんな慰めの言葉よりも心強く、確かな救いだった。
結衣は震える手で、正式な委任契約書に署名した。
数日後。
再び集まった五人の前に現れた女性弁護士は、彼らがまったく予想していなかった質問を投げかけることになる。




