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『一条山開墾記』 閑話:一条結 〜過去と巡る温もり〜

【前書き】


※本作『一条山開墾記』は、『Bar風花』本編の設定をベースにしたスピンオフ(IFストーリー)です。

※本編との時系列や一部展開に独自のアレンジを含みますが、作品の空気感としてお楽しみいただければ幸いです。

※歩くスパコンこと結社長と、個性的で賑やかな白黒赤三人娘が開拓していくスローライフをお楽しみください。


京都の冷たい雨の中、重厚な西陣織を自らの手で脱ぎ捨てて逃げ出した二十歳の少女。

身も心も冷え切り、路地の奥で膝を折った彼女を包み込んだのは、アンバー色のあたたかな光と、滋味あふれるお出汁の湯気でした。

「歩くスパコン」と呼ばれた一条結が、いかにして風花町に辿り着き、己の足で立って大切な仲間を守る「無敵のCEO」となったのか。

結の胸に秘められた過去と、巡り巡るあたたかな恩返しの物語を、どうぞごゆるりとお楽しみください。

第一幕:冷たい雨と、脱ぎ捨てた西陣

 

 京都の夜は、雅やかな底冷えのなかにどこか刺すような冷酷さを秘めている。

 名門公家の血脈を引く、格式高き一条家の大邸宅。千坪を超える敷地に敷き詰められた苔庭の奥、重厚な蔵の陰で、十歳の少女だった一条結は、息を潜めて小さな拳を握りしめていた。

「結お嬢様、ジークンドーで最も大切なのは『水のようになり、型に囚われないこと』です。力を入れるのではなく、相手の予備動作をゼロコマで読み取るのです」

 お屋敷で長年働くお付きの青年——兄のように慕っていた彼は、厳格な当主の目を盗み、結に武術の手ほどきをしてくれていた。

 生まれつき、結の脳は異質だった。一度見た判例や地籍図、複雑な数字の羅列を瞬時に完全記憶し、周囲の人間が発する微小な体温変化や目線の動きから、0.1秒先のアクションを脳内計算で弾き出してしまう「超並列演算脳」の持ち主だった。

 だが、一条家の当主である父親にとって、結のその驚異的な頭脳は「家格を高めるための完璧な道具」でしかなかった。

「結。お前のその頭脳と家柄があれば、政略結婚の相手としてこれ以上の価値はない。相手の資産と権力を一条家に引き込む計算を弾き出せ」

 冷徹な言葉。感情を殺され、あらかじめ決められた未来へと嵌め込まれていく日常。

 だが、結の胸の奥には、幼少期にお屋敷の陰で教えてもらった「自由」の芽が、静かに、けれど絶対に折れることなく息づいていた。

 ——そして、二十歳を過ぎた激しい雨の夜。

 父親から突きつけられたのは、自分の尊厳と人生を完全に押し潰す、決定的な政略結婚の書面だった。

 結は一人、部屋の中で息をのんだ。脳内の演算回路が弾き出す「この家で生き残る未来」の勝率はゼロ。このまま従えば、自分という人間は永久に消滅する。

(……私の人生の演算式に、あなたが決めた政略結婚という変数は存在しませんぇ)

 結は、着付けられたばかりの格式高く重厚な西陣織の着物を、自らの手で静かに脱ぎ捨てた。

 動きやすいネイビーの服に着替え、わずかな手回り品だけをバッグに詰めると、足音を消して屋敷の裏門へと走った。追っ手として立ち塞がったお堅いボディーガードの肩の収縮を0.01秒でスキャンし、ジークンドーの最小限のトラッピングとストレートリードで一瞬にして無力化した。

 門を飛び出し、冷たい雨の降る京都の夜の街へ。

 着の身着のまま、当てもなく走った。追尾を逃れるため、所持端末の通信ログや移動履歴を脳内計算で暗号化して完全に消去し、ローカルの長距離バスとローカル線を乗り継ぎ、西へ、九州の静かな山あいの街へと逃げ続けた。

 何日も不眠不休で逃げ続けた末に辿り着いたのは、深い山々に囲まれた小さな街——風花町(かざはなちょう)だった。

 雨が容赦なく体温を奪っていく。

街灯の橙色の光がわずかに届く細い路地の奥で、結の膝が折れた。脳内のブドウ糖は完全に底を突き、演算速度は極限まで低下していた。

(……うぅ……脳の演算速度が……ファミコン並みになってしまいますぅ……。……うちの人生は、ここで終わりどすか……)

 冷たく濡れたアスファルトに頬を押し付け、意識が深い闇へと落ちていく直前。

 視界の端で、ぽつんと温かなアンバー色のランタンの光が灯り、オーク材の扉が静かに開く音が聞こえた。



 

第ニ幕:重厚な扉と、温かい出汁の湯気

 

 香ばしい薪の爆ぜる音と、深い静寂。

 結が目を覚ますと、そこは薄暗くも温かな光の層に包まれた綺麗な空間だった。

 体に掛けられていたのは、ふかふかの柔らかい毛布。起き上がると、手入れの行き届いた厚みのある鉄刀木(タガヤサン)の一枚板カウンターが目の前に横たわっていた。

「あら、気がついたのねぇ」

 カウンターの奥から、ワインレッドとアンバーの美しい異色瞳を持つ女性——『Bar風花』のオーナー、櫻庭美和が柔らかく微笑みかけた。

 隣では、黒いエプロンを着けた櫻庭家のメイド・千草が、湯気の立ち上るお重とお椀をトレイに乗せて歩み寄ってくる。

「さあ、まずはこれを召し上がりなさい。お腹も心も冷え切っているでしょう?」

 千草が目の前に置いたのは、鰹と昆布の豊かな出汁が香る温かいお吸い物と、滋味あふれる野菜のおばんざい、そして香ばしく温かいほうじ茶だった。食後には、気持ちをほぐす淹れたての和紅茶までそっと添えられていた。

「あの……私、お金も……身元を証明するものも……」

 結がおっとりとした京言葉の語尾を震わせ、小さく身を縮める。

 京都の実家では、何かを得るためには必ず「対価」と「計算」が求められた。見知らぬ他人に無償で手を差し伸べられることなど、彼女の人生には一度もなかったのだ。

 すると、カウンターの端でルポの原稿を書いていた櫻庭天が、眼鏡の奥の目を優しく細めて言った。

「誰も君の過去や名前を詮索したりしないよ。ここではね、誰も君を縛らない。温かいものを食べて、好きなだけ休むといい」

「そうよ」と美和がそっと結の細い手に自分の手を重ねた。「ここでは、あなたはただの『あなた』でいていいのよ」

 ごくり——。

 千草の作ったお吸い物を一口含んだ瞬間、喉から胸の奥へと温かい熱が広がっていった。

 生まれてから一度も、誰かの前で涙を見せたことがなかった「人間スパコン」の少女。その目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、お吸い物の椀の中に小さな波紋を作った。

「……う……うぅ……っ……!! お出汁が……すごく、温かいどすえ……っ!!」

 声を押し殺して子供のように泣く結を、美和と千草は何も言わずに優しく抱きしめた。

 京都の冷たい雨に打たれていた結の心が、風花町の温もりによって完全に溶かされた夜だった。

 その後、結の凄まじい頭脳と誠実さを知った橘栞弁護士の手により、住民票の閲覧制限や戸籍の分籍を含む完璧な法的防壁が構築された。橘法律事務所の主任事務員となった結は、持ち前の超並列演算脳で複雑な判例や登記データを一瞬で処理し、年収1,000万円超を自力で稼ぎ出す頼もしい右腕へと覚醒を遂げた。

 さらに結は、風花町の麓にある大家のおじいちゃんとおばあちゃんから、自宅の家賃月4万円と山林の賃料月1万円、合わせて毎月5万円という条件で「12畳のLDKを備えた平屋と裏山」をお借りした。

 実家の豪華絢爛な屋敷を捨て、自分の力と汗で手に入れたこの小さな平屋。

 そこには、フェレットのカモくんと黒虎毛の甲斐犬・カイくんが待っており、休日はパジェロイオで風花川へ向かいヤマメを釣り、買い食いを嗜む——彼女にとっての「本物の自由と幸福」が、確かにそこにあった。



 

第三幕:巡る温もりと、プレハブの笑顔

 

 歳月が流れ、一条山農林株式会社の代表取締役CEOに就任した結。

 夕暮れの一条山。完成した現場事務所からは、本日も賑やかな声が響いていた。

「結社長〜! 今月の加工部手当の明細見たッスよ! 『桜印のマーマレード』の完売歩合がバッチリついてて……しかも『強制定期預金:80,000円』って書いてあるッス!? 給料から毎月8万勝手に貯金されてるッスよーーー!!」

 赤髪ツインテールの遥花が、明細を手に半泣きで叫ぶ。

「ふふ、当然どすえ〜♪ 遥花ちゃんは気を抜くと全財産38円までお買い物してしまいますからね。これで1年後には、ほぼ100万円の現金が確実に貯まりますよってに」

「100万……! 結社長、マジで神ッスーーー!!」

「……落ち着け遥花、うっとうしいッス」

 隣で黒地雷系の私服を着た葵が、仕事猫のアクキーを揺らしながら冷ややかに突っ込む。

「……でも結社長、うちのこの『マキタ40V工具手当:15,000円分』……現場の重機整備と洗車を15分単位で厳密に計算してくれたおかげッス。現場指示ヨシ! 手当ヨシ! 結社長への感謝、完全にヨシ! ッス……」

「あはは! あたしのSTIHLチェンソー用品無制限支給も助かるよ。結さんのこの会社で働けて、ほんと幸せだねぇ」

 山親方のまひろが、缶ピーの紫煙を薄くくゆらせながら満足そうに笑った。

 ピコン——。

 その時、結のデスクに置かれたビジネス用タブレットから、軽快なチャット通知音が鳴った。

 画面に表示されたのは、橘法律事務所の橘栞弁護士からの緊急メッセージだ。

 結はふんわりとした笑顔のまま細い指先を数回タップすると、画面が開いてからわずか10秒でレスポンスを返した。

「結社長、また橘先生からッスか?」

 葵が不思議そうに覗き込むと、結はおっとりとした京言葉で和やかに応えた。

「ええ〜♪ 『東京の大手IT企業との商標権訴訟で、知財高裁の類似判例を至急揃えなさい!』と栞先生がパニックになられていましたので、過去10年分の重要判例5件の要約と争点整理を添えて、たった今送信しておきましたのや〜♪」

「……じ、10秒で知財高裁の判例要約……ッ!? 相変わらず本業のパラリーガルの仕事、早すぎるッス……!」

「ふふっ、栞先生からいただく高額な給料と成果歩合は、一条山の貴重な運営資金にもなっていますからねぇ。ウチが完璧な作業スケジュールと予算を組んで、現場の施工や伐採を頼もしい葵ちゃん、まひろちゃん、遥花ちゃんに任せられるのも、この『ダブルワーク』のおかげどすえ〜♪」

「本業を爆速で片付けて、あたしたちに現場を任せて完璧な手当とスケジュールを組んでくれるんだから、ほんと頭が上がらないねぇ」

 まひろが感心したように目を細め、三人衆は賑やかに「お疲れ様ッス!」と手を振り、サンバーやバイクのエンジンをかけて帰路につく。

 窓辺からその後ろ姿を愛おしそうに見送っていた結の隣に、櫻庭天がそっと歩み寄った。

「……結さん。三人とも、本当にいい顔をするようになったね。結さんが完璧な労働環境と居場所を作ってくれたおかげだよ」

 結は温かいほうじ茶の湯呑みを両手でそっと包み込み、ふんわりとしたタレ目を緩めてほほ笑んだ。

「いいえ……天様。救われているのは、ウチの方どすえ〜♪」

 結の脳裏に、かつて京都の雨の中で立ち尽くしていた自分の姿が浮かぶ。

 トゲトゲの地雷系ファッションで自分を鎧っていた葵。

 すべてを一人で抱え込もうとしていたまひろ。

 全財産38円で途方に暮れていた遥花。

(……あの子たちの姿は、かつて居場所を失い、強がることでしか自分を守れなかったウチそのものどす)

 だからこそ、結は自らの超並列演算脳と法務知識のすべてを注ぎ込み、15分単位の超勤計算、マキタ・STIHLの現物手当、浪費を防ぐ強制預金という「絶対の保護スキーム」を作り上げたのだ。

「ウチが雨の夜、この風花町で美和様や天様、千草さんに抱きしめてもらったように……今度はウチが、あの子たちの笑顔と居場所を守る番どす。あの子たちが弾けるような笑顔で『神ッス!』と笑ってくれる瞬間が……ウチの過去を綺麗に溶かしてくれる、何よりの薬どすえ〜♪」

 毎月初日には、大家のおじいちゃんとおばあちゃんへ5万円の賃料を届けに行き、千草直伝の滋味あふれるお重とヤマメの姿煮を手渡す。

「結ちゃん、いつもありがとうねぇ」と涙ぐむ老夫婦の笑顔。

 利益を内部留保として溜め込まず、全額を現場の給料と手当、そして山の保全へと還元する「損益分岐点ゼロ経営」。

「……会社が赤字にならなければ、それでようおます〜♪」

 夕焼けに染まる一条山を見上げながら、一条結はおっとりとした京都弁で静かに、けれど世界で一番幸せそうに微笑むのだった。

【あとがき】


いつも『Bar風花』ならびに外伝『一条山開墾記』をお読みいただき、本当にありがとうございます。

今回は、一条山農林株式会社の頼もしい代表取締役CEOであり、橘法律事務所の超凄腕パラリーガルでもある一条結さんの過去を描いた閑話をお届けいたしました。

実家の冷徹な都合で「ただの道具」として扱われていた結が、風花町で温かな出汁の味と人々の優しさに触れて涙を流し、やがて自らの力で三人娘(葵、まひろ、遥花)の笑顔と居場所を守る存在へと成長していく——。

本業を爆速で片付けつつ、完璧な施工スケジュールと過剰なまでにホワイトな手当を叩き出す結社長の優しさは、かつて自分がこの街で救われた経験から生まれたものでもあります。

自分を守る術(ジークンドー)を教えてくれたお付きの青年や、陰で愛娘の自由を後押ししていたお母様の存在、そして何があっても彼女を守る『Bar風花』の圧倒的なアライアンス。

冷たい雨の中にいた結の周りには、いつの間にか世界で一番あたたかく、誰も立ち入れない最高の居場所ができていました。


結社長と三人娘の賑やかな開墾劇、そして風花町に流れる穏やかな時間を「少しでも心が温まった」「面白かった」と感じていただけましたら、作品ページ下部の【★で評価】やブックマーク、感想などを残していただけますと、今後の執筆の大きな励みになります!


これからも彼女たちの歩む道を、温かく見守っていただければ幸いです。

天照(Bar風花)

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