『一条山開拓記』第二十一話:電光石火の成年養子縁組で葵ちゃんがうちの妹になったんどすえ〜♪
【前書き】
※本エピソード(一条山開墾記)は『Bar風花』本編の設定をベースにしたスピンオフ/パラレルストーリーです。本編との時期・時系列に一部独自のアレンジやIF要素が含まれますが、白黒赤三人娘と結社長の賑やかな日常をお楽しみください!
※今回は、主人公のひとりである葵が過去のすべての呪縛を断ち切り、名実ともに『一条 葵』へと生まれ変わる、シリーズ屈指の重要回となります。
※暴走するエリート秘書官の珍騒動と、柚子の木の下で交わされる姉妹の温かな誓いに注目してお楽しみください。
朝露に濡れる黄色い柚子の実と、チリひとつなく磨き上げられた本焼きの金鏝。
世帯を離れてもなお法に残された「血縁の鎖」を断ち切るため、動き出す知性たち。
泥にまみれ、傷だらけの手で直向きに生きてきた職人少女が、千年の誇りとともに新しい名前を手に入れる朝。
冷酷な実家の阿鼻叫喚と、夕暮れのガレージに誇らしく輝く真鍮の表札。
少女が本当の居場所と新しい家族に出会う歓びの瞬間を、どうぞ最後までごゆっくりお見届けください。
第一章:残された法的懸念と、橘栞の電撃提案
晩秋の冷気が心地よく頬を撫でる、風花町の静かな朝だった。
南向きの庭に植えられた柚子の木が、たわわに実った黄色い果実を朝露に濡らしている。その木陰の駐車スペースで、葵は朝一番から竹箒を手に、モモタロウピンクのスバル・サンバーの荷台を丁寧に掃き清めていた。
チリひとつない荷台の隅に、昨日取り戻したばかりのスチール製ツールボックスを大切に据え付ける。鏡のように研ぎ澄まされた本焼きの金鏝や、使い慣れた水平器。自分の手足となってきた道具たちがそこにあるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
足元では、精悍な黒虎毛の甲斐犬カイくんが「遊ぼう」とばかりに鼻先を擦り寄せてきた。その背中の上には、セーブルカラーのフェレットのカモくんが器用に乗っかり、葵の作業靴に向かってきゅっきゅと甘い喉を鳴らしていた。
「よしよし、カイくんもカモくんも、朝から元気っすねぇ。今日の一条山の現場も、しっかり頑張ってくるっすよ」
葵が八重歯を覗かせて二匹の頭を撫でていた、その時だった。
フォォォン……と、朝霧を切り裂くような低く澄んだ吸気音とともに、一台の黒い巨躯が路地を滑り込んできた。
橘栞弁護士の愛機、BMW M8 クーペ コンペティション。
特注色フローズン・ブラックに包まれた車体は、朝日を浴びても一切の反射を許さず、冷徹な刃物のような威厳を湛えていた。カーボンセラミックブレーキが微かな擦過音すら立てずに車輪を止めると、重厚なドアが開き、ダークネイビーのスーツを端正に着こなした栞が降り立ってきた。
「おはようございます、葵さん。朝から熱心ですね」
「栞先生! おはようございますっす! わざわざ朝早くからどうしたんすか?」
「ええ。昨日の手荷物回収と転出届に続き、あなたにどうしてもお伝えしておかなければならない『法的な残務』がありましてね」
平屋のリビング。縁側に面した無垢材のローテーブルには、淹れたての深煎りコーヒーと、一条山の清冽な伏流水を丁寧に沸かした白湯が並べられていた。
奥のシステムキッチンからは、朝早くから葵の様子を見に来ていた美和がオーブンを覗き込む気配と、甘く香ばしい焼き菓子の匂いがふわりと漂っている。
座椅子に腰を下ろした一条結が、柔らかく波打つ栗色の髪を揺らし、愛らしいタレ目を細めて栞を迎えた。
「栞先生、朝早くからご苦労様どすえ。今朝のフローズン・ブラックも、惚れ惚れするほど研ぎ澄まされておりますなぁ」
「ありがとうございます、結社長。……さて、本題に入りましょう」
栞はアンダーリムの眼鏡を人差し指で押し上げ、革のブリーフケースから数枚の戸籍謄本と六法全書を取り出した。
「葵さん。昨日、音成町役場において世帯分離届を提出し、住民基本台帳の閲覧制限措置を完了させました。これにより、実家側があなたの現住所や住民票の写しを取得することは法的に不可能です」
「はいっす。おかげさまで、昨夜は生まれて初めて足を伸ばしてぐっすり眠れたっす」
「ええ。ですが——法的には、まだ一点だけ、極めて厄介な『呪縛』が残されているのです」
栞の厳格な声音に、葵は居住まいを正した。
「……呪縛、っすか?」
「そうです。住民票上の世帯は分かれましたが、あなたと黒木建設の社長夫妻との間には、依然として民法上の『実親子関係』が存在しています。日本の法制度において、実親子関係は単なる親子の縁を切る宣言や勘当状などでは法的に絶対に消滅しません」
栞は万年筆の先で、戸籍謄本の筆頭者欄をトントンと叩いた。
「つまり、将来的に彼らが多額の負債を抱えて破産した際、生活保護法や民法第八百七十七条第一項に基づく『扶養義務の照会』が、行政を通じてあなたのもとへ届くリスクが残ります。さらに、彼らが不慮の事故等で他界した場合、あなたが相続放棄の手続きを家庭裁判所で行わない限り、実家の負債を自動的に背負わされる危険すらある」
「う……」
葵の顔に、苦い記憶の影がよぎる。どれほど遠くへ逃げても、あの冷酷な両親の影が法という鎖で自分を縛り続けているのだ。
「そこで、私からの提案です」
栞はスッと一枚の用紙をテーブルの中央へ滑らせた。
「葵さん。黒木の籍から完全に離脱し、新たな家督へと身を移す『成年養子縁組』を行い、実家との法的な導線を完全に遮断しませんか?」
「よ、養子縁組っすか……!? でも、うちもうハタチの大人っすよ? 成人してても養子になんてなれるんすか?」
「ええ、可能です」
栞は淡々と法文を諳んじた。
「民法第七百九十二条および第七百九十三条。未成年養子とは異なり、成年養子縁組には家庭裁判所の許可は不要です。唯一の実質的要件は『養親となる者が、養子となる者より年長であること』。養子となる側が尊属や年長者でさえなければ、養親が一日でも早く生まれていれば、法的に養親となることができます」
第二章:嵐を呼ぶ養子争奪戦 〜暴走秘書官の防衛ライン〜
「ふふっ……なるほど、そういうことどすか」
栞の説明を静かに聞いていた結が、ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「なら、話は早おすなぁ。葵ちゃん、ウチの養女になりまへんか〜♪」
「へっ……!? 結社長の、養女っすか!?」
「ええ。ウチは今年で二十六歳、葵ちゃんは二十歳。民法の年長者要件は完璧にクリアしておりますえ。葵ちゃんがウチの養女に入れば、氏(名字)は『一条』に変わります。『一条 葵』……うん、響きも雅やかで、一条山農林の取締役土木部長としても、ウチの家族としても百点満点どすえ〜」
結はおっとりと首を傾げ、至極当然のことのように微笑んだ。
だが、葵はハッと我に返り、心配そうに眉尻を下げて身を乗り出した。
「で、でも結社長……! 社長も京都の一条家を飛び出してきているって聞きましたけど……うちなんかを養子に迎えて、京都のご本家から怒られたりしないんすか? ほら、名門の跡継ぎ問題とか、血筋のしきたりとか、めちゃくちゃ厳しそうじゃないっすか……!」
葵の切実な問いかけに、結は手元の白湯を上品に一口すすると、愛らしいタレ目をいたずらっぽく細めた。
「ふふっ、心配いりまへんえ葵ちゃん。大人の養子縁組に本家の許可なんて法律上は一ミリも必要おまへん。ウチは実家を出た時点で戸籍を分籍して完全に独立しておりますさかい、本家の戸籍簿には葵ちゃんの名前は一文字も載りまへんのや。……それにね」
結の口角が、極上の角度でふわりと持ち上がる。
「もし京都の長老方がウチらの養子縁組に口を挟みに来はったら、ウチの脳内データベースに保管してある一条家の『過去三十年分のグレーな山林取引記録と、神社仏閣絡みの非課税スキーム裏帳簿』を、橘先生経由で国税局査察部へプレゼントする手はずになっておりますえ〜♪」
「……え?」
「東京の渉外ファームにおった頃、念のために全てバックアップを取っておきましたさかいな。本家が葵ちゃんに指一本触れようとした瞬間、京都一条家には未曾有の国税査察と追徴課税の嵐が吹き荒れることになりますのや〜♪」
「ええ。すでに告発書面のドラフトは私の執務室に保管してあります。いつでも押印できますよ」
栞がアンダーリムの眼鏡を人差し指で押し上げ、冷徹な微笑みで追従した。
「ひえぇぇぇ……! 結社長も栞先生も、絶対に敵に回しちゃいけないタイプっす……!」
葵が背筋を凍らせて引きつった笑いを浮かべた、まさにその時だった。
「あらあら、結さん。ずいぶんと抜け駆けの早いことですわねぇ」
キッチンのカウンターから、焼き上がったばかりのスコーンが載った小皿を手に、割烹着姿の櫻庭美和がくすくすと笑いながらリビングへ戻ってきた。
朝の光を浴びて、右のワインレッドと左のアンバーの異色瞳が、いたずらっぽく艶めいている。
「美和さん!」
「葵ちゃん、スコーンが焼けたわよ。熱いから気をつけてね。……それで結さん、葵ちゃんは私にとっても、天ちゃんにとっても、かけがえのない大切な妹のような存在ですのよ? ならば『櫻庭 葵』として、櫻庭家の籍に迎えるのも自然じゃありませんこと?」
「ほほぅ? 美和様、それは穏やかやおまへんなぁ」
結のタレ目の奥に、チロリと知的なスパークが走る。
「美和様のご実家、あの皇グループの現会長様に『曾孫、あるいは直系の新しい孫を迎えました』などとご報告されましたら、風花町に経済特区が三つほど新設されてしまう規模の大騒ぎになりますえ」
「あら、お祖母様は家族が増えることを何より喜ばれますわ。天ちゃんもきっと『葵ちゃんがうちの妹になってくれるなら大賛成だよ』って、満面の笑顔で書類にサインしてくれますもの」
美和がふんわりと微笑む。
京都一条家の当主と、日本経済の頂点に立つ皇グループ直系の御令孫による、静かで優雅な、しかし背負っているスケールが銀河系規模の養子争奪戦。
葵が「あ、あの、二人とも……うちなんかのために争わないでほしいっす……!」と両手を振ってパニックになっていた、その瞬間だった。
キキィィィーーーーーッッッ!!!
静寂を切り裂く、凄まじいタイヤのスキール音が庭先に響き渡った。
リキッド・シルバーの巨大なツアラー、BMW K1600GTLが、三百五十キロの車重を感じさせない神業のブレーキングで玄関前へと滑り込んできた。砂利を跳ねさせることもなく正確にサイドスタンドを路面に噛み合わせると、フルフェイスヘルメットを脱ぎ捨てた美女が、長い黒髪を振り乱してリビングへ飛び込んできた。
皇グループ会長秘書官兼、風花町支所責任者——天野里美である。
「お、お、お待ちになって美和様ーーーーーーッッッ!!!」
鬼気迫る表情で突入してきたエリート秘書官に、室内が一瞬で凍りついた。
「さ、里美さん!? 一体どこから聞きつけて……」
葵が目を白黒させる横で、里美は胸元を押さえ、肩で激しい息をしながら絶叫した。
「支所の監視カメラと音響センサーが、美和様の『櫻庭家の籍に』という不穏極まりないワードを感知いたしましたのよ!! 美和様、正気でいらっしゃいますの!? 葵さんが櫻庭家の養女になるということは……名字が『櫻庭』になるということはですわね!?」
里美の脳内スーパーコンピューターが、瞬時に破滅的な未来シミュレーションを描き出す。
——櫻庭葵。それはすなわち、海里様と法的に完全な『義理の姉弟』になるということ。
——ひとつ屋根の下、無防備な部屋着の葵さんと廊下ですれ違い、朝の食卓で「海里くん、お味噌汁のおかわりいるっすか?」「あ、ありがとう、葵姉さん……」などと微笑み合う海里様。
——年上の職人女子という無自覚あざとい属性で、海里様のパーソナルスペースへ合法的に踏み込み続ける義姉の存在……!!
「ギ……ギニャアアアアアッッ!! ダメです!! 絶対に、万にひとつも、天地がひっくり返ってもダメですわーーーーッ!!」
里美はスーツのポケットからシルクのハンカチをひったくるように取り出すと、両手で引き絞り、ギリギリギリッと犬歯で噛み締めた。目から血涙が噴き出しそうな勢いである。
「グギギ……! 海里様の隣という聖域に、そんな合法フリーパスの義姉ポジションなど設置されてたまるものですか……ッ!!」
「あら里美、何を一人でブツブツと物騒な妄想を膨らませているのかしら?」
美和が不思議そうに首を傾げる。
里美はバッと葵の前に膝をつき、両肩をガシッと掴んだ。
「葵さん!! 貴女のことは不当拘禁から救出しましたし、職人としての腕も人間性も深くリスペクトしております! ですが、こればかりは私の生命線に関わりますの! 貴女が入るべきは、櫻庭家ではなく一条家です!! 結さん、成年養子縁組届を今すぐここへお出しなさい!!」
里美は胸ポケットからモンブランの万年筆と、皇グループ風花町支所の公印を猛烈な勢いで取り出した。
「証人欄の筆頭は私が書きます! 証人その一、天野里美! 職業、皇グループ会長秘書官! 住所風花町支所! ほら、公印も押しましたわ!! 栞先生、証人その二の欄へ今すぐサインなさい! 結さん、葵さん、署名捺印の準備はよろしくて!?」
「言われなくても、職印とともに用意してありますよ」
栞が呆れ顔で万年筆を走らせる横で、結が涼やかな手つきで届出用紙を整えた。
「里美さん、筆圧で用紙が破れそうどすえ……」
普段の氷のように冷徹なエリート秘書官の面影はどこへやら。純度千パーセントの私情と妄想に突き動かされた暴走機関車と化した里美の猛プッシュにより、リビングは異様な熱気に包まれていた。
第三章:道具に宿る誇り 〜名跡を継ぐ覚悟〜
嵐のような騒ぎが一段落し、栞と里美が役場への提出書類の最終チェックを進める中。
葵は一人、リビングを抜け出し、庭の柚子の木の下に佇んでいた。
澄み渡る晩秋の空を見上げ、作業着のポケットから、小さく折りたたまれたウエスを取り出す。その中には、長年愛用してきた本焼きの金鏝が包まれていた。
鏡のように磨き上げられ、薄く椿油が引かれた鋼の地肌に、自分の冴えない顔が映り込んでいる。
「……一条、葵……」
ぽつりとその名を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「……何を立ち止まってはるんどすか、葵ちゃん」
柔らかく、耳に心地よい京言葉が背後から降ってきた。
振り返ると、作業着の上から茶色の綿入れ半纏を羽織った結が、穏やかなタレ目を細めて立っていた。
「結社長……」
「社長やおまへんやろ。もうすぐウチの娘……いや、可愛い妹分になるんどすさかい」
結は葵の隣にしゃがみ込むと、柚子の木の根元に手をつき、葵の持っている金鏝をそっと覗き込んだ。
「……ウチの養子になるの、怖おすか?」
「……怖い、っていうか……」
葵は視線を落とし、不器用そうに八重歯を噛んだ。
「うち、土木科を出て、現場で泥にまみれて油にまみれるしか能がない落ちこぼれっす。実の親からも『黒木の恥晒し』『男の現場にしがみつく出来損ない』って言われ続けて捨てられた人間なんすよ……」
ぎゅっと、鏝を握る指先に力が入る。
「そんなうちが……京都一条家なんて、教科書に載るようなやんごとなきお家の名前を名乗っていいわけがないっす。一条の名前を、うちの泥臭い手で汚してしまうんじゃないかって……そう思ったら、急に手が震えてきちゃって……」
静かな沈黙が流れた。
柚子の葉を揺らす風が、さわさわと優しい音を立てる。
結は何も言わず、すっと自分の手を伸ばした。
葵の、豆が潰れ、擦り傷が刻まれ、コンクリートと土の匂いが染み付いた無骨な右手を、自らの白く柔らかな両手で包み込む。
「……葵ちゃん。ウチの一条家が、何のために千年間続いてきたか知ってはりますか?」
「え……? ええと、公家の……偉いお公家様、っすよね?」
「ふふっ、それだけやおまへん」
結は優しく微笑み、風花町の山並みを見つめた。
「平安の昔からな、ウチの先祖は土と森を見守り、暴れる川を鎮め、山を敬いながら人が安心して暮らせる境界を守るために朝廷に仕えてきた家筋どす。華やかな和歌や雅な装束の裏で、常に見ていたのはこの大地そのものどした」
結の視線が、再び葵の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「山を切り開き、泥を均し、人が安心して歩ける道を作る。雨風に耐える石垣を積み、基礎を固める。……葵ちゃん、これ以上に尊く、大地に誠実な仕事がこの世におますやろか?」
「結、社長……」
「ウチはな、あの黒木建設のヤードで、あなたが命のように手入れしてきたこの鏝を見たとき、心の底から誇らしかったんどすえ。親の歪んだ見栄にも屈せず、理不尽な暴力にも魂を売り渡さず、ただひたすらに土と向き合ってきたこの手。……このピカピカに研ぎ澄まされた鏝こそが、ウチの蔵に眠るどんな刀や骨董品よりも、一条の誇りに相応しいんどすえ」
結の瞳に、嘘偽りのない深い慈愛と、揺るぎない覚悟が灯っていた。
「葵ちゃん。ウチの家名を背負うんやない。あなたがウチと一緒に、新しい一条山を拓くんや。ウチの妹になって、胸を張って『一条葵』と名乗っておくれやす」
視界が、急速に歪んだ。
ボロボロと、大粒の涙が葵の頬を伝い落ち、手入れされた金鏝の鋼の上に落ちて弾けた。
二十年間、ずっと欲しかった言葉。
泥だらけの自分を、誰よりも認めてほしかった確かな温もり。
「……う……ぐすっ……結姉さん……!」
葵は袖口で何度も涙を拭いながら、八重歯を見せて、秋晴れの空のように笑った。
「うち……一条葵になるっす! 一条山の現場も、結姉さんのことも……うちのこの手で、一生守り抜いてみせるっす!!」
「ええ。よう言うてくれました、葵ちゃん」
結は嬉しそうに目を細め、泣きじゃくる葵の頭を、母親のように、そして最愛の姉のように優しく抱きしめたのだった。
第四章:電光石火の除籍と、黒木建設の完全沈没
その日の午前十一時。
音成町役場の住民課窓口には、異様な緊張感が漂っていた。
カウンターの前に並び立ったのは四名。
先頭に立つのは、冷徹な知性を放つ橘栞弁護士。その隣に、おっとりとした気品を漂わせる一条結。背後で「これで海里様の純潔は守られましたわ……!」と安堵の息を漏らす天野里美。そして、作業着姿の葵である。
「成年養子縁組届ならびに、養子縁組に伴う新戸籍編製、および住民基本台帳支援措置の継続適用申請書です。不備はありませんね?」
栞が提出した書類一式を、窓口の係長が震える手で受け取った。
養親欄には『一条 結』、養子欄には『黒木 葵』。
そして証人欄には、燦然と輝く『天野 里美』の署名と皇グループの公印、それに『橘 栞』の弁護士職印。
「こ、これは……京都一条家本流への養子縁組……!? しかも皇グループの会長秘書官と橘弁護士が連名で証人……!?」
係長の顔から血の気が引いていく。
地方公務員として長年勤めてきた男の直感が告げていた。この書類は、一秒の遅滞も許されない国家特級案件であると。
「た、直ちに処理いたします! 葵さん、少し奥のソファでお待ちください!」
通常なら数日を要する電算処理と戸籍謄本の編製が、役場始まって以来の電光石火のスピードで進行していく。
カタカタと激しいキーボードの打鍵音と公印の押印音が響き渡り、わずか二十五分後。
窓口から恭しく差し出された真新しい戸籍謄本の束。
筆頭者:一条 結。
養子:一条 葵。
二十年間、少女の魂を縛り続けてきた忌まわしい『黒木』の二文字は、この国の一切の公的台帳から、完全に消滅したのだった。
* * *
同日、午後二時。音成町・株式会社黒木建設本社。
重苦しい静寂が立ち込める社長応接室へ、顧問弁護士から一通の親展書留が速達で届けられた。
ソファーに沈み込み、胃薬の空き袋を散らかしていた父親が、震える指先で封筒を破る。中から出てきたのは、葵に関する調査報告書と、音成町役場から送達された戸籍の除籍通知だった。
「な、なんだこれは……? 葵の除籍……?」
父親の呟きに、専務の母親と長女の美咲が血相を変えて駆け寄る。
「お父様、何が届きましたの!? まさか、あの出来損ないが泣きついて……」
美咲が父親の手から書類をひったくり、記載された文面に目を落とした。
その瞬間。
「……っ!?」
美咲の喉から、ヒュッと息の詰まるような音が漏れた。
両目が限界まで見開かれ、タブレットを持つ手が激しく痙攣し始める。
「み、美咲? どうしたのよ、何が書いてあるの!?」
「あ……あ……あり得ませんわ……こんなこと……あり得ませんわーーーーッ!!」
美咲は髪を振り乱し、悲鳴を上げながら書類をテーブルへ叩きつけた。
父親と母親が覗き込んだその紙面には、冷酷無比な行政の公印とともに、決定的な事実が刻印されていた。
【除籍者:黒木 葵】
【除籍事由:一条 結との成年養子縁組届出の受理に伴い、一条家新戸籍へ編製・入籍】
「い、一条結の……養子ぃぃぃぃッッ!?」
父親の絶叫が応接室に木霊した。
「京都一条家……公家五摂家筆頭の……あの一条家の戸籍に入ったというのかぁぁぁ!!」
「そうですわよお父様!!」
美咲が狂ったように叫び立てる。
「葵はもう『黒木』の人間じゃありませんのよ! 法律上、私たちとの親族関係は完全に切り離され、教科書に載るような雲の上の名門貴族の令嬢になったんですわ!!」
「な、なんで……! なんであんな泥臭い落ちこぼれが、五摂家の姫になってるのよぉぉぉ!!」
母親が床に膝をつき、絨毯を爪でバリバリと掻きむしりながら狂乱した。
「私たちが捨てたゴミだったのよ!? 警察で前科者にして、一生日陰者を歩かせるはずだったのよ!? なんで私たちより何百倍も格式の高い名家の令嬢になってるのよぉぉぉッ!! グギギ……グギギギギギ……ッ!!」
母親の口端から、歯ぎしりのあまり鮮血が滲み出る。
「お、おい美咲……っ! 葵に、いや一条葵様に連絡だ!」
父親が床を這いずり回り、涙と鼻水を撒き散らしながら美咲の脚にしがみついた。
「『実の親だ、育ててやった恩がある、黒木建設の顧問になってくれ』と頼み込むんだ! 五摂家の令嬢が後ろ盾になれば、うちの会社は安泰だ! 億単位の公共事業が舞い込んでくるぞ!!」
「できるわけないでしょうがお父様ぁぁぁッ!!」
美咲が父親の手を無慈悲に蹴り飛ばした。
「役場で完璧に閲覧制限がかけられ、弁護士と一条家がガチガチに法的な結界を張っているんですのよ!? 下手に接触しようとした瞬間、接近禁止命令と損害賠償、さらには国交省への告発で我が社なんて一瞬で消し飛ばされますわ!!」
美咲の瞳から、プライドが粉々に砕け散った絶望の涙が溢れ出していた。
「葵はもう、私たちが触れることすら許されない『神社の御神体』になってしまったんですのよぉぉぉ……!!」
「がはっ……!!」
父親が両手で腹を押さえ、絨毯の上へのたうち回った。
「胃が……! 俺の胃袋が、完全に消滅するぅぅぅ……!! 救急車……救急車を呼べぇぇぇ……!!」
阿鼻叫喚の絶叫が響き渡る黒木建設本社。
自分たちが踏みにじり、捨て去ったはずの少女が、二度と手の届かない遥かな天空の星となった事実。
手元に残されたのは、傲慢の果てに自らを焼き尽くす、底知れぬ地獄の劫火だけだった。
エピローグ:新しい表札の下で
茜色の夕暮れが、一条山の尾根を美しく染め上げていた。
南東の高台に造成中のヤード。その一角に先行して建てられた、木造平屋の頑丈なインナーガレージの前で、葵は真新しい作業着の袖をまくり上げていた。
手には、使い慣れた水平器と電動ドライバー。
ガレージの頑丈な柱の正面、目線の高さに、一枚の真新しい真鍮のプレートが当てがわれている。
「……よし、気泡はセンター。傾きゼロっす」
ウィィィン、と心地よいモーター音とともに、プレートと同素材の真鍮製木ネジが吸い込まれるように柱に固定された。
夕日を受けて黄金色に輝く真鍮のプレート。
そこに深く刻まれていたのは——
『株式会社一条山農林 土木部 一条 葵』
その文字を指先でそっと撫でた葵の胸に、熱い誇りが込み上げてくる。
「いい表札さね、葵!」
バチンッ! と豪快な音を立てて背中を叩いてきたのは、ドカジャンを着たまひろだった。
「『一条葵』! ガッツがあって、泥臭くて、最高にカッコいい名前じゃないか!」
「まひろ先輩、叩くの痛いっすよ〜! えへへ、でも、すごく気に入ってるっす!」
「遥花ちゃん、凛ちゃん、見てよ! 葵ちゃんのピット、完璧に水平が出てるよ!」
サンバーの荷台に腰掛けていた遥花と凛が、拍手をしながら手を振った。
「当たり前ッスよ! ウチらの自慢の土木部長ッスからね!」
「ガレージの床の防塵塗装、今度の休みにみんなでピカピカに仕上げようね!」
温かな笑い声が山裾に響き渡る中、麓の『Bar風花』の裏手から、散歩がてら天が歩み寄ってきた。
「葵ちゃん、本当におめでとう。今夜はね、美和さんがカウンターで特別な乾杯を用意して待っているよ」
「天さん! はいっす、すぐ行くっす!」
夜の帳が下りた『Bar 風花 -kazahana-』。
重厚なオーク材の扉を開けると、程良く効いた空調の温もりと、古いレコードから流れる静かな旋律が優しく迎えてくれた。
磨き上げられた鉄刀木のカウンター。その中央の席へ腰掛けた葵の正面へ、美和が穏やかな微笑みとともに、脚の細い繊細なクリスタルフルートグラスを静かに差し出した。
グラスの底で揺らめくのは、淡い桜色のシロップと、搾りたての日向夏の鮮やかな黄金色。そこへ冷えた強炭酸水が満たされ、バースプーンが氷を一筋だけ静かに持ち上げると、微細な泡がまるで星屑のように立ち上っていった。
「葵ちゃん。新しい人生の門出に、私からのささやかなお祝いです」
グラスの縁には、丁寧に塩抜きされた桜の花が一輪、美しくあしらわれていた。
「わあぁぁっ……! 桜の香りと、柑橘のすごく爽やかな匂いがするっす……!」
「アルコールは入っていませんから、安心して召し上がれ。名前はね——『一条の風花』よ」
美和が優しく目を細め、隣に座る結と天、そして後ろで見守る千草たちへ視線を向けた。
「この風花町で、大地とともに生きるあなたに、いつまでも温かな風が吹き抜けますように」
葵は両手で大切にグラスを持ち上げ、小さく口をつけた。
日向夏の清々しい酸味と、桜の優しい甘みが口いっぱいに広がり、炭酸の心地よい刺激が胸の奥をすっきりと洗い流していく。
「……おいしいっす……! すごく、あったかい味がするっす……!」
「ふふっ、喜んでもらえてよかったどすえ」
隣で手削りの氷を浮かべた抹茶モクテル・オン・ザ・ロックのグラスを傾けていた結が、愛らしいタレ目を和ませて葵の肩に手を添えた。
「これからよろしく頼みますえ、ウチの可愛い妹……一条葵ちゃん」
「はいっす、結姉さん!」
葵は満面の笑みで八重歯を覗かせ、誇らしげに胸を張った。
かつて泥と涙にまみれ、暗闇の中で膝を抱えていた少女は、もうどこにもいない。
鉄刀木のカウンターに満ちるアンバー色の柔らかな光と、微かに漂う桜の香り。
かけがえのない本物の家族に囲まれながら、少女の新しい物語は、いま確かな光とともに幕を開けたのだった。
【あとがき】
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
今回は、葵ちゃんが法的な呪縛を完全に断ち切り、結社長との成年養子縁組によって正式に『一条 葵』へと生まれ変わる、本作にとっても極めて大切な節目となるエピソードでした。
住民票を分けただけでは消えない「実親からの将来的な扶養義務照会」という現実的な法の盲点を、成年養子縁組という電光石火の手続きで完全に封殺する橘栞弁護士の切れ味。
そして、「もし櫻庭の籍に入ったら海里様と義理の姉弟になってしまう……!」と被害妄想の血涙を流しながら乗り込んできて、一条家の届出に力任せに公印を叩きつけていった天野里美秘書官の暴走機関車っぷりには、書いていて思わず吹き出してしまいました。
けれど、本作で一番書きたかったのは、やはり第3章の柚子の木の下での対話です。
「自分のような泥臭い人間が、一条の名を汚してしまうんじゃないか」と震える葵ちゃんに対し、千年間大地を守り川を鎮めてきた一条家の歴史を説き、丹念に手入れされた本焼きの金鏝こそが最高の誇りだと伝えた結社長。
実の親から「出来損ない」と罵られ、孤独に耐えてきた女の子が、ようやく心から認められ、無条件の愛情で抱きしめられた瞬間の救済を、丁寧に描写いたしました。
一方、除籍通知を突きつけられて「もはや触れることも許されない神社の御神体になってしまった」と絶叫する長女・美咲と、畳を掻きむしりながら血を流す母親の「グギギ…」という断末魔には、これまでの理不尽を思えば、読者の皆様にも胸のすく思いを味わっていただけたのではないでしょうか。
『Bar 風花』で美和さんが差し出してくれた、門出の特製モクテル『一条の風花』のように、葵ちゃんの新しい人生が温かな光と優しい風に包まれることを願ってやみません。
「葵ちゃん、本当におめでとう!」「結社長の言葉に泣けた!」「スカッとした!」と思っていただけましたら、作品への評価【★★★★★】やブックマーク、温かいご感想などをいただけますと、これからの執筆の大きな大きな励みになります!
また次のエピソードで、新しい名前を胸に誇らしく大地を拓く一条葵ちゃんたちの姿をお届けできれば幸いです。
天照(Bar風花)




