『一条山開拓記』閑話:黒木葵 〜世界が敵に見えていた少女が、一番自分を好きになる場所〜
【前書き】
※本エピソード(一条山開墾記)は『Bar風花』本編の設定をベースにしたスピンオフ/パラレルストーリーです。本編との時期・時系列に一部独自のアレンジやIF要素が含まれますが、白黒赤三人娘と結社長の賑やかな日常をお楽しみください!
秋の西日に染まる一条山の広場。コマツのユンボのキャタピラに腰を下ろした葵が、泥と油にまみれた自分の手と、ピンクのヘルメットを見つめながら呟くのは、かつての孤独な自分と、いま目の前にある温かな居場所のこと。
土と汗の匂いに満ちた昼の現場から、桜の香りが漂う夜の『Bar風花』へ。少女が初めて知った「誇り」と、本物の大人たちに囲まれた絆の物語を、どうぞゆっくりと味わっていってください。
秋の陽が、西の山並みへと静かに傾いていく。
夕映えの茜色が一条山の広場一面を満たし、切り拓かれたばかりの大地をあたたかな橙色に染め上げていた。
一日の作業を終え、エンジンを切ったコマツの油圧ショベル。そのずっしりと冷えた鋼鉄のキャタピラに腰を下ろし、黒木葵は「……ふぅ」と深く息を吐き出した。
汗の染みたタオルで首筋を拭い、泥や油の汚れを丁寧に拭き取っていく。綺麗に洗車を終えた重機の黄色いボディが、残照を受けて静かに鈍い光を返していた。
膝の上には、ワークマンプラスで購入したお気に入りのピンクヘルメット。
その側面に貼られた「安全第一」の猫キャラクターのステッカーを、葵は機械油の染み込んだ親指でそっと撫でた。
「……へへっ。昔のうちに言ったら、絶対信じないと思うっすけど……」
誰に聞かせるでもなく、葵はぽつりと呟いた。
せせらぎの微かな水音と、草むらから響く秋虫の澄んだ鳴き声が、夕暮れの静寂の中に優しく溶けていく。
「……昔はさ。大人なんて全員嘘つきで、自分勝手な生き物だって本気で思ってたっすよ。学校なんて行く気もしねぇし、世界中ぜんぶが敵に見えて……自分の部屋に閉じこもって、夜中ずっと壁を殴ってたっす」
自嘲気味に小さく鼻を鳴らし、作業服の袖で額の汗をぬぐう。
だが次の瞬間、葵はすっと顔を上げ、茜色の空を真っ直ぐに見つめた。
「でもさ。天さんがうちのボロバイクのキャブセッティングを、嫌な顔ひとつせず本気で一緒にやってくれた時……ものづくりに嘘はつけないよって、その背中で教えてくれたっす。それに……結社長」
葵は作業服の胸ポケットへとそっと右手を当てた。
そこには、一条山農林株式会社の金箔押しされた名刺が大切にしまわれている。
丁寧に折りたたまれた、最初の給与明細もそこにあった。
「うちみたいなガキに『現場監督』なんて立派な肩書きの名刺をくれてさ。朝早く起きて重機の点検をしたら、十五分単位でちゃんと早出手当をつけてくれて……うちが大好きなマキタのツール導入補助まで出してくれるんすよ」
吐き出す言葉の一つひとつに、胸の奥底からこみ上げる熱い感情が滲む。
「世の中の大人ぜんぶを信じられるかと言われたら、正直まだ怪しい奴もいると思うっす。……だけど! 結社長や天さん、そして美和さんたちのことは、うちは命を預けられるくらい信じてるっす。あんなに格好良くて優しくて、うちらが流した汗をちゃんと見てくれる本物の大人がいるんだって……ここで初めて知ったっすから」
葵はキャタピラから立ち上がり、夕陽を背負うコマツのユンボを見上げた。
その隣には、頼もしいいすゞのエルフダンプが並んでいる。
そして視線の先には、自分たちの手で基礎を打ち、組み上げたプレハブ事務所が誇らしげに佇んでいた。
「仕事……? 最高に決まってるじゃないっすか!! コマツのレバーを握って、頑固な竹の地下茎を一発でバリバリ引き裂いた時の手応えも、山菜ラインの作業道が綺麗に貫通した時の達成感も、ぜんぶうちらの誇りっす! それにさ……十二時になったら美和さんが作ってくれた激ウマな豚の角煮が待ってて、五時になったら洗車して、夜は『Bar風花』でみんなで乾杯できるんすよ」
ピンクのヘルメットを両腕でぎゅっと胸に抱きしめ、葵は眩しいほどの笑顔を弾けさせた。
「うち、今自分が生きてる中で、一番自分が好きだし……この仕事と、この仲間が誇らしいっす。……うちを居場所のある現場監督にしてくれた結社長たちに、うちの技術と重機で一生恩返ししていくっすよ!!」
夕暮れの山林に、葵の澄んだ誓いの声が真っ直ぐに響き渡った。
「……相変わらず最高に格好いい現場監督だねぇ、葵」
ふいに、プレハブ事務所脇の作業小屋の陰から、落ち着いた声がかけられた。
ポニーテールを揺らし、ホンダ・XR400Rのオイル拭き用ウエスを手にしてハスキーに笑っていたのは、白石まひろだった。
「ま、まひろ先輩……!? い、いつの間にそこにいたっすか……!?」
葵の頬が一瞬で真っ赤に染まる。
照れくささのあまり、抱えていたピンクヘルメットで必死に顔を隠した。
そこへ、CBR900RRのキーホルダーをジャラリと鳴らしながら、赤城遥花が勢いよく飛び出してきた。
「テンゲキーーーーーッ!! 葵先輩……! マジでエモすぎてウチの語彙力が完全に蒸発したッスーーー!! 残高三十八円の限界オタクだったウチを拾ってくれたこの場所と、葵先輩たちに一生ついていくッスよーーーー!!」
「やかましいよ遥。泣きすぎだっての」
まひろが苦笑しながら、真っ赤になっている葵の頭をワシワシと優しく撫で回した。
その温かなやり取りを見守るように、プレハブの木製デッキから二つの足音が近づいてくる。
首から一眼レフカメラを下げた櫻庭天と、書類バインダーを抱えた一条結だった。
天は照れくさそうに目元を和ませ、カメラのレンズキャップをカチリと嵌めた。
「……葵ちゃん。最高の言葉をありがとう。今の言葉は、僕が書いてきたルポの取材の中でも、一番心に深く響いたよ」
「天さん……っ……!」
結もおっとりとタレ目を細め、胸の前で大切そうにバインダーを抱きしめた。
「ふふっ、恩返しだなんてとんでもありませんのや、葵ちゃん。葵ちゃんが毎日誇りを持って重機を操り、安全第一で山を拓いてくださるからこそ、我が社はこうして温かいご飯を食べられますのや。……葵ちゃんは、我が一条山農林の自慢の現場監督どすえ〜♪」
「……結社長……っ……!」
胸を突かれた葵が、熱くなった目頭をぬぐいながら深々と頭を下げた。
夕映えの光を浴びる重機たちが、まるで彼女たちの絆を祝福するように、静かに、そして力強く佇んでいた。
夜の八時。
風花町の路地の奥、『Bar 風花 -kazahana-』の重厚なオーク材の扉を開けると、ほのかに漂う桜の花の甘い香りが優しく身体を包み込んだ。
澄みきった静けさの中、磨き上げられた鉄刀木の一枚板カウンターが、アンバー色の間接照明を受けて艶やかに光を湛えている。奥の戸棚では、バカラのクリスタルグラスが虹色の輝きを静かに放っていた。
カウンターの奥では、オーナーバーテンダーの美和がワインレッドとアンバーの異色瞳を優しく細め、バカラのグラスへ静かに美酒を注いでいた。
それは、風花町特産の完熟イチゴを丁寧にマドリングし、一条山の清らかな天然水と微炭酸、自家製ミントシロップを重ねた、葵のための特製モクテル『ストロベリー・クリスタルフィズ』だった。
透明な氷の間でルビー色のグラデーションが繊細に揺れ、照明の下で美しく艶めいている。
「葵ちゃん。自分の手で居場所と技術を掴み取ったあなたを、お姉ちゃんは心から誇りに思うわ」
美和はカウンター越しにそっと手を伸ばし、葵の頭を愛おしそうに撫で下ろした。
「……美和さん……っ……」
「……あおい……かっこいい……。みゆきの……おねえちゃん……。やきいも……はんぶんこ……」
隣の黒革ローチェアーで焼き芋を頬張っていた深雪が、黄金色の瞳をパチクリとさせて葵の袖をちょんちょんと引いた。そして、手元の一番甘そうな焼き芋をふたつに割り、湯気の立つ半分をそっと葵の手のひらへ乗せてくれた。
「……っ〜〜〜〜! 深雪ちゃん……! ありがとうっすーーー!!」
葵が感極まって焼き芋を受け取ると、店内に温かな笑い声が広がった。
「さあみなさん。今夜も安全第一で素晴らしい一日を終えられたことに……」
結のおっとりとした掛け声に合わせ、店内の全員がグラスを胸の高さへと掲げた。
「「「ご安全に!!!!」」」
澄んだクリスタルの触れ合う音が、静かな店内にカチンと涼やかに響く。
アンバー色の光が優しく満ちる『Bar風花』の店内に、温かな笑顔と、決してほどけない確かな絆がどこまでも穏やかに溶けていくのだった。
【あとがき】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回は黒木葵の閑話をお届けしました。かつては世界を敵に回したように心を閉ざしていた彼女が、一条山でのガチな土木作業や、結社長たち大人の誠実さに触れて「現場監督」として胸を張っていく姿を、どうしても一度じっくり書きたいと思っていたんです。
ピンクのヘルメットとコマツのユンボ、そして夜の『Bar風花』で味わう特製モクテルと深雪の焼き芋。彼女が自分の手で掴み取ったこの居場所が、読者の皆様の心にも温かく残ってくれたなら、これ以上ない幸せです。
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それではまた、次回の開墾記でお会いしましょう!
署名:天照(Bar風花)




