第5話 腕飾りの傷
エレノア・グレイヴの腕飾りについて最初の報告が届いたのは二日後だった。リュシアンは自室の机でマルセルが差し出した紙を受け取った。そこには夜会でエレノアが身につけていた装身具の種類と修繕に出された記録がまとめられている。
「読み上げろ」
「はい」
マルセルは紙を開いた。
「銀製の細い腕飾り。北方領の職人によるもの。留め具にわずかな不具合があり、夜会の翌朝、グレイヴ侯爵家から王都の細工師へ修繕に出されています」
「翌朝?」
「はい。細工師の証言では留め具が緩んでいたとのことです」
リュシアンは椅子の肘掛けを指で叩いた。やはり留め具が緩んでいた。
それが袖を裂く道具になったのだ。
「不具合は以前からか」
「その点は不明です。ただ細工師によると古い傷もあったそうです」
「古い傷?」
「はい。留め具部分に何度か布に引っかけたような細い傷があると」
リュシアンは短く笑う。それを聞いたマルセルが顔を上げる。
「殿下?」
「偶然と言い切るには揃いすぎている」
「まだ断定はできません」
「留め具が緩んでいた。布に引っかけた傷がある。夜会で袖が裂けた。それで十分だ」
「細工師は普段使いでも起こり得る傷だと述べています」
「そう言うだろうな」
リュシアンは紙を机に置いた。証拠にはならない。そんなことは分かっている。
腕飾りの傷などいくらでも説明できる。古いものを使っていた。留め具が緩んでいた。踊りの最中に偶然引っかかった。すべて自然に聞こえる。
だがリュシアンは知っている。自然に見えるように作るのだ。
黒瀬美緒もそうしていた。決定的な証拠など残さない。相手が「わざとだ」と言っても周囲が首を傾げる程度の痕だけを残す。説明はできる。だが疑う者には分かる。
エレノア・グレイヴはそれをやった。王子相手に。
「グレイヴ嬢はその腕飾りをいつから使っている」
「王都へ来る前からの品とのことです。侯爵領の職人が作ったもので数年前から所持していると」
「数年前」
「はい」
「なら今回のために用意したものではないというわけか」
「そう見えます」
マルセルは慎重に答えた。その言い方が気に障った。
「お前は彼女を庇うのか」
「事実を申し上げています」
「事実、事実か」
リュシアンは紙を指で押さえた。
「事実は見せ方で変わる。腕飾りが古いからといって今回使えないわけではない。むしろ古い方がいいこともある。傷があっても不自然ではないからな」
マルセルは黙った。反論は出ない。だが納得している顔でもない。
「何か言いたそうだな」
「恐れながら」
「言え」
「グレイヴ嬢が殿下を陥れようとした証拠を探しているはずが、今は根拠にならないものまで拾おうとしているように見えます」
リュシアンの指が止まった。報告書を持つマルセルの手にも緊張が走った。
「お前は私の判断がおかしいと言いたいのか」
「そうではありません」
「では何だ」
「殿下が強く警戒されていることは分かります。ですが、相手のすべてを疑う形になればかえって殿下が不利になります」
「不利とはどういうことだ」
「はい。王妃陛下は昨夜の件をこれ以上広げたくないとお考えです。ここで殿下がグレイヴ家を探り続ければ夜会の事故ではなく、王子が侯爵令嬢に執着しているという見え方になります」
その言葉は正しかった。だから腹が立った。執着という響きが耳に残る。
王子が令嬢に執着している。そう見えるのは避けなければならない。
だが調べなければ相手の正体は分からない。晴臣が戻ってきたのならこちらが先に見つけなければならない。前世のようなことはさせないために。
「マルセル」
「はい」
「私が執着しているように見えないよう調べろ」
「……承知しました」
「グレイヴ嬢の周囲だけではない。昨夜の控え室にいた侍女、細工師、仕立屋、夜会で近くにいた令嬢たち。噂の流れも見ろ」
「噂の流れ、ですか」
「誰が最初に話したか、どう広がったか、彼女が誰かに何を言ったか」
マルセルは表情を曇らせた。
「殿下。令嬢方の会話を調べるのは危険です」
「直接聞けとは言っていない」
「それでも社交界の噂へ入れば目立ちます」
「なら目立たない者を使え」
マルセルは答えなかった。リュシアンは彼を見た。
「私の命令が聞けないのか」
「聞きます」
「なら動け」
「承知しました」
マルセルは礼をして退室した。扉が閉まるのを見てリュシアンは机の紙に目を落とす。
腕飾りの傷。留め具の緩み。翌朝の修繕。それだけでは弱い。だが疑惑としては十分だった。
エレノアは偶然を装った。ならばその装いを剥がせばいい。問題は彼女の周囲だ。
あの執事の存在も気になっている。
身元不明で五年前に現れエレノアがそばに置いた男。だが袖を裂いたのはエレノアだ。場を作ったのも庇う言葉を選んだのもあの令嬢だった。
ハーヴェイは彼女の近くにいる者の一人にすぎない。
前世のことを誰かと共有できればよかった。だがそんなことを言えばどうなる。私は前世で黒瀬美緒という女でした。
槙野晴臣という男に殺されました。その男が侯爵令嬢として転生してきたかもしれません。
誰が信じる。王子が乱心したと見られるだけだ。リュシアンは紙を引き出しへしまい鍵をかけた。
自分で調べるしかない。
その日の午後王妃から茶に呼ばれた。
小さな茶室には王妃アデライードと侍女長イザベルだけがいた。銀の茶器、薄い焼き菓子、窓辺の花。穏やかな午後の場が整えられている。だがリュシアンは招待の意味をすぐに理解した。
尋問ではない。けれど確認ではある。
「座りなさい」
王妃は言った。リュシアンは席についた。
「昨夜は眠れましたか」
「はい」
嘘ではない。短くは眠った。夢に歩道橋が出ただけだ。
「グレイヴ嬢のことを調べているそうですね」
王妃は茶を注ぎながら聞く。リュシアンは表情を変えなかった。
「侯爵家の令嬢です。今後王宮で関わることもあるでしょう。知っておくべきかと」
「袖の件があったから、ではなく?」
「それもあります」
隠しすぎても怪しい。だから一部だけ認める。
「私と踊っている最中に起きたことです。彼女に不都合がないか確認したかった」
「腕飾りの細工師まで?」
リュシアンは茶器へ伸ばしかけた手を止めた。耳が早い。王妃はすでに知っている。
「母上はよくご存じですね」
「王宮で王子が動けば耳に入ります」
「私は彼女を責めるつもりではありません」
「なら調べ方を考えなさい」
王妃の声は抑えられていた。
「リュシアン。あなたは第一王子です。あなたが調べるだけで相手には圧になります。まして相手は侯爵家の令嬢。昨夜の事故の直後に動けばあなたが彼女を疑っていると見られます」
「疑われるようなことがなければ問題はないのでは」
「その言い方はよくありません」
王妃はすぐに返した。
「後ろ暗いことがないなら調べられてもよいという考えは、権力を持つ者が口にすると暴力になります」
リュシアンは茶器を持ち上げた。指先に薄い熱が伝わる。
「私は暴力を振るっているつもりはありません」
「つもりがなくてもそうなることがあります」
「グレイヴ嬢は私を庇いました」
リュシアンは言った。王妃の目が動く。
「その言葉を使うのですね」
「周囲はそう見たでしょう」
「あなたも?」
「はい」
「なぜ?」
また問いだ。なぜ庇ったと思うのか、なぜそれを不審に思うのか。
説明などできるはずがない。エレノアのやり方が黒瀬美緒と同じだからだ、とは言えない。リュシアンは言葉を選んだ。
「令嬢が自分の袖を破られた時まず相手を庇うのは不自然です」
「彼女はあなたが悪意を持ってしたとは思えなかっただけかもしれません」
「それでも、早すぎました」
「早すぎた?」
「はい」
リュシアンはそこまで言ってから口を閉じた。言いすぎた。王妃は見ている。
「あなたは彼女が何を言うか予想していたように聞こえます」
「経験です」
「どんな経験?」
王妃の問いが鋭くなる。リュシアンは笑った。
「夜会では小さな事故でも噂になります。私は王子ですからそういう場に慣れているだけです」
王妃はしばらくリュシアンを見ていた。納得していない。だがそれ以上は追わなかった。
「しばらくグレイヴ嬢への私的な接触は控えなさい」
「すでに伝言をいただきました」
「守りなさい」
「はい」
「調査も必要以上にはしないこと」
「必要な範囲で」
「その範囲をあなた一人で決めないように」
リュシアンは返事をしなかった。王妃は茶器を置きリュシアンを見る。
「リュシアン」
「はい」
「あなたは彼女に何を見ているのですか」
リュシアンは母を見た。王妃は責めているのではない。ただ見ている。
その目がエレノアと重なりかけた。リュシアンはその幻想を振り払う。
「珍しい令嬢だと思っているだけです」
「そう」
王妃はそれ以上何も言わなかった。茶会は短く終わった。
王妃の部屋を出ると廊下の先にクラリッサがいた。彼女は侍女と話していたがリュシアンに気づくと慌てて礼をした。
「リュシアン殿下」
「クラリッサ嬢」
彼女は迷ってから口を開いた。
「あの、エレノア様のことですが」
リュシアンは穏やかに笑う。
「何か聞いたのか」
「いえ、その。昨日、控え室でお会いした方がエレノア様はとても落ち着いていたと。普通ならもっと動揺なさるのにすぐに殿下を気遣っておられたと」
「彼女らしいな」
「殿下はエレノア様と以前からお知り合いだったのですか」
「いや、昨夜が初めてだ」
「そうなのですね」
クラリッサは不思議そうにした。
「何か?」
「いえ……エレノア様が殿下を見た時お顔が変わった気がしたので」
リュシアンは呼吸を止めかけた。
「グレイヴ嬢が?」
「はい。私の見間違いかもしれませんが」
「どんな顔だった」
「驚いたような。でもすぐ普通に戻られて」
クラリッサは自分が余計なことを言っていると気づいたのか、慌てて付け加えた。
「申し訳ございません。私、見間違えたのかも」
「構わない。教えてくれてありがとう」
リュシアンは笑みを崩さず言った。クラリッサは安心したように礼をして去っていく。彼女の背中を見送りながらリュシアンは考えた。
エレノアも反応していた。自分だけではない。彼女もリュシアンを見て何かを思い出した。そう思いたくなるほどの反応だった。
やはりエレノアは何かを知っている。あいつは晴臣本人なのか。それとも黒瀬美緒を知る別の誰かなのか。
いや、晴臣以外に自分をそこまで見抜ける者はいない。前世の美緒がどんな手を使っていたかを知る者。
美緒が歩道橋で死んだことを知る者。やはり晴臣だ。
その日の夜マルセルが戻ってきた。令嬢たちの噂について慎重に集めた報告だった。
「グレイヴ嬢は殿下を庇った令嬢として好意的に見られています」
「好意的?」
「はい。落ち着いていて立派だったと。殿下も彼女を気遣っておられたため大きな悪評にはなっておりません」
「私への疑いは」
「表向きにはありません」
「表向きにはか」
マルセルは答えない。リュシアンは報告書を受け取った。そこには令嬢たちの会話がぼかして書かれている。
エレノアは殿下を責めなかった。殿下は気まずそうだった。王妃陛下が確認された。
腕飾りが引っかかったのではないか。王子がそんなことをするはずがない。しかしなぜあんなにすぐ庇ったのか。
最後の一文でリュシアンの目が止まった。やはりそこへ行く。庇うことは疑いを消さず、別の形で残す。
「彼女はうまいな」
リュシアンは呟いた。マルセルが聞き返す。
「何か仰いましたか」
「いや」
リュシアンは報告書を閉じた。
「グレイヴ嬢はいつ王宮へ来る」
「三日後王妃陛下主催の小さな茶会に招かれております。慈善市の準備について若い令嬢方の協力を募るためのものです」
「私も出る」
「殿下は招かれておりません」
「王妃主催なら顔を出しても不自然ではない」
「殿下」
マルセルの声が硬くなった。
「長居をしなければただの挨拶で通る」
「王妃陛下は距離を置くようにと」
「挨拶だけだ」
「それでも」
「マルセル」
リュシアンは名を呼んだ。侍従は口を閉じる。
「私は王子だ。王宮の茶会に顔を出すことに許可がいるのか」
「……不要です」
「なら、準備をしておけ」
「承知しました」
マルセルは礼をした。その顔には不安が残っているがリュシアンは気にしなかった。
三日後。エレノアがまた王宮に来る。今度はこちらから近づく。
袖の時のように不意を打たれるのではなく、晴臣の影がエレノアにあるのかをこちらから見極める。リュシアンは机の引き出しを開けた。紙を取り出しもう一つ書き足す。
『茶会』
その文字の下に迷ってからこう書いた。
『反応を見る』
エレノアがやったことと同じだ。相手の反応を見る。しかしこれは仕方がない。
先に仕掛けたのは向こうだ。リュシアンはペンを置き、指先についたインクを布で拭った。相手が悪いのだから自分はこうするしかない。前世で美緒が何度も使った言い訳が今も形を変えずに残っていた。
リュシアンは手袋を戻し、引き出しの鍵を確かめた。




