第4話 令嬢の手
エレノア・グレイヴは王宮の控え室で裂けた袖を見下ろしていた。
薄いシルバーグレーの布は肩口から肘の手前まで細く裂けている。乱暴に破られたようには見えない。だが踊りの最中に起きた事故としては十分だった。
王妃付きの侍女は手早く針を通し外からは目立たないよう応急の処置をしてくれた。
「お怪我がなくて本当によろしゅうございました」
「ご迷惑をおかけしました」
エレノアは謝る。
「いえ、グレイヴ様がお気になさることでは」
「私が腕飾りをきちんと留めていなかったのかもしれません」
「殿下も大変ご心配なさっていました」
「そうですか」
「はい。グレイヴ様が殿下をお庇いになったことも皆様ご覧になっていました」
エレノアは袖を押さえる指を動かした。見ていた。その事実だけで事足りる。誰かが見ていなければ意味がない。
リュシアン王子と踊る時エレノアは腕飾りの留め具が甘いことを分かっていた。ほんのわずか、強く引けば外れる。外れた金具が袖の内側へ引っかかれば布は自然に裂ける。無理に引き裂いた痕にはならない。事故として通せる。
それは前世で知った手口だった。
黒瀬美緒。
忘れようとして忘れられる名ではなかった。
衣服が少し乱れれば周囲の目はそちらへ向く。破れた布より慌てる相手を見る。そういう場面をエレノアは知っていた。
最後に自分から庇えば場は完成する。だからエレノアは同じ構図になる余地を作った。
侍女が去った後控え室にはエレノアひとりが残った。
鏡に映る自分を見る。シルバーグレーのドレス。整えた髪。侯爵令嬢としての顔。
その奥に前世の記憶がある。今とは違う名前。狭い部屋。湿った空気。何度も目にした黒瀬美緒の名前。
リュシアン王子について知った最初のきっかけはただの噂だった。
第一王子リュシアンは誰にでも優しい。困っている令嬢を放っておけない。相手が何を欲しがっているのか言われる前に分かる。
そう聞いた時エレノアは記憶に引っかかるものを覚えた。
理由はうまく言葉にできない。ただ喉の奥に小さな棘が残った。
だから夜会で試した。
リュシアン王子がただの王子なら驚いて終わる。偶然の事故として扱われ、しばらく気まずいだけで済む。
けれど彼は違った。
裂けた袖を見た瞬間、何が起きたのかを理解した顔をした。エレノアの指先ではなく布の裂け方を見た。
ただの偶然ではないとエレノアは思った。
「お嬢様」
扉の外からハーヴェイが声をかける。
「入って」
扉が開きハーヴェイ・レインが控え室へ入ってきた。
黒髪の若い執事。五年前グレイヴ領の街道で倒れていた男。記憶の一部が曖昧で過去を持たず、けれど礼儀を覚えるのが早く、今ではエレノアのそばにいるのが当たり前になっている男。
彼が入ってきただけで張り詰めていたものが少し緩んだ。
「お怪我は」
「ないわ」
「袖の方は」
「見ての通り。応急の処置はしてもらった」
ハーヴェイは裂けた部分を確認した。触れはしない。令嬢の袖に執事が人前で不用意に触れるわけにはいかない。ここが控え室で二人きりに近くても王宮には壁の外に耳がある。
「偶然ではございませんね」
「あなたは本当に遠慮がないわね」
「お嬢様が私に遠慮を望まれる時は先にそう仰います」
「では望んでいないということね」
「はい」
ハーヴェイは袖から目を上げた。
「殿下を試されたのですか」
「ええ」
「理由をお聞きしても?」
「まだ言えない」
ハーヴェイは答えなかった。
不満はあるはずだ。けれど追わない。
ハーヴェイはエレノアがリュシアンを意図的に揺さぶったことを知っている。袖の件が偶然ではないこともおそらく最初から察していた。だがなぜそこまでするのかは知らない。
エレノアは話していない。
前世のことを、黒瀬美緒のことを、あの名前のことを。
何一つ、ハーヴェイには話していない。
話せばリュシアンへの憎しみだけでなく、自分がどこまで行くつもりだったのかまで暴かれる気がした。
だからこそ言えなかった。あなたを信じていないのではない。そう言ってもすべてを隠していることに変わりはない。
控え室の外にはまだ王宮の人間がいる。ここで気を抜きすぎるべきではない。
「今夜は帰るわ」
「馬車の準備はできております」
「父には?」
「袖の件は伝えてあります。侯爵様は王宮へ抗議するべきか迷っておいでです」
「抗議はしない」
「よろしいのですか」
「しない方がいい。今は」
今は、その言葉にハーヴェイが何かを言いかけたように見えた。
けれど彼は尋ねなかった。
エレノアも答えを用意しなかった。
「責めたいなら責めていいわ」
「まだ責めません」
「まだ?」
「お嬢様が戻れないところまで行こうとしているかどうか、今は判断できませんので」
「戻れないところに行ったら?」
「止めます」
言葉に迷いはなかった。その声にエレノアの体が反応した。ハーヴェイは「止める」という言葉を簡単な忠義として口にしていない。
エレノアは指先が冷えるのを感じた。
「止めないでと言ったら?」
「それでも止めます」
「主人命令でも?」
「はい」
「本当に扱いづらい執事ね」
「申し訳ございません」
謝っているのに退く気はない。
エレノアは椅子から立ち上がった。肩掛けを直すと裂けた袖は隠れる。王宮を出るまでならこれで十分だ。
ハーヴェイが手を差し出した。エレノアはその手を取る。手袋越しの体温。
ほんの短い接触なのに体が覚えている。
この手に支えられて馬車へ乗った夜がある。この手が髪をほどいた夜がある。この手が明かりを落とした部屋でエレノアの指を包んだ夜もある。
それでも彼には前世を話していない。どれだけ近い距離にいても言えないことがある。
エレノアはハーヴェイの手を借りて立った。
「行きましょう」
「はい」
王宮の廊下を歩く間、エレノアは令嬢としての顔を保った。
ハーヴェイは半歩後ろに控える。近すぎず、遠すぎず。王宮の人々は二人を見た。裂けた袖の令嬢とその執事。今夜の噂に彼の存在もわずかに混じるだろう。
それは避けられない。エレノアはその可能性も考えていた。
リュシアンがハーヴェイを見るならそれはエレノアの周囲を探るためだ。王子が何を見ているのかまだ正確には分からない。だがあの視線の中心にあるのは自分のはずだった。
いずれにしても王子は動く。動けば足跡が残る。エレノアはそれを待つだけ。
前世で黒瀬美緒が他人にやってきたことを今度は王子自身に返す。そう決めたはずだった。
なのにハーヴェイが隣にいると決意が鈍る。彼を巻き込んでいることだけはすでに確かだった。
馬車に乗り込む時ハーヴェイはいつものように手を差し出した。エレノアはその手を取り低く言った。
「あなたを危険に近づけたくないのは本当よ」
「存じております」
「それでも、私はあなたをそばに置いている」
「私も自分でここにおります」
その答えが苦しかった。
馬車の扉が閉まる。王宮の灯りが窓の外で流れ始めた頃、ハーヴェイが口を開いた。
「お嬢様」
「何」
「殿下はかなり動揺しておられました」
「見ていたの?」
「廊下で。お嬢様と殿下が言葉を交わしていた時に」
「そう」
「殿下はお嬢様だけでなく私も見ておられました」
エレノアの指が止まった。
「あなたを?」
「はい」
「怖かった?」
「いいえ」
「それは嘘ね」
「警戒はしました」
「それを怖いと言うのよ」
ハーヴェイは目を伏せた。
「では怖かったのだと思います」
素直に訂正する。そういうところがまた逃げ場をなくす。
ハーヴェイはエレノアの言葉をただ聞き流さない。間違っていれば正し、危うければ止めようとする。
それがありがたくて、同じくらい苦しかった。
「ハーヴェイ」
「はい」
「殿下があなたへ関心を向けるなら、しばらく王宮では私から距離を取って」
「お断りします」
即答だった。エレノアは眉を上げた。
「執事が主人に即答で逆らうの?」
「危険を避けるためなら」
「あなたが近くにいる方が危険かもしれない」
「それでもお嬢様を一人にするよりはましです」
「理由を知らないのに?」
ハーヴェイは黙った。
その沈黙は答えに近かった。理由を知らない。それでもエレノアが危うい場所へ向かっていることは分かる。だから離れない。そういう態度だった。
「あなたは本当に」
エレノアは言いかけてやめた。痛いところを突くと言いかけてエレノアは飲み込んだ。ハーヴェイは怪訝そうに待っている。
「何でもないわ」
「そうですか」
「詮索しないのね」
「してほしい時はお嬢様からお話しになるでしょう」
「ずるいわね」
「よく言われます」
「あら、誰に?」
「お嬢様に」
エレノアは笑った。すぐに笑みを消す。裂けた袖をもう一度見る。細い裂け目。
けれど、そこから王子の内側にあるものが見えた。
黒瀬美緒の記憶。前世の罪。リュシアンの疑念。
どれもまだ言葉にするには早かった。
馬車が揺れ、袖の裂け目が膝の上でわずかに開いた。
エレノアはそこへ指を置いたまま窓の外へ視線を戻した。




