第3話 前世の男
翌朝、王宮の廊下では昨夜の話がもう別の形になっていた。
エレノア・グレイヴの袖がリュシアン殿下と踊っている最中に破れた。彼女は殿下を庇い、殿下も彼女を心配していた。王妃陛下も確認を取ったらしい。
どれも大きく間違ってはいない。だからこそ厄介だった。噂は完全な嘘よりもわずかに事実を含んでいる方が強い。聞いた者は自分で足りない部分を埋める。埋めたものは自分で考えた分だけ疑いにくくなる。
リュシアンは自室の窓辺で朝の庭を見下ろしていた。
王宮の庭師が花壇の手入れをしている。侍女たちが洗濯物を運び、近衛が通路を巡回している。いつもの朝だ。夜会で令嬢の袖が裂けた程度で王宮は止まらない。
だがリュシアンの内側では前世の夜がまだ続いていた。
槙野晴臣。その名を紙に書くことはなかった。
書けばこちらの世界にまであの男を呼び込む気がした。それでも忘れたことはない。前世で美緒の言葉をそのまま信じなかった男。泣きそうな顔をしても怒っても黙っても反応を変えなかった男。
あれが一番邪魔だった。
相手が悪いから自分が何をしてもいいわけではない。晴臣はそんな顔で美緒を見ていた。
最後の夜、晴臣は歩道橋で美緒を呼び止めた。何かを持っていた。記録か、手帳か、証拠か。美緒はそれを奪おうとした。晴臣は渡さなかった。言い合いになり、腕を掴まれ、足元が滑り、手すりが視界の端を流れた。
落ちた。
あの男がいなければ自分は死ななかった。
今世で王子として目を覚ましてからもその答えだけは残っている。
扉が叩かれた。
「殿下。マルセルです」
「入れ」
侍従マルセルが入ってきた。
昨夜よりも表情が硬い。手には数枚の紙を持っている。頼んだばかりの調査にしては早かった。
「グレイヴ侯爵家について分かる範囲でまとめました」
「話せ」
マルセルは紙を開いた。
「エレノア・グレイヴ様。グレイヴ侯爵家の一人娘。年齢は十七。王都での社交は少なく、主に北方領で過ごされています。病弱という噂もありましたが実際は領地管理の補佐や冬支度の手配に関わっていたようです」
「社交に出なかった理由は」
「侯爵家の方針とされています。北方では当主家の者が領地の実務を知ることを重んじるため、王都の夜会より領地を優先していたと」
「変わった令嬢だな」
「はい。ただ侯爵家では不自然ではないとのことです」
リュシアンは椅子に座り足を組んだ。
不自然ではない。そう言われると余計に気に入らない。エレノアは王都にいなかった。だからリュシアンが知らない。王宮で顔を合わせる機会もなかった。前世の男が転生していたとしてもこれまでは見つからなかったことになる。
辻褄は合う。合ってしまう。
「昨夜の袖については」
「仕立屋に確認を取るには時間がかかります。ただ控え室で見た侍女によれば布は古いものではなかったとのことです。裂け方については踊りの中で引っかかった可能性もあります」
「何に」
「殿下の袖口の飾り、または彼女自身の腕飾りに」
「腕飾り?」
「昨夜グレイヴ嬢は右手に細い銀の飾りを着けていたようです」
リュシアンは目を細めた。
腕飾りなら袖を裂くための道具として使える。布の内側にわずかに引っかけ、相手と接触する瞬間に力をかける。強く引けば大げさになる。薄く裂けば事故にも見える。その加減を知っていなければできない。
美緒は知っていた。前世で同じような事を何度もやった。
「腕飾りを確認しろ」
「承知しました。ただ侯爵令嬢の装身具ですので直接は難しいかと」
「分かっている。仕立屋、侍女、控え室にいた者から聞け」
「はい」
マルセルは紙をめくった。
「次にハーヴェイ・レインについてです」
その名にリュシアンの指が止まった。
「話せ」
「五年前グレイヴ領の街道で倒れていたところをエレノア様の馬車に発見されたそうです。怪我と発熱がありしばらく侯爵家で保護。その後行き場がないため屋敷の下働きとして置かれ、現在はエレノア様付きの執事となっています」
「身元は」
「不明です」
「不明?」
「はい。本人は倒れる以前のことをよく覚えていないと。名はハーヴェイ・レインと名乗ったようですがそれ以前の記録は見つかっていません」
「よくそれで令嬢付きの執事になれたな」
「エレノア様が強く望まれたと聞いております。グレイヴ侯爵は最初反対したものの、数年の勤務態度を見て認めたとか」
エレノアが望んだ。身元不明の男をそばに置いた。
リュシアンはその情報を頭の中で並べる。
夜会ではエレノアの目に意識を取られていた。そばにいた執事について覚えているのは礼の仕方と立ち位置くらいだった。
それでも、彼女がその男を必要としていることだけは分かる。
エレノアには晴臣の影がある。あの袖も謝罪もこちらの反応を読んで置かれたものに見えた。
ならば彼女のそばにいる者も調べる必要がある。ハーヴェイは五年前に突然現れ過去を持たない。エレノアはその男をそばに置いた。
問題は執事が何者かだけではない。エレノアがなぜその男を必要としたのか、そこに隠しているものがあるはずだった。
分からないことがリュシアンを苛立たせた。
「ハーヴェイについても調べろ」
「すでに手配しております。ですがグレイヴ侯爵家の内部に踏み込みすぎると」
「分かっている。表立って動くな」
「はい」
マルセルは紙をまとめた。そのまま下がろうとしたが途中で足を止めた。
「殿下」
「何だ」
「昨夜のことですが王妃陛下はしばらくグレイヴ嬢との距離を置くようお考えかもしれません」
「母上が?」
「はい。殿下を守るためにもグレイヴ侯爵家を刺激しない方がよいと」
守る。その言葉が引っかかった。
自分を守る。つまり、危うい状況にいると見ている。
「私は守られる立場か」
「第一王子であらせられますので」
「そういう意味ではない」
マルセルは答えなかった。その無言にリュシアンは笑った。
「お前も昨夜の件を怪しんでいるのか」
「私は事実を知りません」
「質問に答えろ」
「では申し上げます。グレイヴ嬢が意図的に袖を裂いた証拠はありません。同時に殿下がなさったという証拠もありません」
「どちらもないと」
「はい。ですから今は動かない方がよいかと」
正しい忠告だ。だから聞く気になれなかった。
何もしなければ相手が次を置く。前世でもそうだった。晴臣は美緒の動きを調べ、男たちの話を集め、少しずつ逃げ場を削ってきた。黙っていれば向こうの記録が増える。
今世では先に動く。
「マルセル」
「はい」
「グレイヴ嬢が今後出席する茶会や慈善活動を調べろ。誰と会うか、何を担当するか」
「承知しました」
「それと、ハーヴェイの詳細も」
「はい」
マルセルは深く礼をして部屋を出た。
リュシアンは一人になると机の引き出しを開けた。昨夜書いた紙を取り出す。
『エレノア・グレイヴ。調査』
そこへ新しく書き足した。
『ハーヴェイ・レイン』
『腕飾り』
『五年前』
『身元不明』
『晴臣』
晴臣の名を書いた瞬間、指が止まった。インクが乾かないうちに文字の端がにじむ。
前世で自分を殺した男。あの男がエレノアの中にいるのか。あるいは彼女が何かを知っているだけなのか。
リュシアンは紙を折って引き出しへ戻し鍵をかけた。その時外から笑い声が聞こえた。
侍女たちだろう。
内容までは分からない。だが昨夜の話をしているように思えた。令嬢の袖。王子。庇った言葉。そうした断片が廊下を流れていく。
リュシアンは椅子から立ち上がった。扉を開ける。廊下にいた侍女二人が驚いて膝を折った。
「殿下」
「何の話をしていた」
侍女たちは顔を見合わせた。一人が震えながら答える。
「昨夜の夜会の、グレイヴ様のお召し物が素敵だったと」
「袖の話ではなく?」
二人の顔色が変わった。その反応だけで十分だ。
リュシアンは笑みを浮かべた。
「責めているわけではない。怪我がなくてよかったという話なら自然なことだ」
「はい……申し訳ございません」
「謝らなくていい」
言いながらリュシアンは思った。
謝る者は自分が悪いと思っているのではない。相手の機嫌を取るために謝る。美緒はそれをよく使った。先に謝れば相手は強く出にくくなる。謝罪は時に相手の口を塞ぐ。
昨夜のエレノアも先に謝った。申し訳ございません、と。
あれは自分が悪いからではない。場を取るためだ。
リュシアンは侍女たちを下がらせ扉を閉めた。噂はもう動いている。エレノアが動かしたのか。それとも袖が破れた時点で勝手に動いたのか。どちらでもいい。
結果は同じだ。
王子リュシアンは庇われた。庇われたせいで疑われている。
午後、王妃から正式な伝言が来た。
しばらくグレイヴ侯爵家への私的な接触を控えるように。慈善活動や王宮行事で顔を合わせる場合も必要以上に長く話さないように。
母の指示としては穏当だった。だがリュシアンにはすでに一手遅れたように感じられた。
距離を置けばエレノアの思うつぼだ。
彼女は疑いの種だけ置き、後は離れていればいい。王子が近づけば怪しい。近づかなければ何かあったのだと見られる。どちらを選んでも昨夜の袖は消えない。
リュシアンは伝言の紙を机に置いた。王妃は王子を守ろうとしている。しかし、その守りもまたリュシアンの動きを制限する。
エレノアはそこまで読んでいるのか。
晴臣なら読むだろう。
あの男はこちらが次にどこへ逃げるかを見ていた。
夜、寝台に入っても目を閉じると灰色の瞳が浮かんだ。
エレノアの目。晴臣の目。その二つが何度も重なった。
リュシアンは寝返りを打つ。前世では自分が相手を眠れなくさせる側だった。
今は逆だ。
それが何より許せなかった。




