第2話 庇われた王子
エレノア・グレイヴが控え室へ下がった後も夜会は続く。
音楽隊はすぐに次の曲を始めた。貴族たちは何事もなかったように踊り、夫人たちは扇の陰で会話を戻した。王宮の夜会とはそういうものだ。小さな事故や不調で場全体を止めることはない。誰かが倒れたわけでも血が流れたわけでもない。
ただリュシアンを見る目だけは変わっていた。正面から疑う者はいない。
第一王子が侯爵令嬢の袖を破ったなど、誰も口にはしない。だが声に出さないものほどよく残る。令嬢の袖が王子と踊っている最中に裂けた。そして令嬢は王子を庇った。そこまでは誰もが見ている。
リュシアンは王子の顔で立ち続けた。
「殿下、お疲れではございませんか」
クラリッサ・モントレーが声をかけてきた。心配そうな顔をしている。
だがその目の奥には好奇心がある。悪意ではない。むしろ彼女は善良な令嬢に分類されるだろう。善良だからこそ目の前で起きたことを気にする。気にしていることを隠せない。
リュシアンは微笑んだ。
「少し驚いただけだ。グレイヴ嬢に怪我がなければいいのだが」
「エレノア様は殿下のことを悪く仰っていませんでした」
「彼女は礼儀正しい令嬢だな」
「はい。私もそう思います」
クラリッサは頷いた。その素直さが今のリュシアンには邪魔に感じた。
エレノアが王子を庇った。その事実をこういう令嬢が無自覚に広げる。
悪く広めようとするのではない。むしろ「エレノア様はお優しい」「殿下もご心配なさっていた」といった形で話す。美談に見せながら、話の中心には必ず破れた袖が残る。
それが一番扱いにくい。
リュシアンには前世の記憶があった。
前世の名は黒瀬美緒。
男に生まれた今とは違い、女として生きていた。夜の街で男の欲や弱さや罪悪感を見てきた。泣く前の顔を作れば相手はうろたえた。庇えば周囲は相手を疑った。声を荒げる必要もなく、傷ついた女の顔をしていれば場は勝手に動いた。
だから分かる。相手を糾弾しなくてもいい。庇えばいい。周囲が勝手に疑ってくれるから。
「クラリッサ嬢」
「はい」
「あまり今夜のことを気にしすぎないように。グレイヴ嬢にも気まずい思いをさせてしまう」
「申し訳ございません」
「謝ることではない。ただ、彼女のためにも」
「はい。分かりました」
分かっていない。たぶん、彼女はこの後も誰かに話す。
殿下はエレノア様を気遣っていた。エレノア様も殿下を庇っていた。お二人とも立派だ。そんな言い方で。
そして聞いた者は思う。庇うほどのことがあったのか、と。リュシアンはクラリッサが離れていくのを見送った。
手袋の内側で指先だけがまだ強張っていた。裂けた袖。エレノアの目。あの庇い方。偶然にしては揃いすぎていた。
夜会が終わる前に王妃アデライードから使いが来た。
「リュシアン殿下。王妃陛下がお呼びでございます」
「分かった」
リュシアンは広間を離れた。廊下へ出ると音楽が背後で薄くなる。壁際の灯りが長く伸び、夜会場とは別の静けさがあった。
王妃の控え室へ入ると母はすでに椅子に座っていた。
王妃アデライードは淡い紫のドレスをまとっている。夜会の場では柔らかく笑う王妃だが今は違う。王妃として、母として、目の前の息子を見ていた。
「座りなさい」
「はい」
リュシアンは向かいに座る。王妃はすぐに本題へ入った。
「グレイヴ嬢の袖の件です」
「彼女に怪我は」
「ありません。控え室で侍女が確認しました。袖も応急の処置を済ませています」
「それならよかった」
リュシアンは自然に答えた。王妃の目は動かない。
「あなたは彼女に触れましたか」
予想していた問いだった。それでも返事をする前に手袋の縫い目を押さえていた。
「踊りの最中です。手は取っていました」
「そういう意味ではありません」
「意図的に袖を掴んだか、という意味なら触れていません」
「本当に?」
その問いにリュシアンは息を整えた。
本当に。
この言い方は苦手だった。相手が何かを知っているようにも何も知らずに揺さぶっているようにも聞こえる。
前世では美緒が使う側だった。男が「何もしていない」と言えば「本当に?」と返す。それだけで相手は説明を増やす。説明が増えればどこかが乱れる。
今は母がそれをしている。リュシアンは乱れないように息を整えた。
「本当です」
「グレイヴ嬢もあなたがしたことではないと言っています」
「では問題はないのでは」
「問題はあります」
王妃は即座に言った。
「令嬢の袖が王子と踊っている最中に裂けたのです。それだけで十分に噂になります」
「彼女が庇ったからですか」
「庇ったという言い方をあなたがするのですね」
リュシアンはそこで自分の言葉の選び方を誤ったと気づいた。王妃は見逃さない。
「グレイヴ嬢はあなたを責めませんでした。ですがそれを庇ったと受け取る者はいるでしょう」
「私もその一人だと?」
「あなたは今そう言いました」
リュシアンは黙った。言葉が少しずつ絡む。不快だった。
「母上は私を疑っておられるのですか」
「疑いたくはありません」
「なら」
「だから確認しています」
王妃は声を荒げない。それが余計に逃げ道を狭くする。
「リュシアン。あなたは王子です。あなたにその気がなくても相手は拒みにくい。あなたが何かをしたように見えれば相手は本当のことを言えないと周囲は考えます」
「私は何もしていません」
「ええ。今はそう聞いておきます」
「今はですか」
「あなたは第一王子です。あなたの振る舞いは王家の振る舞いとして見られます。軽く扱える話ではありません」
今は。
その二文字が残った。リュシアンは王妃の控え室を出た後もしばらく廊下に立っていた。
母は信じていないわけではない。だが、完全には信じてもいない。それは分かる。
そして、エレノア・グレイヴはその状況を作った。おそらく意図的に。そうでなければあの庇い方はありえない。
「殿下」
声をかけてきたのは侍従のマルセルだった。
リュシアンより少し年上の男で王宮内での世話役を務めている。忠実で口が堅く、余計なことを言わない。だから長くそばに置いている。
「グレイヴ嬢について調べろ」
リュシアンは言った。マルセルはすぐに答えない。
「殿下」
「聞こえなかったか」
「聞こえております。ただ、今夜の件でグレイヴ侯爵家を探ればかえって噂になります」
「表立って調べろとは言っていない」
「どの範囲まででしょうか」
「家族構成。社交歴。王都での交友。使用人。最近王宮へ出入りした理由。特に彼女がこれまでどのような場にいたか」
「承知しました」
マルセルは頭を下げた。だが、顔には警戒があった。
「何だ」
「恐れながら殿下、グレイヴ嬢をお疑いなのですか」
「疑う?」
「袖の件が偶然ではないと」
リュシアンはマルセルを見た。侍従は目を伏せない。その態度が晴臣を思い出させた。
槙野晴臣。
前世で美緒を追い詰めた男。泣き顔にも揺れず、こちらが作った逃げ道を一つずつ塞いだ男。
黒瀬美緒はあの男に追い詰められて死んだ。
雨の歩道橋で手すりの向こうへ落ちた。
余計なことを聞くな、と言いかけてやめる。廊下には人の気配がある。今は声を荒げるべきではない。
「確認するだけだ」
「かしこまりました」
「それと」
リュシアンは迷い、続けた。
「グレイヴ嬢が誰かに似ていると言われたことがあるかも調べろ」
「誰かにでございますか」
「ああ、顔だけではない。立ち方、目の向け方、そういうものも含めてだ」
マルセルの眉が動いた。
「承知しました」
これ以上聞くな。リュシアンがそう視線で示すとマルセルは一礼して下がる。一人になると廊下の冷えが肌へ入ってきた。
リュシアンは歩き出す。
自室へ戻る途中、控え室へ続く廊下の角でエレノアの姿が見えた。
彼女は王妃付きの侍女に付き添われて歩いていた。裂けた袖は上から薄い肩掛けで隠されている。顔色は悪くない。むしろ、先ほどより落ち着いて見えた。
そして、その後ろに男がいた。黒髪の若い執事。背が高く、地味な服装だが姿勢がいい。彼はエレノアの半歩後ろを歩き、必要以上に近づかず、それでも彼女の動きにすぐ反応できる距離を保っていた。
リュシアンはその立ち位置を見て足を止めかけた。
令嬢の後ろに控える者にしては動きに隙がなさすぎる。前に出ない。だが、エレノアが一歩でも足を止めればすぐに支えられる距離にいる。そういう執事なのだろう。
執事はこちらに気づくと一礼した。その動きは執事として正しい。余計な意味はない。
だが、リュシアンはその礼から目を離せなかった。エレノアも足を止めた。
「リュシアン殿下」
彼女は礼を取る。執事も後ろで頭を下げたままだった。
「袖は」
「侍女の方に応急の処置をしていただきました。ご心配をおかけしました」
「怪我がなくてよかった」
「はい」
短い会話。周囲には自然に聞こえるだろう。だが、リュシアンの視線は執事へ向いた。
「そちらは?」
エレノアは一度だけ後ろを見た。
「私付きの執事です。ハーヴェイ・レインと申します」
ハーヴェイは頭を下げたまま、余計な言葉を挟まなかった。
その沈黙がかえって目についた。
エレノアは一人でここにいるわけではない。彼女の後ろには彼女の表情を見て、彼女の歩幅に合わせる者がいる。
リュシアンは笑みを作った。
「グレイヴ嬢はよい執事を連れているようだ」
「私には過ぎた者です」
エレノアが答える。ハーヴェイは何も言わない。この無言も気に入らなかった。
守られているように見える。あるいは隠しているものを守らせているようにも。
だが、気にするべきは執事ではない。
リュシアンはエレノアを見た。こちらを外から見てくる目。傷ついた側に立ちながら、場の空気をこちらへ押し返す言葉。
あの男ならそうする。そう思わせるのは彼女の方だった。
エレノアがリュシアンの視線に気づいたように口を開いた。
「殿下?」
「いや」
リュシアンはすぐに返した。
「今夜は災難だったな。ゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」
エレノアは礼をした。ハーヴェイも深く頭を下げる。二人は廊下の奥へ去っていった。その背中をリュシアンはしばらく見ていた。
エレノアはこちらの手口を知っている。偶然ではない。
そう思えば思うほど前世の夜が近づいてくる。歩道橋の上。濡れた床。晴臣の顔。自分を死へ落とした男。
リュシアンは自室へ戻ると手袋を外した。指が震えている。
自分は王子だ。
今世では誰にも追い詰められない。そう思ってきた。だが、今夜の件は違った。
前世の手口が自分へ返ってきた。その手口を知っている者が王宮にいる。リュシアンは机に向かい、短く書いた。
『エレノア・グレイヴ。周辺調査』
紙に名前を残すと呼吸が戻った。まずは周囲から調べればいい。エレノアの正体に近づくものをひとつずつ集めればいい。
前世を知る者が本当にいるのなら。
今度こそ先に潰す。
リュシアンはその紙を引き出しへ入れて鍵をかける。
夜会の音楽はもう聞こえてこなかった。




